実際に食べてみなければ分からない味というのがあり、
行って見てみなければ分からない絶景というのがあり、
信じてみなければ分からない信仰の至福というのがあるように、
実践してみなければ分からない・・・・
それが祈りのベールであり、奥ゆきあるその美しい世界なのです。
これは知的・学的にも強固に弁証可能な聖書の教えですが、それに加え、私たち女性には、それを「体験し」「味わう」という特権まで与えられています。
実際、ベールの下から見える世界というのは別世界です。またこれは創造主なる神さまがお定めになった神聖な掟であるため、信仰による従順からこれを実践する女性たちには次第に、(内側に・外側に)さまざまなすばらしい変化が訪れるようになります。
例えば、1コリント11:3に啓示されている「かしら」という真理が、頭だけの知識にとどまらず、私たちの存在の深い処に内面化されていきます。そして、女性のかしらが男性であり、男性のかしらがキリストであり、キリストのかしらが神であるという宇宙秩序、その各境界線そのものが「聖」であることを理解するようになっていきます。
また、それは私たち女性の属性そのものにも働きかけ、私たちの内に、ある種の健全な「恥じらい」「慎みの心」を生じさせ、あるいは回復させていきます。前に書いたことがありますが、1テモテ2:9の「控えめ」はギリシャ語でαιδως(アイゾース:慎み、遠慮、畏れ)といい、これは元々、「恥を知る心」という原義を持っています(織田『新約聖書ギリシア語小辞典』)。
こうして生まれ出てくる女性らしい恥じらいの心は、現代の露出文化の中にあって、私たち女性を外的にも内的にも守ってくれる防波堤となります。
さらに、覆う(cover, κατακαλύπτομαι)という信仰行為は、それによって、uncover(顕現)されるべき真の栄光であるキリストに対する敬拝と愛の炎をいっそう燃え立たせます。
そして「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラ2:20)、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」(ピリピ1:20)を求める思いが純化されていきます。
私たちの内に起こされるこれら一連の変化――。それは、1コリント11章の御言葉が、文化的解釈ではけっして解決のつかない普遍的かつ超文化的聖書の真理であり、公同礼拝の中で神の栄光が余すところなく輝き出でるべく、神様が古よりお定めになった永遠の掟であることを、この世に証するものであると信じます。読んでくださってありがとうございました。
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追記)
追記2)
1コリント11章「祈りのベール」弁証シリーズ④:教会の慣習(Church Practice) - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)より一部抜粋
教会史の大半を通じて、かぶり物の教えはほとんどの教会における標準的な慣習であり続けたのです。R・C・スプロールが言っているように、礼拝の時に布のかぶり物を着けることは、20世紀に至るまで、クリスチャン女性の普遍的慣習でした。
1943年、ルーテル教会の主日礼拝(引用元)
1945年、米国聖公会(引用元)
1948年、米国ローマ・カトリック教会の堅信礼(引用元)
1948年、長老派教会(引用元)
しかし、その後、何が起こってしまったのでしょう?私たちは突如として、何か新しい聖書の真理を見つけたとでもいうのでしょうか。曰く、これまで何千年もの間、聖徒たちはこの真理に関して盲目であったのだと?
それとも、女性に関する、私たちの聖書的見方が次第に、――真理の支柱であり土台であるはずのイエス・キリストの教会に浸透してきた、現代フェミニズム運動によってむしばまれていったことがその原因でしょうか。
1960年代のフェミニズム運動
かぶり物というのは、何か真新しい突飛な教えではありません。これは、聖書に基づいたいにしえの教えであり、教会史を通しても大多数によって受容されてきた教えなのです。
かぶり物はこれまであらゆる教会において尊守されてきたものであり、キリスト教会全史の中にあって、今日の私たちだけが例外的な存在です。
こういった状況を是正しなければならない時はすでに来ています。
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追記3)
以下のように、マルティン・ロイド・ジョーンズ師も、1コリント11章の御言葉に従い、女性たちは公同礼拝時に、ベールをかぶらなければならないと説教しています。