巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

被り物と聖書解釈(Head Covering and Hermeneutics)―R・C・スプロール著『Knowing Scripture』より

(自ブログ「地の果てまで福音を」からの再掲載)

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被り物と聖書解釈
Head Covering and Hermeneutics (An Excerpt from “Knowing Scripture” by R.C. Sproul) here

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R・C・スプロール

 

目次

 

原則と慣習(PRINCIPLE AND CUSTOM

 

「全ての聖句が原則であり、従ってあらゆる時代のあらゆる人々に適用されるべきものだ」と結論づけるか、もしくはその反対に、「あらゆる聖句は特定の(その土地に限られた)慣習にすぎず、その直接の歴史的文脈を超えるいかなる関連性もそこには存在しない」と結論づけるか?

あるいはこの二つ以外の結論が存在するのでしょうか?――その場合、私たちは、その差異を識別するための〈なにがしかのカテゴリー〉ないし〈基準〉を打ち立てる必要に迫られます。

 

この問題を説明するために、まずは「聖句のすべては原則であり、特定の慣習を反映したものなどは皆無だ」と私たちが考えた場合にどんなことが起こるかをみてみることにしましょう。もしそれが正しいのなら、そして聖句に従順であろうとするならば、福音宣教の手法における、ある抜本的な変化が起こされねばならないことになります。


イエスは仰せられました。「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」(ルカ10:4)。もし私たちがこの聖句を、超文化的原則に当てはめて考えるなら、今後、伝道者という伝道者は皆、裸足で宣教に出かけなければならなくなります!もちろん、この聖句の要点は、裸足による福音宣教を永続的な義務とすることにあるのではありません。

 

しかし、その他の箇所は、それほど明瞭ではありません。例えば、洗足の儀式(ヨハネ13:3-17)については、クリスチャンの間では今でも意見が分かれています。これは果たして、あらゆる時代の教会に課せられた「永続的な掟」なのでしょうか。それとも、謙遜なしもべとして仕えるという原則を表すための「特定の慣習」なのでしょうか。

 

靴を履く現代の文化の中にあっては、原則こそ残れども、慣習は消滅すると考えるべきなのか、それとも、そういった靴装にかかわらず、原則と共にやはり慣習も残るのだ、と考えるべきなのでしょうか。

こういったジレンマの複雑性をみるべく、1コリント11章にあるあの有名な「被り物」についての箇所を検証してみることにしましょう。

新改訂標準訳では、女性は預言するとき、頭にベールをかぶらなければならないと訳しています。この掟を自分たちの文化に適用させていく上で、私たちは以下に挙げる四つの選択肢に直面することになります。

 

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1.完全に慣習だとみなす立場。

 

ここの聖句全体は、文化的慣習を反映したものであり、今日性はない。ベールというのはその地方の慣習的な頭飾り(headgear)である。頭を覆わないことは、その地方においては、売春婦のしるしとしての意味を持っていた。女性が男性に恭順することを表すしるしは、ユダヤ教の慣習であり、新約聖書の包括的教えの観点からみた場合は、これは時代遅れなものである。

私たちは異なる文化圏に住んでいるのだから、もはや女性がベールをかぶる必要はないし、(ベールに限らず)何をかぶる必要もない。さらに言えば、もはや女性が男性に対し恭順である必要もない。


2.完全に原則だとみなす立場

 

この場合、この聖句に包含される全てのことは、「文化を超越した原則」とみなされます。そしてそれを実際に適用した場合、次のようになります。

1)女性は祈りの時、男性に対し恭順でなければならない。
2)女性は被り物をすることにより、そういった恭順のしるしを常に表わさねばならない。
3)女性は、唯一適切なしるしとして、ベールを常にかぶらなければならない。


3.ある部分は原則であり、ある部分は慣習であるとみなす立場(選択肢A)

 

このアプローチによれば、聖書箇所のある部分は原則として捉えられており、よってあらゆる時代に適用されるべきだと考えられています。その一方、他の部分は慣習とみなされ、従ってもはやそれに従う必要はないとされています。ですから、女性の恭順という原則は超文化的なものですが、それを表す方法(ベールで頭を覆う)というのはあくまで慣習的なものであり、変わり得るだろうというのです。



4.それは部分的に原則だと捉える立場(選択肢B)

 

この選択肢においては、「女性の恭順」という原則と、「頭を覆うという象徴的行為」は永続的なものとみなされます。被り物の種類は文化によって異なるかもしれません。ベールはバブーシュカ型のスカーフや帽子に置き換わるかもしれないでしょう。


それでは上に挙げたどの選択肢が最も神に喜ばれるものなのでしょう。私はこの問いに関する絶対的な答えを有しているわけではありません。こういった問題は非常に複雑で、短絡的な解決に訴えることができない場合が多くあります。

 

しかし、一つのことは明瞭です。それは、そういった問題を解決するのを助けるような、なにがしかの実際的指針がぜひとも必要とされているということです。


またこの手の問題には、実践を伴う決断が要求される場合も多く、また「まあ、後の世代の人に解決してもらおう」とこれらを神学的「押入れ」にしまい込んでしまうこともできません。以下に挙げる指針がみなさんのお役に立てれば幸いです。

 

 

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実際的な指針(PRACTICAL GUIDELINES) 


1.明らかな「慣習」の領域を、聖書自体から検証してください。

 

こうして聖書を詳細に吟味することにより、私たちはそこに、「慣習」に関するある一定の範囲(幅, latitude)が示されているのに気づかされます。例えば、旧約文化の神聖な原則は、新約文化の中でも再び述べられています。新約聖書の中に再述されている旧約の律法や原則をみることにより、私たちは――慣習、文化そして社会的しきたりを超越する――原則の「」となるものを見い出すことができると思います。

同時に、旧約の原則のうち(モーセ五書の食物規定など)ある物は、新約の中で無効にされていることにも気づきます。しかしそれは「旧約の食物規定はただ単にユダヤの慣習であった」ということではありません。そこには、――キリストが旧約の律法を無効(abrogate)にしたという――贖罪的・歴史的状況の中における相違があるわけです。ここで注記しなければならないのは、

1)「すべての旧約の原則を新約に持ち込むという考え」も、
2)またその反対に「何も持ち込まないという考え」も、

両者共に、聖書それ自身によって正当化され得ない考えであるということです。それでは、どんな文化的慣習が再文化適応(再文化変容 re-acculturation)として可能なのでしょうか。

そういった意味で、言語というのは、文化的に流動しうるもの・可変するものとみなすことができるでしょう。例えば、旧約聖書の律法はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されることが可能とみなされました。この事実だけでも、「言葉によるコミュニケーションの可変的な性質」について、少なくとも一つの手がかりが与えられます。

 

つまり、言語というのは、変化に対して開かれている文化的側面を持っているのです。――しかしそれは、聖書の内容が言語学的に歪曲されるかもしれないという意味ではなく、あくまで福音がギリシャ語と同様、英語や他の言語でも宣教され得るということです。

二番目として、旧約時代の服のスタイルは「神の民が着るべき服」として永続的に固定されてはいないという事が挙げられます。慎み深さという原則は続きますが、それぞれの地方の服装というのは変わり得るのです。あらゆる時代の信仰者が着るべき「敬虔な服装」というのは旧約では規定されていません。

また貨幣制度といった文化的相違も、明らかに変化が許容されています。クリスチャンは円やドルの代わりに、デナリウスを使いなさいと言われているわけではないのです。こういう――服装とか貨幣とかいった面での――文化分析は比較的容易ですが、こと話が文化的な「制度」に及ぶと、これはもっと手ごわくなります。

例えば、政府に対する忠誠や、結婚における権威の在り方などに関する現代の論争においては、よく奴隷制のことが持ち出されます。妻に対し、「夫に対して恭順でありなさい」と命じているパウロは、同じ文脈において、「奴隷たちよ。主人に対して恭順でありなさい」と言っています。

そこである人々は、「新約聖書において、奴隷制廃止の種が蒔かれているのであるから、女性の恭順という点に関しても同様に、廃止の種が蒔かれているのだ」と主張するようになりました。両者とも、あくまで「文化的に条件づけられた」制度的構造のことを言っているのだから、、というのがこの線に沿った議論の主張点です。ここで私たちは、

1)聖書が単にその存在を認めている制度(例えば、「存在している権威 “the powers that be” (欽定訳)」)と、
2)聖書が明確に制定し、是認し、定めている制度

とを注意深く分けて考える必要があります。存在する権威構造(例えばローマ帝国政府)に対する恭順という原則は、そういった構造を神が是認しているということを必ずしも含意しているわけではなく、それはあくまで謙遜と政府に対する従順に対する呼びかけなのです。

神はカエサルを、立派なクリスチャンの模範としては認めていませんでした。にもかかわらず、(人間には隠された)究極的なご自身の摂理の中で、アウグストゥスをそこに任命されたのです。

それに対し、結婚制度における構造や権威のパターンは、「明確な制度およびそれに対する是認」という文脈の中で、旧約の中においても新約の中においても与えられています。家庭における聖書的な構造を、奴隷の問題と同列に置くことは、両者の間に存在する多くの相違点をあいまいにする結果を生み出してしまいます。ですから、聖書は、

1)抑圧的ないしは邪悪な状況のただ中に置かれた場合、
2)創造の良きデザインを映し出しているような構造を定める場合、

そのどちらの場合においても、私たちクリスチャンのとるべき行動規範のための基本原理を提供しているのです。


2.1世紀における初代クリスチャンの特殊性を考慮に入れるべきです。


1世紀の文化的状況を検証することを通し、聖句をより明瞭に理解しようとする努力それ自体は良いものです。しかし、ある人が、新約聖書を「ただ単に1世紀の文化を反響したもの」であるかのように捉え聖書を解釈していくとなると、それは全然違った話になります。

もしそうするなら、当時の初代教会が経験していた深刻な衝突――1世紀の世俗世界との対峙――この事実をどう説明できるというのでしょう?もし当時のクリスチャンが周囲の世俗世界に適応していたのなら、野獣の前に引き出され殺されるようなことは決してなかったはずです。

 

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ローマの円形闘技場で、野獣によって殺されようとしている初代教会のクリスチャン。最後の祈りを捧げています。


―そこに本来存在すべきではない種類の―文化的考慮を持って聖句を解釈する時、「聖句を相対化する」という手段が持ち込まれます。(それは極めて微妙な手段かもしれません。)

例えば、コリントにおける被り物の問題についてですが、数多くの註解者たちが、「当時のコリントでは、被り物をしない頭というのは、(地元にいた)売春婦のしるしであった」と記しています。

 

「それゆえに、」とこの議論は進められます。「パウロがここで女性に被り物を命じていた理由は、クリスチャン女性が被り物をしないことで売春婦に間違われてしまうことを避けるためだったのです。」

この種の推論の問題点はどこにあるでしょう。

基本的な問題は次の点にあります。つまり、1世紀のコリントに関して私たちが再構築した知識というのが、パウロに――パウロ当人には初耳の――理論的根拠を与えてしまっているということです。換言するなら、私たちは使徒パウロの口に、私たち自身の言葉を押し込んでいるだけでなく、そこに存在している肝心の御言葉を無視してしまっているのです

もしパウロがコリントにいる女性に対しただ単に「被り物をしなさい」と言っただけで、そういった指示を出した根本的理由を説明していなかったのだとすれば、私たちはその理由を見出すべく、自分たちの「文化的知識」に頼らざるをえなかったかもしれません。

しかしここでの場合、パウロは、コリントの売春婦の慣習云々ではなく、創造の秩序をその理論的根拠として挙げています。

当時の文化背景を詳しく調べようという熱心は良いものですが、もしその熱心が、「聖句がそこで実際に言っていること」をあいまいにし不明瞭なものにするのだとしたら、それは危険です。気を付けなければなりません。

パウロが言及している理由を差し置いて、自分たちの推論的な理由を前面に持ってきて、それを主張することは、使徒を軽んじる行為です。そして、それはとりもなおさず、釈義(exegesis)を自己流の読み込み(eisegesis)に転化させるものなのです。

 

 

3.創造の掟(creation ordinance)は、超文化的原則の指標です。

 

どんな聖書的原則であれ、それが地域的な慣習という域を超えているのなら、その掟は創造の原理より引き出されたものです。そして創造の掟に訴えるということは、すなわち、契約神が人類と結んだ約定(契約:stipulations)を反映しているのです。

創造の掟は、ヘブル人に与えられたものでもなく、一キリスト者に与えられたものでもなく、またコリント人に与えられたものでもありません。―それは神に対する根本的な人間の責務に根差したものです。

創造におけるこうした諸原則を、単なる地域的な慣習として脇に置くというのは、最悪の形で聖書内容を相対化し、また非歴史化させる行為です。にもかかわらず、まさにこの点において、多くの聖書学者たちは、聖書の諸原則を相対化してしまっているのです。

創造に関する掟の大切さに関し、一つ例を挙げようと思います。離婚に関するイエスの取り扱いについてです。パリサイ人がイエスを試みようとやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているか?」と訊いたのに対し、イエスは結婚における創造の掟の箇所を引用されました。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる』、、こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)


この時の状況を再現してみると、当時、ラビの間で激しく意見の対立していた問題(シャンマイ派 vs ヒレル派)に関し、パリサイ人たちはイエスの意見を訊き、その言葉じりをとらえようとしていたことがよく分かります。しかしそれに対し、イエスはどちらの学派の見解に肩入れすることなく、結婚の規範を総体的に考慮すべく、創造の掟にまで遡ったのです。

もちろん、イエスは創造の掟に関するモーセ律法の修正(modification)についても認識しておられました。しかしイエスは、世論の重圧に負け、同時代人たちの文化的見解におもねったりすることなく、あくまで結婚の規範を弱めることを拒んだのです。

ここから得られる結論として、創造の掟は――後の聖書的啓示によりそれが明白に修正される(modified)のでない限り――規範に基づいたもの(normative)であるということです。



4.不確かな領域においては、謙遜の原則に従いましょう。

 

仮にあなたが、ある聖書の掟について、これを真剣に検証したとします。しかし懸命に検証したにもかかわらず、やはり依然として、それが原則なのか、それとも慣習なのか、確信が持てなかったと仮定しましょう。でもその掟は白黒はっきりした応答を求める類のものであり、あなたはとにもかくにも yes か no か決定しなければならない立場にあります。

ああ、でもこれぞという最終的決定打を見い出すことができませんでした。さあ、どうしましょう。こういう場合、謙遜という聖書的原則が助けになります。それはいたってシンプルな二択です。

1)それはもしかしたら単なる慣習であるかもしれない。でも私はそれを原則として取り扱おう。


それでは実際、それが慣習に過ぎなかったとしましょう。その場合、どうなりますか。あなたが負う責めは、神に従うことにおいて、「ちょっと几帳面すぎた」という事でしょう。

2)それはもしかしたら原則であるかもしれない。でも私はそれを慣習として取り扱おう。


しかし実のところ、それが原則だったと仮定してみてください。そうすると、この場合、あなたはーー超越的な神の掟(要求)を、単なる「人間の作った慣習」というレベルに引き下げるという行為によってーー不徳という大きな責めを負うことになりませんか。どうですか。

もしあなたが慣習を原則として取り扱ったとするなら、あなたの負う責めは、過度に几帳面すぎたということ位でしょう。しかしもし、あなたが神の原則を持ってして、それを「単なる地域的な慣習」として取り扱うなら、そしてそれを尊守しようとしないなら、その時、あなたは神に対して罪を犯すことになります。よって、答えは明瞭だと思います。


もちろん、もし謙遜の原則が、言及されているその他の指標から引き離されてしまうなら、それは容易に律法主義を生み出す基となってしまうでしょう。神が個々のキリスト者に選択の自由を与えられた領域において、信者の良心を規制する権利は私たちにはありません。聖書が沈黙している箇所について、絶対的な方法でそれを適用させることはできません。

ここで私が述べた原則は、ある聖書の掟に関し、徹底的な検証がなされた後に、それでも尚、それがはたして慣習なのか原則なのか確信が持てない―そういう場合に適用されるものです。

しかしそういう地道な検証を怠るなら、慣習と原則の区別は依然として不明瞭なまま残るでしょう。私がここで提案している〈謙遜の原則〉というのはあくまで最後の手段、最後の頼み綱として用いられるべきものであって、これを最初から使おうとするなら、それは有害なものになります。



おわりに

 

文化的な条件付けという問題は、リアルなものです。時間、場所、言語のバリアというのは、往々にして意思疎通を困難なものにします。
しかしそれでも、文化の障壁というのは、それによって私たちを懐疑主義に陥らせたり、「所詮、神の御言葉は理解不可能なものだ」という絶望に私たちを陥らせたりするほど厳しいものではありません。

実に聖書は、その特異な力によって、あらゆる時代、あらゆる場所、そしてあらゆる慣習の元に生きる人々の最も深い処、そのニーズに語りかけ、福音を力強く伝えているのであり、それは私たちにとって慰めです。そうです。文化の障壁は、御言葉の力を無効にすることなどできないのです。