巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「1テモテ2:12の正しい訳は、『私は、女が教えたり、自分こそが《男の起源である》と宣言したりすることを許しません』です。」―この主張はどうでしょうか?【authenteoの意味】続編

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前の記事からの続きです。)

 

④ Authenteoの意味が「自らをなにかの起源、創始者、もしくは源であると表現することである」とし、クローガーは、その意味がさまざまな古い辞典に記載されていると次のように述べています。

 

「学者たちが古典古代の文献を、今日よりもより丹念に研究し、私たちにはもはや入手不可能や諸資料を自由に読むことのできたルネッサンス後期。この時期に、辞書編集者たちによって、別の定義づけがなされました。すなわち、「praedo me auctorem」―自らのことをなにかの起源ないしは源と宣言する、という意味です。

 

Authenteinという語は、それが1テモテ2:12のように属格と共に使われる場合、それは主権(sovereignty)を意味するだけではなく、創始・起源(authorship)をも含意し得るのです。「自らをなにかの起源、創始者、もしくは源であると表現する」という意味付けは、古い年代のさまざまな辞典に記載されています。

 

例えば、Cornelis Schrevel の辞典、Stephanus の Thesaurus Linguae Graecae などです。こういった辞典の最も古いものはルネッサンス期にまで溯ることができ、最新のものは前世紀に編纂されたものです。R.and C. Kroeger, I Suffer Not a Woman, 102.

 

この項の巻末の註には次のような追記があります。「この意味が古典語辞典から消えてしまった時期というのは、ちょうど1テモテ2:12の訳語が、フェミニストたちによって挑戦を受け始めた時期と一致しています。19世紀半ばのことです。」230n29.)

 

しかし、それに対し、オンタリオRedeemer大学のアルバート・ウォルターズ(Albert Wolters)は、クローガーの authenteo 理解の精密さに対し、次のような疑問を投げかけ、懸念の声を上げています。

 

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Albert Wolters 

 

「著者クローガーは、多くの頁を割いて、動詞 authenteinが、「みずからをなにかの創始者であると表現する」ないしは「なにかの起源であると宣言する」(p.103)と主張しています。しかし彼らの議論にはあまりにも基本的な間違いが多すぎます。

 

新約期には動詞 authenteinは「~に対して権威をもつ」という意味として認証されていたという事実を無視し、クローガーはそこから外れ、「起源がある、生じる、‟originate”」という――4世紀以前には認証されていなかった――その動詞の稀な意味を取り出しました。

 

さらに、クローガーたちは、自らの目指す結論にたどりつくべく、動詞が「起源を発すると主張する」という意味を持ち得るような、そのような証拠を探さなければなりませんでした。そして、彼らはそれを16世紀のステファヌス編『ギリシャ語・ラテン語辞典』に見い出したのです。その辞書には、authenteoの意味は、「praebeo me auctorem」だと書いてありました。

 

そして、彼らはこのラテン語定義を、「自らを創始者として表現する、表わす」という風に解釈したわけです。そして、これを「自らをなにかの起源ないしは源だと主張すること」だと捉え始めたのです。このようにして意味を確立した後、彼らは続けて、この新しい意味を、4世紀・5世紀の教父テクストの中に見つけようとし始めました(pp.1-2-105)。

 

こういった試みは一見、深い見識の内になされたような印象を与えますが、その実、ラテン語のイディオムを彼らは取り違えて翻訳しているという事実が隠されているのです。(この語は単に、「なにかの創始者として行動する」という意味であり、「何かを始める、創造する」という時のラテン式の表現です。参:Oxford Latin Dictionaryの "praebeo"の項 [5, b-c]、Thesaurus Linguae Latinae [I, B, 1 and II, B, I]の欄を参照。それからCalvinのLatin rendering of Heb.5:2, 2 Pet.3:9も参照。)

 

そして、古典研究の長い学究史の中にあっても、3つの教父テクストの中にそのような意味を発見したのは、クローガーをおいて他に誰もいませんでした。(LampeのPatristic Greek Lexicon, s.v.4には、この3テキスト共に、その意味は「主として責任を持つこと、起こさせる、権限を与えることである」と記載されています。)しかも彼らはそこからさらに進んで、「編者ステファヌスは、今は失われてしまったギリシャ語テクストに当時アクセスすることができていたに違いない(p.102)、そして現代のギリシャ語各辞典がこの意味を記載していない理由は、フェミニズムの勃興と関係がある」とまで言っています(p.230, note 29)。

 

また、彼らは authentein およびその同源の語を、多くの二次資料から引用していますが(p.228, note1)、再度に渡り、引用句の出典を誤解し、自分たちの解釈を反証するような近年の重要文献について言及することをしていません。例えば、Guillaume Budeからのラテン語引用(p.102)など完全に誤解してしまっています。また、authenteinに関するドイツ語の引用も誤訳です(p.101)...

 

文献学の見地からみるに、クローガーは、ギリシャ語テクストを、自らの持っていきたい結論に合わせ、うまく解釈している感が拭えません。そして彼らの学的資料は、初歩的言語学上のミスで溢れています(Wolters, "Review: I Suffer Not a Woman," 210-11.)。彼らの論議は、健全な学究から逸脱していると思われます(同, 213)。」

 

結論として言えるのは、クローガーは自らの提案するその意味を裏付けするような古代文献をなんら持ち合わせていないということです。彼らの提唱するこの意味は、現代の辞書編集者たちから例外なく「誤謬」として斥けられてきました。

 

というのも、過去100年余りに渡り、この意味は、どのギリシャ語辞典にも記載されていないだけでなく、(記載される)一寸の可能性でさえもそこに見い出すことができないからです。ですからこれは、古代のどの文献においても、そして現代の各種辞典においても立証されていない意味なのです。

 

(キャサリン・クローガーは、それ以前にも、authenteoの真の意味は、〔異教カルトの性的にふしだらな慣習の中において〕「自らを前に押しやる("to thrust oneself")という意味である」と主張しました。それゆえ、クローガーは、1テモテ2:12の意味を、「私は、女が教えたり、男と繁殖行為にふけったりすることを許しません」と解釈しました(Kroeger, "Ancient Heresies and a Strange Greek Verb," The Reformed Journal 29 [March 1979]: 14).

 

クローガーのこの主張は、相補主義陣営からも、対等主義陣営からも、ほぼ完全に否定されています。(参:Mounce, Pastoral Epistles, 127./Marshall, Pastoral Epistles, 457). 私が知る限りにおいて、彼女はこれまで常に、どの辞典にもかつて一度も見い出されたことのない意味を、authenteo の意味だとして提示してきました。

 

しかし、1979年に書かれたクローガーのこの論稿は、学的な吟味に堪えられず拒絶されたにも拘らず、まさにこの論稿が、現在も、多くの一般信者の間で受け入れられ、信じられているという事態を目の当たりにし、私は驚愕し、失望の念を禁じ得ませんでした。

 

ギリシャ語原典に直接当たることの叶わない一般の信徒の方々は、「古代文献の中に authenteo のエロティックな意味を発見した」と主張するクローガーの言葉をうのみにし、それを事実だと受け取っているのです。

 

しかし彼女の言及しているそういった文献を検証した結果、明らかになったのは、それらは、学者たちにしかアクセスできないような不明瞭な事実の、あいまいな表明をベースにした奇怪な提唱にすぎないということでした。一連の論議についての詳細は以下の論稿を参照ください。(Armin J. Panning, "AYUENTEIN--A Word Study,"in Wisconsin Lutheran Quarterly 78 (1981): 185-91, Carroll D. Osburn, "AYUENTEV (1 Timothy 2:12)," in Restoration Quarterly 25:1 (1982): 1-12.)

(以上、Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 8より)