巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「オープン神論 "Open Theism")」の教えの危険性について by ティム・チャーフィー

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Tim Chaffey, The Dangers of Open Theism

 

オープン神論(開放神論;Open theism)は、近年、エヴァンジェリカル界で人気度を博しつつある教えです。社会にもっと受け入れられるような神提示をしようという努力から、グレッグ・ボイド、クラーク・ピンノック、リチャード・ライス、ジョン・サンダーズといった人々は、次のような神像を普及させています。すなわち、「神は、将来的に起こることについての詳細一つ一つはご存知でない・・・将来は、少なくともある程度においては、変更可能(open ended)であり、神はそのようなものとしてその事をご存知であられる」と。〔1〕

 

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これは聖書的な神像でしょうか。善意からこのような議論をされている上述の人々は、聖句の解釈をどこか誤っているのでしょうか。それとも、それはもっと深刻な性質の誤謬なのでしょうか。オープン神論は、異端的でさえあるのでしょうか。

    

これらの問いに答える前に、なぜ上記のような方々がこの見解を促進しているのか、その背景・理由について見てみることにしましょう。グレッグ・ボイドはおそらく「オープン神論」推進者の中でも最も有名な方であり、広範囲に渡り、「オープン性神学(“Openness Theology”)」をキリスト教会に普及させた人の一人です。

 

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1992年、ボイドは「懐疑論者からの手紙(Letters From a Skeptic)」という本を出版し、その中で、自分がいかにして、未信者の父親に、「聖書が合理的にも知的にも存続可能なのか」ということを熱心に説いた経緯について触れています。この本を読むと、彼がなぜ「オープン神論」を説くようになったのか、その動機がよく伝わってきます。

 

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そしてこの著書からも明瞭なのは、ボイドは、「愛と平和とあわれみの神像」を推進させることによって、「怒りと裁きと憤怒の神像」をなんとか払拭しようとしていることです。しかしながら、神はどちらか一方ではなく、これらすべて、そしてそれ以上の属性をお持ちになっている方です。神の愛とあわれみを説くと同時に、神の怒りと裁きを説くことは、互いに相反することではなく、両者の間に矛盾はありません。実際、完全な愛は、完全な義を要求するのです。

   

彼らを「オープン神論」に向かわせたもう一つの要因として挙げられのは、神の主権に関する過激なカルヴァン主義者たちの見解に対する過剰反応ではないかと思われます。実際、ある種のカルヴァン主義者の表現する神の主権というのはあまりに行き過ぎており、そのため、人間には全く自分の意志がないように彼らは描き出してしまっています。

 

実際、多くのクリスチャンは、「神の主権」と「人間の自由意志」という二つの聖書的教えを共に受け入れる代わりに、どちらかの極端に偏ってしまっています。それを座標軸にすると、カルヴィニズム側の最極が、いわゆる「ハイパー・カルヴァン主義者」であるのに対し、「オープン神論」推進者たちは、もう片方の最極、つまり「ハイパー・アルミニウス主義者」の範疇に入るでしょう。

 

そして彼らをハイパー・アルミニウス主義化させたのはひとえに、彼らが神の正義や怒りを犠牲にして、神の愛の部分だけを過度に強調しすぎているためです。それと同様のことが、ハイパー・カルヴァン主義者にも言えます。彼らは彼らで、神の愛と憐れみを犠牲に、神の主権の部分だけを過度に強調しすぎているのです〔2〕

   

リチャード・L・メイフー〔3〕は、グレッグ・ボイド著『God of the Possible(可能の神)』に関する優れた批評を書いています。ボイドが事実上、「オープン神論」推進の第一人者であるため、メイフーのこの書評は、この運動全体の抱える神学的誤謬を要約する論稿ともなっています。"The Impossibility of God of the Possible”〔4〕の中で、メイフーは、ボイドの「オープン神論」がなぜ間違っているのか、8つの理由を挙げています。〔5〕

 

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 Richard Mayhue, The Master's Seminary

 

1)正統的キリスト教教理の歴史自体が、ボイドの立場を肯定せず、明確に否定しています。〔6〕

2)「可能の神」はその論拠を、神学ではなく、哲学に置いています。

3)本著は人間を神格化し、神を人間化しています。

4)ボイドはその議論の中で、知られざる、奥義をもった神の側面を廃棄しています。

5)本著は、正常でない方法論の上に構築されています。

6)「可能の神」は、擬人(情)法(anthropopathism:人間的感情や心情を神に帰すること)という文芸手法を棄却しています。

7)ボイドの立場は、全能の神の神性をおとしめます。

8)著者は、決定的聖書テキストを軽視しています。

 

メイフーは、8つの論点を詳説し、なぜ『可能の神』が、全能の神を表すまことの聖書的表象として私たち福音主義クリスチャンが受け入れることのできる本ではないのかを示しています。〔7〕

 

不幸なことに、オープン神論は、しだいに人気度を高めていっています。おそらくその理由の大部分は、クリスチャニティ・トゥデイと、福音主義神学協会(ETS)の宣伝によるところが大だと思います。〔8〕私たちキリスト者は、「すべてのものを識別して、良いものを守る」(1テサ5:21)必要があります。そして、開放神論もまた、聖書の御言葉につき合わせ、識別チェックを受けなければなりません。

    

使徒パウロは、「むなしいだましごとの哲学」(コロ2:8)によって騙されることのないよう、信者たちに警告しています。不幸なことに、ボイドと彼のオープン神論仲間たちは、思考のベースを、神の言葉よりもむしろ、人間の知恵(哲学)に置くことにより、重大な誤謬に陥っています。〔9〕

 

私は哲学に完全に反対しているわけではありませんが、キリスト者はいつも、神の言葉で自らの哲学を矯正していただくよう神に求めるべきであって、その反対であってはならないと考えます。オープン神論者の神学は、哲学の影響の傘下にあるため、彼らは、自論にフィットさせるべく、多くの聖句および主要なキリスト教教理を再解釈しなければならない羽目に陥っています。〔10〕

 

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おそらくオープン神論の抱える最大の神学的誤謬は、神の全知(omniscience)に対する彼らの低い見方にあるでしょう。神の全知を認めていると言いつつも、その実、彼らオープン神論者たちは、「神は未来のことに関し、すべてをご存知であるわけではない。なぜなら、未来というのは未だそこになく、知り得ないものだから」と主張しています。ボイドは次のように述べています。

 

「しかしながら、各人が今後、どのように自由に行動していくかということを主が前もって知っておられるとみなす事はすなわち、各人の自由行動がすでに知られ得るものとしてそこに現存するということを前提することに他なりません。――その人が自由にその行動を起こす前にさえ!いいえ、そんなことはありません。」〔11〕

 

こういった言明を単なる意味論上のものとしてやり過ごそうと思う方もいるかもしれませんが、実際、ここに潜む問題は、それよりもはるかに深刻な性質のものです。

 

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オープン神論者にとって、神というのは、時間によって制約された存在です。しかし聖書は、神が時間を創造されたと教えています。「初めに、神が天と地を創造した」(創1:1)。創世記1章1節の時点で「時間」というものが始まってこそ、「初め “the beginning”」ということは可能になります。アインシュタインの相対性理論もまた、時間というのを、「宇宙における物理的所有物(a physical property)」だと仮定しています。物質(matter)が存在しないところに、時間も存在しません。なぜなら、時間に先行して物質が存在するからです。

   

しかしながら、オープン神論者は、往々にして、仮想の人物を構築することで、この点を論破しようとします。彼らは言います。「個人が将来的に自由に選び、行なおうとしていることを概観すべく、神は時間の流れというのを俯瞰することはできない」と。

 

しかしこの仮想人物は、神のご性質に関するオープン神論者の誤解そのものに背反しています。神は、私たち人間のように、「時間内」に制約された存在ではないのです。神は時間を超越したお方です。神は、汎神論者の唱えるような「被造物の一部」でもありません。

 

神はそれの「外」におられ(超越しておられ ; transcendent)ますが、時間的にも空間的にもご自身の望まれる時に介入することができる方です。神は物理的に宇宙に束縛されていないため、時間によって影響されることはありません。従って、神は未来をみるにあたり、「時間の流れを俯瞰する」必要はないわけです。神は、同時に、時系列すべてを鳥瞰します。

    

この概念を理解するために、パレードの譬えを挙げたいと思います。今、みなさんは地元のパレード行進を見ようと、歩道に立っています。さあ、前列の一群があなたの前を過ぎ去っていき、真ん中の人たちが過ぎ去っていき、そして最後に後部で行進していた人々の群も過ぎ去っていきました。あなたの観点からすると、このパレードは線状のものです。

 

同じ事が、私たちの時間理解についてもいえます。これもまた線状のものです。私たちは時間の中のある一点(現在)を通過し、次の点(未来)に進み、そして、さらに次の点に進む、、という動きを続けています。しかしこれは神には当てはまらないものです。

 

先ほどのパレードの譬えを思い出してください。今回、みなさんは歩道ではなく、ヘリコプターに乗り、上空を飛びながら、パレード行進を見下ろしています。みなさんは、同時に、前列、真ん中、後列すべてを鳥瞰することができます。神もまたこのように時間をみておられます。神にとって、私たち人間が将来何をするかということを待つ必要はありません。神は今、時系列すべてをみておられます。

  

未来のことを告げるという御能力を主はご自身の誉のためにも重んじておられます。イザヤ書44-48章において、神は、ご自身が唯一のまことの神であるということをイスラエルに確証しておられます。そして章全体を通し、主は、100%の正確さを持ったご自身の預言の御力について言及しておられます。「先に起こった事は、前からわたしが告げていた」(イザ48:3)。

 

黙示録はその大半が未来に起こる出来事についてです。そしてそれらの出来事の多くは、それが宣言されてから少なくとも1900年経った、これから後に成就されようとしているものです。もし私たちが彼らの主張するいわゆる「リスクを冒す神」に仕えているのだとしたら、それなら、神は未来のことを推測するかなり強運な方だということになるでしょう。

 

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しかしそれは間違っています。神は未来のことをお告げになる際、どんなリスクも冒しません。そうする必要がないからです。主は、自由存在としての各人によって為されるあらゆる自由選択について完璧な知識をもっておられます。神は将来的に起こることを「知って」います。憶測するのではありません。

  

ボイドおよび彼の陣営にいるオープン神論者たちの見解が正しいのなら、それなら、サタンが神を偽り者とすることなどいとも簡単にできてしまうでしょう。「不法の人(罪の人)」(反キリスト;2テサ2:3)が現れる時、サタンは、黙示録が反キリストに関して言っていることに反した行為を、この反キリストにとらせるよう仕向けることができるでしょう。反キリストを拝み、彼の刻印を押されることを拒む人たちの首をはねる代わりに(黙示20:4)、彼は電気椅子の上に彼らを置くこともできるでしょう。そうなると、聖書的預言は無効にされ、そして神は偽り者にされてしまいます。〔12〕

  

それに対し、オープン神論の教えを説く人々は通常、次のように応答します。「神は、たしかに未来のある出来事に関してはご存知です。ですが、『全部が全部をご存知』というわけではないのです。主はある一連の出来事を引き起こしますが、その他残りの出来事に関しては、これを各個人の選択にお任せになっており、主は各人に選択能力をお授けになっています。」

 

換言すると、ある種の出来事は予定されています。それは必ず起こらなければなりません。なぜなら神がそう仰せられたから。しかし、それらの事が成就されるに当たり、神はある種の個人の自由意志を踏みにじらなければならなくなる、ということです。

   

ここにおいて、オープン神論者は、究極的ジレンマに追い込まれます。彼らの神学全体は、ハイパー・カルヴァン主義者の「予定説」に対抗するものとしての、人間の自由意志をベースにして建っています。しかしながらそれと同時に、彼らは自らが最も避けたいと願っている、その事を是認してしまっているのです!つまり、「神は、ご自身の望むままに、ある種の個人を強制して無理やりなにか事を行なわせる存在なのだ」と。〔13〕

 

この事実一つだけをとっても、オープン神論の生命線は絶たれてしまいます。なぜなら、この教えは、望みのない自己矛盾の上に打ち建てられているからです。

 

オープン神論がもたらしている弊害はそれだけにとどまりません。私たちの持つ神観というのは非常に大切です。もしある人が神のご人格や御業に関し、的外れな見方をしているのなら、その人の信奉するその他の神学もまた、歪んだものになっていく可能性が大です。〔14〕

 

オープン神論の強力な推進者であるロバート・ブロー(Robert Brow)は、クリスチャニティー・トゥデイ誌の中で、「神聖な怒り、神の義、神の裁き、神の贖いといった聖書的概念、および福音主義神学のその他すべての側面に関する新しい説明」を提唱しています。〔15〕

 

彼の発言はさらにこう続きます。「十字架は、神の裁きとしての支払い(judicial payment)ではなかったのです。そうではなく、それは、キリストがいかにこれまでずっと私たちの罪のために苦しんでこられ、今も苦しんでおられるのかということの、可視的、時空的表現に過ぎなかったのです。」〔16〕

 

これは、「歪んだ神観というのが、いかにその人の持つその他の諸教理をも歪曲していくのか」ということを示す古典的例です。

 

おわりに

私たちは皆、若い伝道者テモテに対するパウロの勧告から学ぶことができると思います。

 

2テモテ2:15、16、23-26

15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

16 俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、、

23 愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。

24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、

25 反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

26 それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。

 

この聖句は、クリスチャンたちが愚かな思弁を避けるよう説いています。不幸なことに、あまりに多くのキリスト者が、「ということは、私たちは、誰かが誤りに陥っていても、議論を始めたり、相手を正したりすることさえしてはいけないのだ」と思い込んでいます。

 

しかし、それは違います。なぜなら、パウロ自身、テモテに、誤りに陥っている人を柔和な心で訓戒するよう命じているからです。本稿でなされたオープン神論に対する批評も、このスピリットの内になされています。そして、これは開放神論を奉じている人々の人格や信仰を攻撃するものではなく、彼らの考えの間違いを示すことで、これらの人々が目ざめて「悪魔のわなをのがれる」ようになるためです。〔17〕

 

 

[1] Greg Boyd, God of the Possible: A Biblical Introduction to the Open View of God (Grand Rapids, MI: Baker, 2000) p. 8. 

[2] When we use the term “overemphasize” here we do not mean to imply that God is not sovereign.  We believe He is sovereign over all things.  The “hyper-Calvinist” seems to focus only on God’s sovereignty [i.e. God can do whatever He wants to do with and to man.]  They should balance this with God’s other attributes [i.e. Since God is sovereign and omnibenevolent (all-loving) then He will only do with and to man what is in line with His nature to do.]

[3] Mayhue is Senior Vice President and Professor of Pastoral Ministries and Theology at The Master’s Seminary.

[4] This article is available in .PDF format for free at http://www.tms.edu/tmsj/tmsj12h.pdf  The entire journal (Volume 12, Number 2) is devoted to critiquing open theism and is available for download at http://www.tms.edu/tmsj01.asp.

[5] Richard L. Mayhue, “The Impossibility of God of the Possible,” The Master’s Seminary Journal 12/2 (2001): 203.

[6] We do not base our doctrine on church history but on the Bible.  However, one would be wise to study church history so that he is not constantly trying to “reinvent the wheel.”  Since open theism cannot be found in church history [Socinus was a heretic who held a similar view to Boyd’s] open theists should be extremely careful in what they believe.  In other words, if no Christian has come to this conclusion after nearly 2,000 years, what makes open theists believe they have finally reached the truth?

[7] Mayhue, 207.

[8] CT has published several articles portraying open theism in a positive light (it has also published some critiques).  The ETS has refused to take a stand against Pinnock and Rice causing some well known members to resign, including Norman L. Geisler, a former president of the ETS.

[9] Robert L. Thomas, “The Hermeneutics of Open Theism,” The Master’s Seminary Journal 12/2 (2001): 179 – 202.  Available for free download at www.tms.edu/tmsj/tmsj12i.pdf

[10] Open theists would likely object to this statement; however, based on their writings and lectures it is painfully obvious that this statement is accurate.

[11] Gregory A. Boyd, Letters From a Skeptic (Wheaton, IL: Victor, 1992) p. 30.

[12] God Himself established the rules for prophecy.  If a prophecy ever failed then the prophet was to be considered a fake (Deut. 18: 20 – 22).

[13] Of course, this is from a premillennialist’s perspective.  It seems that many open theists are preterists.  However, this does not solve the problem for them since hundreds of Old Testament prophecies were fulfilled in the New Testament.  Each of these required the free decisions of individuals.  This brings up the same problem for the open theist, either God forced these individuals to do what He said they would do [Antiochus Ephiphanes’ persecution of the Jews described in Daniel 11: 30 – 34] or He knew ahead of time what these people would freely do.  It is clearly incredible to believe that God was lucky enough to predict the scores of intricate prophecies found in the book of Daniel.

[14] This is not to say that every open theist believes in the wrong God.  We do not question Boyd’s or any other open theist’s faith in Christ and His work on the cross.  However, we believe the next generation will reap the consequences of this aberrant theology.

[15] Robert Brow, “Evangelical Megashift” Christianity Today (19 Feb 1990): 12 – 14 cited in John MacArthur, “Open Theism’s Attack on the Atonement” The Master’s Seminary Journal 12/2 (2001): 3.

[16] Ibid., p. 14.

[17] It seems the devil has two purposes toward people: 1) keep unbelievers from hearing and/or believing the Gospel message and 2) make believers ineffective through his various wiles – his favorite seems to be poor theology.

 

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