巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

現在、教会でホットな議論をかもしだしているジェンダー関連の聖句などはなるだけ「そっとしておく。」-それが目下、賢明な策だと思うのですが、どうでしょうか。

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

Q. ある一群の聖句が、かなりホットな議論をかもしだしているのなら、そういった聖句が「聖書的男性像・女性像」に対する自分たちの見方にあまり深刻な影響を及ぼさないよう、いわばその問題を「そっとしておく」ーこれが解釈における良策だと思うのです。

それと同様、現在、教会内での男性・女性の役割をめぐって、キリスト教界に甚大な意見の不一致があります。ですから、教派的・組織的・教会的な信仰告白を作成する際など、こういったジェンダー問題には「あまり目くじらを立てない。」ーそういう方向でいった方がよいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 

回答:

ホットな議論をかもしだしている聖句はなるだけ「そっとしておく。」という方針についてですが、これは解釈における悪策だと思います。

 

まず第一に、(ジェンダー問題に限らず)他のすべての重要なテーマに関する聖句は、なんらかの形で、クリスチャンの間で議論されています。「聖書主義」の旗印の元、これほどまでに多元主義が横行している今日の現象は、歴史上その類を見ないものだと思います。

 

第二に、「これは議論をかもしだしているから、、」という理由で、私たちがそれに正面から向き合わないことが実際、何を意味しているのかを少し考えてみてください。それによって私たちを欺こうとしているサタンの企図や目的がずっとたやすく遂行されることになるのです。

なぜなら、サタンはもはや聖書の真理を転覆させるに及ばなくなったのですから。今やサタンはただ、私たちの間に「大いなる混乱」を生じさせるよう働きかけるだけで事が足りるようになりました。そうすれば、私たちはそそくさと、そういう重要テーマを脇に置き、それを「そっとしておく」ことにするからです。

 

三番目です。このように一時的にでもサタンを放置しておくことにより、私たちは皆、偏見のレンズをかぶらされることになります。そして、そういった偏見レンズにフィットする諸聖句を「これは非常に明瞭だ」と声高に主張する一方、偏見レンズに適合しない諸聖句に関してはこれを無視することを正当化させるような、そのような解釈方針(=「そっとしておく」方針)を今後人々は、ますます使うようになるでしょう。

 

私たちにとってこの解釈方針は、聖書解釈アプローチにおける「弁慶の泣き所」のように思われます。そしてEqual to Serveという著書の中で、グレッチェン・フール女史(Gretchen Gaebelein Hull)がまさにこのメソッドを取り入れています。

 

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彼女は、ある一群の聖句に関してはこれらを「明瞭で、議論の余地がない」として受容する一方、別の一群の聖句は「不明瞭で、いろいろ論議されている箇所」と捉えた上で、「ですから、この問題を理解し、判断する上で、私たちは後者の『不明瞭な聖句群』に重きを置くべきではない」という風に結論付けています。

 

 特に、彼女は、創世記1-2章、女性指導者の例(デボラ、フルダ、ミリアム、アビガイル等)、女性たちに対するイエスのミニストリー、新約聖書の中で奉仕する女性たちの例、女性の贖罪的平等に関する諸聖句(例:Ⅱコリ5:14-21)などを挙げた上で、「こういった例から明示されているのは、男性の headship というのはーそれがどんな形であれー間違いなのだ」という風に推測しています。

 

しかしその一方、新約聖書の中で、女性と男性それぞれに与えられた、不変にして異なる役割について教示していると思われる諸聖句に関しては、「これらは不明瞭で、男性像・女性像に関する私たちのビジョンを形成するにあたって影響力を及ぼすことはできない」という旨のことを述べています。

 

次に挙げる引用文の中で、彼女は「神の愛メソッド」というご自身の方法論について説明し、それをジェンダー問題に適用させています。

 

 「神について私が知っていることーそれは神が本当に愛のお方であり、その愛ゆえに、私たちのために死んでくださったということです。ですから、私はのろいを求める詩篇や、カナン戦争に関する聖句など、自分に理解のできない聖句は横に置いています。

 しかし『神は愛なり』という既知の真理は捨てません。なぜなら、神のご性質に関するある種の聖句は私を戸惑わせるからです。

 ですから、私たちは、女性に関する次の三つの新約聖句、ーそうです、「難解な聖句」と呼ばれており、女性たちだけに対する特定の諸規制が述べられている聖句:①1コリント11:2-16、②1コリント14:33b-36、③1テモテ2:8-15ーに関しても、同じ扱いをすべきです。それから、コロサイ3:18、エペソ5:22-24、1ペテロ3:1-6もそれに加えられるでしょう、、、

 従って、まさにこの理由―つまり、これらの聖句が、釈義的にも、解釈学的にも、神学的にも「難解聖句」であるという理由によって―、私たちは合法的に、これらの諸聖句を脇に置くことができるのです。」48

 

このようにして、非常に重要な諸聖句が、「性差別をしませんよ」という対等主義のモットーの下、沈黙させられていますが、このモットー自体、実は、議論を醸し出しているこういった諸聖句の上に打ち建てられているのです。ここに「もしある聖句が争点になっているのなら、それを使わない」という方針の持つ危険性が浮き彫りにされていると思います。

 

ですから、私たちはそのようなやり方ではなく、あくまで聖書を注意深く、かつ祈りの心で読み、そして、どの聖句を退けることなく、関連するすべての聖句を一貫性をもったやり方で解釈するという立場を求めていくべきだと思います。そうした後、私たちは矛盾なく一貫性のある、その教えに従うべきです。

 

後篇〕につづきます。 

註:48. Gretchen Gaebelein Hull, Equal to Serve: Men and Women in the Church and Home (Old Tappan, NJ: Fleming H. Revell, 1987), 188–89.

 

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「キリスト教界における分裂状況は悪である」と人々は言う。 

それは確かにそうだ。

しかし、悪というのは、むしろ分裂を引き起こす誤謬の存在の内にこそあるのであって、そういった誤謬を認識することに因するのではない。

ーJ・グレシャム・メイチェン