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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「イマージング・チャーチ・ムーブメントとは何ですか。そしてどのようにしたら私たちはその動きを識別することができるのでしょうか。」(by ジョン・マッカーサー&フィル・ジョンソン)

ポストモダニズムと聖書の真理 知ることについて(epistemology) 同性愛問題 宣教(world mission)

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What's So Dangerous About Emerging Church? (Grace to You)

 

読者からの質問:イマージング・チャーチ・ムーブメントとは何ですか。そしてどのようにしたら私たちはその動きを識別することができるのでしょうか。

 

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John MacArthur

 

ジョン・マッカーサー:ひと言で言いますと、イマージング・チャーチ・ムーブメントというのは、「聖書に関する『不確かさ』という点に価値があり、美徳さえある」と考える、無定形のゆるい教会諸連合のことをいいます。この運動の根幹にあるのは、「聖書が何を意味しているのか正確に理解できる、などと考えることさえすべきでない」という彼らの信奉です。

 

そしてこれは私にとっては大きな問題です。なぜなら、これは聖書の明瞭さに対する攻撃であり、彼らは、不確かさというのがあたかも崇高なリアリティーであるかのように自らを高揚させています。

 

つまり彼らは自分たちがついに正直に「実は、私たちは聖書が本当には何を意味しているのか分かっていないのです。これが確かに真理だとは言い切れない気がします。ですから、、、ですから(そういう風に正直で謙遜な私たちは)真に霊的なクリスチャンなのです」と考えるに至っています。

 

そこには誤った形の霊的プライドが見え隠れしているのですが、彼らはそれを「謙遜」と呼んでいます。「私たちの深い謙遜さが、『聖書が何を意味しているのか自分は知っている』と言わせないのです」と。

 

ですから、この運動の核には、聖書の明瞭性に対する否定があります。私たちが聖書が真に意味することを「知り得る」ということに対する否定です。そして前述しましたように、これは、雑多なアプローチやスタイルを寄せ集めたものですから何か一定の形を持っているわけではありません。

 

しかし彼らはそれがあたかも真の霊性であるかのようにこの「秘義」を受容しています。このようにして、それが秘義礼讃、無知礼讃、「本当には分かり得ないのです」ということに対する礼讃につながっていきます。これは一種のリベラリズムであると私は理解しています。

 

 

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Phil Johnson

フィル・ジョンソン:イマージング運動をリベラリズムと比較しておられますが、興味深いです。と言いますのも、イマージング運動の典型的指導者たちは、自分たちが支持しているのはポストモダニズムだと言っているからです。そして神学的リベラリズムは、、モダニズムから引き出されてきました。そしてイマージングの人々は、自分たちがモダニズムに反応していると言っています。この点に関してどう思われますか。

 

マッカーサー:それは単にもう一つの哲学に過ぎないと思います。モダニズムと同様、ポストモダニズムもまた、もう一つの悪質な哲学に過ぎません。しかし両者に共通しているのは、両者共、聖書を攻撃していることです。

 

モダニズムは理性――人間理性――を王様に仕立て上げました。近代主義においては理性が至高のものとされていました。トーマス・ペイン、「理性の時代」、啓蒙主義、ルネッサンス、、こういったものから、人間理性への礼拝が生み出され、理性が神を踏みつけました。

 

そして今この時代は、「秘義」が聖書を踏みつけています。モダニズムでは人間理性が聖書を踏みつけ、ポスト近代では、秘義が聖書を踏みつけているわけです。

 

ここには聖書の明確な教えを受け入れたくないという思いが土台にあります。「旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」(イザヤ35:8b)。神は私たちが正しい聖書理解に対し責任をとることができるよう助け支えてくださいます。

 

しかしながら、イマージング運動の人々の多くは、リベラル主義者たちと同様、聖書の明瞭な教えを否定しています。そして彼らがそれを否定する本当の理由は「それが理解できない」とか「不明瞭だ」というのではなく、彼らは聖書がはっきり明確に言っている内容が好きではないからなのです。

 

「人々は光よりもやみを愛した」(ヨハネ3:19)。光はここにあります。しかし彼らはその光を憎んでおり、それゆえ光から逃げようとしています。ですから問題は聖書が明瞭ではないということではないのです。実際、それはきわめて明瞭です。

 

同性愛と聖書の明瞭性

 

そして彼らの抱える大きな問題の一つが、イマージング教会における同性愛イシューです。彼らはこの問題に関してはっきりした立場を取りたがっていません。しかし聖書は同性愛について曖昧でも不明瞭でもありません。それは本当にきわめて明確です。同性愛行為をする者は神の国を継ぐことができないと聖書にははっきり書いてあります(1コリント6:9-10)。

 

ローマ1章に記されている同性愛は性的倒錯であり、それがある文化の中で発生し、次第にその文化を支配し始めるようになる時、それは神の怒りと裁きのevidenceです。ですから聖書は明瞭です。しかし彼らはこの明瞭性を欲していません。そして光から逃げようとします。聖書は光であり、暗闇ではない。でも彼らは暗闇を好む。。なぜなら、彼らの行ないが悪いからです。

 

ですから、イマージング運動全般の背後にある目的は、――それが意識的なものであれ、無意識的なものであれ――、聖書が真に言っている内容に対する不快感にあると思います。不快感は、福音に関することかもしれませんし、罪や徳に関することかもしれません。いずれにしても、彼らはそれを好まず、だから、逃げ道としては、、、「それは明瞭ではありません」となります。これは聖書を退けるための新たなる別の手段であると言っていいでしょう。

 

ジョンソン:そういった一連のことは現在、世俗文化で起こっていることをそのまま鏡で映しているかのようですね。

 

:もちろん、そうです。

 

:真理についての明瞭な言明に対する曖昧な態度というのは、世俗世界でも起こっていることであり、世俗メディア等あらゆる機関が、「すべては倫理的に曖昧で不明瞭である」というスタンスをとるようになってきています。

 

:そうです。そしてこれは何も今日始まったことではありません。どんな文化であれ、福音から離れ、救いから離れている文化は神に敵対しています。それは裸で生活するアフリカの少数民族であっても、インドネシアの一部族であっても、15世紀の中世人であっても、1世紀のローマ文化の中に生きた人であっても同様です。世俗社会の人間思想は不敬虔であり、非聖書的です。

 

世俗文化を「聖別する」

 

この運動に関し非常に興味深い点は、イマージング・チャーチが、文化を「聖別しよう, sanctifyしよう」としていることです。イマージング・チャーチは、ポストモダン文化を――あたかもそれが合法的であるかのように――聖別しようとしており、「こういった人々にリーチするためには、我々は彼らのようにならなければならないのだ」と言っています。が、それは決して聖書的な方法ではありませんし、これからも決して聖書的にはなり得ません。

 

聖書は変わりません。聖書はカメレオンではありません。そして聖書は、移り変わり変遷しつつ文化に適応していくようなことはしません。それは文化に対峙します。それは土着文化に対峙します。古代文化に対峙し、現代文化に対峙します。聖書は、あらゆる時代状況にあって、不変に据えられた真理であらゆるトレンドに対峙します。

 

イマージング・チャーチは聖書の明確な言明を信じようとしないだけでなく、そういった聖書の明確な言明を握って文化に対峙することを嫌がっています。そして「キリスト教はどうあるべきか、『文化』に決めていただこうではないか」という態度をとっています。

 

次につづきます。

 

参考になるビデオ: