巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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キリスト教弁証の二つの目的(フランシス・A・シェーファー)

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Francis A. Schaeffer, The God Who Is Thereより抄訳

 

キリスト教弁証には二つの目的がある。一つは擁護(defense)である。そして二番目は、それぞれ自分たちの置かれた世代が理解できる仕方でキリスト教のメッセージを伝えること(communicate Christianity)である。

 

擁護というのは妥当にして不可欠なものだ。なぜなら、どの時代にあっても、歴史的キリスト教というのは常に攻撃にさらされているからである。擁護というのは受け身で構えるという意味ではない。

 

人は擁護という言葉を使うことを恥じるべきではない。――同世代の置かれている状況に敏感な――どんな立場の擁護者であれ、それに関する各種の問いや疑いが持ち上がった際には、それに対し十分な回答を提示することができなければならない。

 

それ故に、擁護という言葉は、ここで否定的意味合いで用いられているのではない。どんな会話であれ、コミュニケーションであれ、それらが真に対話であるのなら、差し出される反論に対し私たちは確固とした回答を提示しなければならないからである。

 

そういった回答はまず第一に、キリスト者としての自分自身にとって必要不可欠である。――もしも私が、自らの知的統合性を今後も保ち続けようと思うなら、そして、自分自身の個人的・信仰的・知的生活を今後も調和の下に保ち続けようと思うなら、である。

 

そして第二番目に、そういった諸回答は、自分がケアし責務を負っている人々のために必要不可欠である。

 

――キリスト教に対し、彼ら次世代のクリスチャンに対し――彼らの同世代が突きつけてくる反論や諸議論の一体どこが間違っているのかを私たち自らが示していかない限り、次世代の人々が今後も歴史的キリスト教の立場にとどまり続けてくれるよう彼らに期待するのは理不尽というものである。

 

私たちはクリスチャンの若者たちが今後、――この巨大な現代文化という一枚岩に正面から向き合っていくことができるよう――彼らを整えていかねばならない。そして、われわれの世代における特定の攻撃が、前世代のそれといかに異なり、そしてそれが一体いかなる種類のものであるのかを彼らに教えていかねばならない。

 

、、それゆえに、自分自身のため、そして自分が責任を負っている人々のためになされる擁護というのは、「意識的擁護」である必要がある。自分が聖書的な意味においてキリスト者であり、聖霊の内在によって生きているからといって、それで自動的に、自分を取り囲む影響力から自由になれるかというとそうではない。

 

聖霊はご自身のみこころのままに事をなすことができる。しかし聖書は主の働きを知識から分離させてはいないし、御霊の働きによって――両親として、伝道者として、宣教師として、教師としての――われわれの責任が免除されるわけでもない。

 

以上のことを述べた上でだが、キリスト教弁証というのは、攻撃からの防御という点だけに決して限定されてはならないのである。そう、それと同時に、われわれは、自分たちの世代に福音を提示していく責任を負っているのである。

 

キリスト教弁証というのは、跳ね橋を上げて城の中にひきこもり、時折、城壁越しに石を放り投げるような生き方ではない。それは内に安住し、「あんたたちはここには入って来れないから。」という――要塞メンタリティーを基盤にしているのではない。

 

もしキリスト者がそのような態度を取るようになるのなら――それが理論上のことであれ、実際の生活においてであれ――現代思想に浸かっている人々との、あなたのつながりは絶えてしまう。

 

弁証は単なるアカデミックな主題であってはならない。それは新種のスコラ主義であるにすぎない。キリスト教弁証は、今存在する世代との、がさつで乱雑とした生ける接触の中にあってとことん考え抜かれ、また実践されるものでなければならない。

 

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