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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

1コリント11章「祈りのベール」弁証シリーズ④:教会の慣習(Church Practice)

1コリント11章「祈りのベール」弁証 福音主義教会の大惨事―この世への迎合精神について

 (自ブログ「地の果てまで福音を」から再掲載)

   

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Jeremy Gardiner, Why Head Coverings? Reason #4: Church Practice

 

「パウロはこの(かぶり物の)慣習を全ての教会に教え、それに従うよう求めていました。この最後の箇所で、彼は普遍的なクリスチャンの慣習に訴えることで、その他全ての議論を封じています。」

メアリー・A・カスィアン(南部バプテスト神学大学女性学)1)

 

「言い伝え(traditions)」という言葉をきくと私たちは、「それは聖書には存在しない人間による作り物のことなのではないか」と考えることが多くはないでしょうか。言い伝えというのは有益である場合もある(もしくは少なくとも有害ではない)かもしれません。しかし何といっても神がそれを掟として命じておられないのですから、私たちもそれを命じてはなりません。

 

ですから、かぶり物についての理解においては、次のことを問う必要があります。「これは言い伝えでしょうか、それともでしょうか」と。それでは最初の聖句をみてみることにしましょう。

 

1コリント11:2 

さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたもの(=παραδοσεις, traditions [ESV])を、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。

 

この「あなたがたに伝えられたもの(παραδοσεις, “traditions”=言い伝え)」の定義付けはされていませんが、かぶり物はそういった言い伝えの一つであったのだと考えられます。どうして私がそう考えるのかとお尋ねになりますか?

 

それでは見てください。かぶり物に関するこの教え(1コリ11:3-16)は、対照的な二つの言明の間にサンドイッチのように挟まれています。

 

2節でパウロは「私はあなたがたをほめたい」と言い、その後にかぶり物に関する教えが続いています。一方、17節ではパウロは「私はあなたがたをほめません」と言い、その後に主の晩餐および霊の賜物―彼らはこれらを誤用していました―についての教えが続いています。

 

1コリント11章の文構造をみると、2節と17節は見出し語(topic headings)として用いられています。そして各見出し語につづく教えは、その見出しにフィットしたものになっています。つまり、最初の見出し語は活気づけ(ほめること)、それに対し、後者は矯正(ほめないこと)です。

 

もしかぶり物がコリント人の間で実践されていなかったのなら、「私はあなたがたをほめません」(1コリ11:17)という見出し語がついていたはずです。ですからもしコリント人たちが(依然としてそれに関する教えを必要としていたとはいえ)実際にかぶり物を実践していたのなら、それがいわゆる言い伝えということになります。なぜなら、パウロが呼んでいたのはまさにそれだったからです。

 

あなたはかぶり物を、「人間によって作り出された代物」だと退けるかもしれませんが、それではご一緒に新約聖書をみてみようではありませんか。そして新約自体が言い伝えのことをどう定義付けているのか検証してみようではありませんか。

 

「言い伝え(παραδοσεις, “paradosis”)」として使われているギリシア語は、新約聖書の中で13回使用されています。その中の8回はイエスによって使われていますが、そのいずれも、「人間の言い伝え」という意味で言及されています。

 

パウロもそのような意味合いでこの語を使っていますが、必ずしもそれに限定されるわけではありません。彼は権威ある使徒の教えとの関連でもこの語を使っているのです。それではその具体例を二つみてみましょう。

 

2テサロニケ2:15

そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え(παραδοσεις, "traditions")を守りなさい。

 

 2テサロニケ3:6

兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝え(παραδοσεις, "tradition")に従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。

 

ここには、あるパターンが見られるということに、みなさんはお気づきになりましたか。そうです。パウロが使徒の教えに関連してparadosis(言い伝え)という語を用いる時、彼はそれは「私たちから受けたもの」と言っているのです。

 

それでは、かぶり物が人間の言い伝えにすぎないものなのか、それともれっきとした使徒の言い伝えなのかを、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。

 

パウロはこの点についても明確に答えてくれています。1コリ11:2で彼は、「私があなたがたに伝えたもの(I delivered [the traditions] to you)」と言っています。これはつまり、かぶり物は権威ある使徒の教えだという意味なのです。

 

教会の一貫した立場

今度は、かぶり物に関する終わりの方の聖句をみることにしましょう。

 

1コリント11:16

たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。

 

私たちはさきほど、かぶり物が権威ある使徒的教えだということを確認しました。それでは上の聖句は一体何なのでしょう。実は、この聖句が原因で、私は何年もの間、かぶり物の教えを受け入れることができずにいたのです!私は以前、この聖句を次のように理解していました。

 

「ここでパウロが言っているのは、『この教えは非常な論議をかもし出しかねないものなんだ』ということなんだろう。で、パウロはそういう論議を望まなかった。だからパウロは、『もしみなさんが不愉快な気持ちになるなら、実践しなくてもいいですよ』と、こう言っているんだ。それに、これを義務付けている教会は一つもなかったわけだし。」

 

これは矛盾なのでしょうか。教会はかぶり物を公的な立場として保持していたのでしょうか。それともそうではなかったのでしょうか。ギリシア語学者ダニエル・ウォーレスはこれに関して有益な言及をしています。

 

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Daniel B. Wallace

1コリント11:2と1コリント11:16をいかにして調和させることができるのだろうか。2節は17節を統率(govern)している。つまりどういうことかと言うと、この慣習はparadosi (言い伝え)だったので、正統規範性(オルソプラクシ)のレベルに置かれていたのだ。これは初代教会が従っていた教えであった。このようなレベルにあったため、大部分の教会はこの教えをきちんと守っていた。それゆえ、―この「言い伝え」の妥当性および実践についての要求として―パウロは他の教会が行なっていること(v 16)に論拠を求めることができたのである2)

 

ですから、パウロはここで、もし異議を唱えたがる人がいたとしても、諸教会には―その人が主張しているような―「そのような習慣はない」と言っているのです。

 

つまり、「かぶり物のことについての公の立場など存在しませんよ」と言っているわけではないのです。何といっても、パウロはたった今、その教えを主張したばかりなのですから。ここで言っているのはむしろ、「異議を唱えているこの人が宣伝しているような見方をしている教会ーそんな教会はどこにもありませんよ」ということなのです。

 

ですから、他の英語訳では「私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません(1コリ11:16 NASB訳)」と訳されているのです。

 

コリントを越えて

しかし次のような反論をする方々がいらっしゃいます。―もし女性たちがかぶり物を着けなかったら、彼女たちは、ベールをしていないコリントの神殿娼婦たちに間違われてしまう。だから(それを危惧して)パウロは女性たちにかぶり物をするよう命じたのだ、と。

 

しかし、1コリント11:16の中で、パウロは、この慣習がコリント地域を越えるものであり、あらゆる教会で行われていた慣習だということを示しています。

 

この当時存在していた諸教会の地理的位置を少し考えてみてください。――コリント、ピリピ、テサロニケ、エペソ、イコニウム、カエサレア、アンテオケ、その他多数あります。

 

そしてそれらの諸教会すべてで、かぶり物は実践されていたのです。こういった教会ではどこも、ユダヤ人と異邦人が共に礼拝しており、いろいろな文化背景を持つ人々が共に集っていました。こういった教会の位置は、現在のイスラエル、トルコ、ギリシアなど何千キロという広範囲に及んでいたのです。しかし、かぶり物に関し、彼ら全員が、同じ教えを遵守していたのでした。

 

教会が、かぶり物の教えを、「すべてのクリスチャンに向けられた掟だ」と理解していない限り、どうしてこのような一致が可能でしょう。説明がつきません。

 

 

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 コリントの教会:150年後

テルトゥリアヌスはAD160-220年に生きたキリスト教護教家でした。テルトゥリアヌスの記した著書の一つに『未婚女性のベールについて』というものがありますが、この本の中で彼は、聖書および言い伝えから鑑みて、既婚女性だけでなく、すべての女性たちは頭を覆わなければならないと言っています。

 

彼の生きた当時のコリントにある教会について、テルトゥリアヌスは非常に参考になる発言をしています。これが書かれたのは、パウロがコリント人に第一の手紙を書いた約150年後のことです。ではその記述をみてみましょう。

 

よって、コリント人自身も彼のことを理解していたのだ。実際、今日においても、コリント人は未婚の娘たち(乙女)にベールを着けさせている。使徒たちが教えたことを、弟子たちは承認しているのである3)

 

3世紀のコリント教会をじかに見たテルトゥリアヌスは、ここで実質上、次のように言っています。「パウロの真意は、『女性は全員、かぶり物を着けなければならない』ということであったと彼らは理解していたのです。今日に至るまでそれが彼らの慣習であるという事実がそれを裏付けています」と。

 

教会史の大半を通じて、かぶり物の教えはほとんどの教会における標準的な慣習であり続けたのです。R・C・スプロールが言っているように、礼拝の時に布のかぶり物を着けることは、20世紀に至るまで、クリスチャン女性の普遍的慣習でした

 

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        1943年、ルーテル教会の主日礼拝(引用元

 

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     1945年、米国聖公会(引用元

 

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   1948年、米国ローマ・カトリック教会の堅信礼(引用元

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          1948年、長老派教会(引用元

 

しかし、その後、何が起こってしまったのでしょう?私たちは突如として、何か新しい聖書の真理を見つけたとでもいうのでしょうか。曰く、これまで何千年もの間、聖徒たちはこの真理に関して盲目であったのだと?

 

それとも、女性に関する、私たちの聖書的見方が次第に、――真理の支柱であり土台であるはずのイエス・キリストの教会に浸透してきた、現代フェミニズム運動によってむしばまれていったことがその原因でしょうか。 4)

 

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       1960年代のフェミニズム運動

 

かぶり物というのは、何か真新しい突飛な教えではありません。これは、聖書に基づいたいにしえの教えであり、教会史を通しても大多数によって受容されてきた教えなのです。かぶり物はこれまであらゆる教会において尊守されてきたものであり、キリスト教会全史の中にあって、今日の私たちだけが例外的な存在です

 

こういった状況を是正しなければならない時はすでに来ています。

 

 

参照

1.メアリー・カスィアン – Women, Creation and the Fall (Crossway Books, 1990) – p 100.

2.‘What is the Head Covering in 1 Cor 11:2-16 and Does it Apply to Us Today?’より引用。ダニエル・ウォーレス氏は、かぶり物に関し、‘meaningful symbolという見解を持っていますが、これは私の立場とは異なるものです。

3.テルトゥリアヌス『未婚女性のベールについて』第8章

4.この記述の元々の典拠を探し出すことができなかったのですが、これは多数の文献の中で引用されており、例えば、グレッグ・プライス氏の論文「聖書の中のかぶり物 Head Coverings in Scripture’」の中にも出てきています。