米国テキサス州にある「Church of Uncertain」引用元
目次
Albert Mohler, Ministry is Stranger Than it Used to Be: The Challenge of Postmodernismより抄訳
最近、牧会者たちが集まるたびに耳にするのが、「宣教の働きが以前よりもやりにくくなった」ということです。「いいえ、福音宣教が前よりもより困難になったとか、骨が折れる・きつくなったとかいうことではないのです・・・ただ、なにかが違う、、そして年毎にその奇妙な感が増してきているように思われる」と彼らは言うのです。
こういった「奇妙な感覚」というのは、――20世紀後半に勃興した重大な知的・文化的運動であるポストモダン文化や哲学の興隆に依るものかもしれません。それでは、ポストモダニズムによっていかなる変化がもたらされたのでしょうか。
ポストモダニズムは元々、アカデミックな世界や芸術家たちの間で発達したものですが、時を置かずしてそれは瞬く間に、一般文化全般に浸透していきました。
最も基本的なレベルにおいて、ポスト近代は、モダニティー(近代)の廃絶と、新しい文化運動の高揚を言及するものです。啓蒙期以来、支配的だった世界観であるモダニティーが、ポスト近代に取って代わられ、こうして、近代期に中核にあった諸原則やシンボルが、あるいは拡大適用され、あるいは否定されるようになりました。
もちろん、ポスト近代に関する文芸は、無意味にして、ほとんど真剣に取り合うことのできない類のもので溢れているのは事実です。しかしながら、ポスト近代を取るに足りない、どうでもいいものとして斥けることはできません。この新しい運動はアカデミック界やアヴァンギャルドだけの関心事であるにとどまらず、キリスト教会および牧会者たちに対する深刻な挑戦でもあるのです。
事実、ポスト近代は、そもそも、運動とか方法論とかいったものでさえないかもしれません。言ってみればこれは、近代期の確実性(certainties)から自らを引き離した一つの風潮(mood)と表現できるかもしれません。そしてこの風潮こそが、ポストモダンの突きつけてくる核心部分なのです。
それでは、ポスト近代風潮の輪郭とはどんなものなのでしょう。こういった新しい動きは、福音宣教に有利に働いているのでしょうか。それとも、ポスト近代期というのは今後、キリスト教真理からますます人々を遠ざける時代となっていくのでしょうか。それではここでポストモダンの基本的特徴を概観してみることにしましょう。
真理の脱構築(The Deconstruction of Truth)
真理の本質についてはこれまで何世紀にも渡り、さまざまな議論がなされてきたのですが、ポストモダニズムはこの議論を完全に変質させてしまいました。
従来の議論が、真理に対しての「対立する複数の主張」の凌ぎ合いであったのに対し、ポストモダニズムは、――不変にして普遍的、かつ客観的ないしは絶対的なものとしての真理の概念そのものを否定しています。
キリスト教伝統は、真理を、「神によって建てられ、聖書の中で神の自己啓示を通して顕されているもの」として理解してきました。真理とは、永遠にして、不変であり、そして普遍的なものです。
ですから私たちの責務は自分の考え(心)を啓示された神の真理に従って秩序づけ、その真理を証言していくことにあります。私たちは、自らを「道であり、真理であり、いのちである」と宣言し、自らに信仰を置くよう呼びかける救い主に仕えています。
近代科学というのは、それ自体啓蒙主義の所産物ですが、それは真理の源としての啓示を否定し、科学的方法を以てその代替品としました。近代性(モダニティー)は、帰納的思考・研究課程を通しての科学的精密性を基にした真理を打ち立てようと試みました。
そしてその他の領域においても、合理的思考を通し客観的真理を打ち立てていくという科学者たちの方法に倣うべく、試みがなされました。このように、近代主義者たちは、自分たちの方法論により、人間理性を媒介とした客観的・普遍的真理の把握ができると自負していたのです。
それに対し、ポストモダン主義者は、真理への問いに対する1)キリスト教アプローチ、2)近代主義的アプローチ、その両方共を拒絶しています。
ポストモダン理論によれば、真理とは普遍的でなく、客観的ないしは絶対的なものでもなく、一般的に承認されている方法によっては確定され得ないものです。そして、この理論によれば、真理とは社会的に構築されたものであり、多元的であり、普遍的理性には接近不可能なものです。
ポストモダン哲学者であるリチャード・ローティーは、「真理とは見い出されるものというよりは、作り出されるものである」と主張しています。脱構築主義というのは、ポストモダン陣営内にあっても有力な一角を占めていますが、彼ら脱構築主義者たちによると、あらゆる真理は、「社会的に構築されたもの」とされています。
Richard Rorty
つまり、社会的諸集団はそれぞれ、自分たちの利害・関心のために、自家製の「真理」を構築しているというのです。ポストモダン理論家の中でも最も影響力のある人物の一人、ミッシェル・フーコーは、「あらゆる真理見解は、権力者たちに益をもたらすべく構築されたものである」と主張しています。それゆえ、知識人たちの役目というのは、社会に解放をもたらすべく、そういった各種の真理見解を「脱構築」することにあるのだ、と。
またポストモダン主義者たちは言います。「これまで真理だと理解され、是認されてきたものは結局、弱者を抑圧するべく意図された、都合の良い思想体系にすぎない」と。
真理は普遍的なものではない、なぜなら、それぞれの文化は、各々自家製真理を打ち立てているに過ぎないのだから。真理は客観的に真なるものではない、なぜなら、あらゆる真理はただ単に構築されたものに過ぎず、ローティーの言うように、(見い出され、発見されるものではなく)あくまで作り出されるものなのだと。
ですから、こういったラディカル相対主義が、クリスチャンの福音に対する直接的挑戦であることはもちろん想像に難くありません。しかし私たちキリスト者にとっての福音宣教とは、「数多くある真理の中の一つを説教する」というようなものではありません。あるいは、数多くいる救済主の中の一人、数多くある《福音群》の中の一つを宣布するというようなものでもありません。
また私たちは、福音が「社会的に構築された真理(truth)」ではなく、罪びとを罪から解放する真理(the Truth)であり、その真理とは、客観的に、普遍的に、そして歴史的に真であるということを信じています。そして故フランシス・シェーファーが説いていたように、キリスト教会は、この真なる真理(true truth)のために戦わなければならないのです。
「大きな物語(Metanarrative)」の死
(訳者注:「メタナラティブ」とか「大きな物語」とか呼ばれるこの語は、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-98)が『ポストモダンの条件』(1979)において提唱した言葉です。
「『愛による原罪からの解放』というキリスト教の物語、『認識による無知や隷属からの解放』という啓蒙の物語、『労働の社会化による搾取と阻害からの解放』というマルクス主義の物語、『産業の発展による貧困からの解放』という資本主義の物語」といった各種の「大きな物語」がもはや終焉したとリオタールは唱え、それ以降、「ポストモダン」という語が流行語になりました。
「1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が、科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。(引用元)」)
「すべての真理は社会的に構築されたものである」というポストモダン主義者の見解ゆえに、絶対的、普遍的に確立された真理に対するあらゆる提示は、斥けられなければなりません。壮大かつ包括的なあらゆる真理、意味内容、存在といったものは、「大きな物語」として排斥されます。
ジャン=フランソワ・リオタールは、ポストモダンを次のように定義しました。「極限まで簡略化すると、私は、ポストモダンを『大きな物語に対する不信』と定義する」(Lyotard, Jean-Francois, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge)
Jean-Francois Lyotard
それゆえ、あらゆる偉大な哲学的体系は死に絶え、文化的記述は制限されたものに過ぎず、、、こうして残ったものはただ、異なる諸集団や文化内でそれぞれ「真理」だと承認されている、小さく断片的な物語の寄せ集めに過ぎないのです。さらに普遍的真理(大きな物語)を主張することは、抑圧的行為であるため、拒絶されなければならないとされています。
しかしながら、キリスト教は、福音という「大きな物語」から切り離されては意味を持ち得ないものであるため、もちろん、上記のような見解との間に摩擦が生じます。事実、キリスト者の福音というのは、あらゆる「メタナラティブ群」の中の、真の「メタナラティブ」に他なりません。
なぜなら、キリスト教が、「福音は普遍的に真であり、かつ客観的に確立されたものである」という見解を放棄し、明け渡すことはすなわち、私たちの信仰の根本部分を放棄し、明け渡すことに他ならないからです。
キリスト教は、贖罪の偉大なメタナラティブです。それは至上権をもち、全能なる神による創造をもって始まり、人類の堕落、十字架上でのキリストの身代わりの死を通しての罪びとの贖い、そして、贖われた者は永遠に神と共に栄光の内に生き、贖われていない者は永遠の刑罰を受けるという、永遠なる二つの行き先についての御約束です。そしてこれこそが私たちの宣べ伝える福音のメッセージであり、それは栄光に輝き、世界に変化をもたらすメタナラティブ(大きな物語)です。
私たちは、数多く雑居する真の「大きな物語群」の中の一つである、いわゆる「福音」を宣教しているわけでなく、その他の真正なる「物語群」と併存する形で存在している《私たちの》福音を宣べ伝えているわけでもありません。
私たちは一歩譲歩した上で、「聖書的真理というのはですね、少なくとも私たちにとっては真実なんです」と引き下がることはできません。否。聖書は万人にとっての神の言葉であるというのが私たちの見解です。
しかしこういったスタンスは、ポストモダンの世界観にとってはかなり不快感を生じさせるものであり、この世界観は、誰であれ普遍的真理を主張する者を、「帝国主義的」、「抑圧的」と弾劾してはばかりません。
テクストの解体(The Demise of the Text)
もしも「大きな物語」が死んだものであるなら、そういったメタナラティブの背後にある重要なテクスト(原本)もまた死んだものでなければなりません。
ポストモダニズムは、テクストや作者それ自体に対してでさえも、意味を帰することを誤信とみなしています。曰く、読み手が意味を打ち立てるのであり、どんな制御・規制であれ、本文の意味を制限することはないと。
有力な文芸分野の脱構築主義者であるジャック・デリダは、こういった動きを、「作者の死」「テクストの死」という用語で表現しています。
デリダ
見い出されるのではなく、作られるところの「意味」。これは、読むという行為の中で読者によって造られるのです。よって、作者を排除し、テクストを「解放をもたらす言葉」として生かしめるべく、テクスト本文は再構築されなければならないと、彼らは主張しています。
こういった新しい解釈メソッドに照らして合わせてみると、現在、文学・政治・法律・神学各界で行なわれている議論の本質が浮き彫りになってきます。あらゆるテスクト――それが聖書であれ、合衆国憲法であれ、マーク・トウェインの著作集であれ、それらは「解放」の名の下に、全て、秘義的批評(esoteric criticism)や解体作業にさらされます。
ポストモダン主義者によれば、テスクトというのは、作者の側の抑圧的意図という主題への伏線(subtext)を暴露するものですから、それらは脱構築されなければなりません。
そしてこれは単なるアカデミック界における重要事ではないのです。判事によってなされる最近の憲法解釈、メディア界での問題提示の仕方、現代聖書学界の断片化などの背後には、多くの場合、この思想が潜んでいるのです。フェミニスト、解放運動、同性愛、その他さまざまな利害団体の行なう聖書解釈の高まりは、こういったポストモダン原則の中核をなしています。
それゆえ、聖書は現在、ラディカルな再解釈の支配にさらされています。そしてこういった再解釈は多くの場合、聖書本文のもつ明瞭な意味や、聖書記者の明らかな意図を軽視するか、あるいは無視し去っています。
そしてポストモダン的考えに不快感をもたらすような聖句は、「抑圧的」「家父長制的」「異性愛性差別的」「同性愛嫌悪症」「政治的・イデオロギー的偏見により歪められたもの」として拒絶されています。
こうして解放の名の下に、聖句の権威が否定される一方、もっとも奇怪で、荒唐無稽な諸解釈が、「真正な解釈」だとして称賛されています。
もちろん、「作者の死」という概念は、これが聖書に適用された場合、まったく新しい意味を帯びるようになります。なぜなら、聖書は単なる人間の言葉ではなく、神の御言葉だとというのが私たちの見解であるからです。作者の死を主張するポスト近代は、その本質において無神論的であり、「反」超自然的です。こうして聖書の神的啓示は、抑圧的権力のもう一つの投影であるに過ぎないと帳消しにされています。
(訳者補足:トーマス・オーデンは、"The Death of Modernity and Postmodern Evangelical Spirituality"(p26-27)の論稿の中で、ジャック・デリダの脱構築や、「真理とは見い出されるものというよりは、作り出されるものである」と唱道するリチャード・ローティなど、本記事でアルバート・モーラー師が取り扱っているポストモダン神学の一角は、「実際には近年のモダニティの極端な拡張であり、それゆえ、ポストモダニズムではなく、ウルトラモダニズムと呼ぶべき」と主張しているそうです。参考までに付記しておきます。参照:ミラード・J・エリクソン『キリスト教神学第一巻』p185)