Abbot Tryphon, Community: The Essential Element(全訳)
キリスト教というのは、共同的(communal)信仰であり、それは信仰者たちに、他者との積極的関わり合いを求めてきます。
教会の礼拝は共同的です。そして救いそれ自体、公同的行為であり、他者との交わりを要求してきます。人は真空・孤立状態の中で救われるのではなく、教会の公同的いのちの一部として救われます。
あなたの救済は、私自身のそれと同じくらい、自分にとって重要事です。キリストと私の関係は「私」に関することではなく「私たち」に関わることです。私たちの罪はただ単に神に対し犯されるものではなく、教会というキリストのみからだに対し為されるものです。
私たちが他の人々を愛さないのなら、神に対する私たちの愛は救済をもたらし得ません。聖ヨハネは次のように言っています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(1ヨハネ4:20)
こうした教会の共同的性質を鑑みるとき、近年、ますます多くの人々が自らを他者から孤立させている現状は憂慮すべきものです。多くの人々は他者との関わりの主要ソースをインターネット世界に求め、直接には決して会う見込みのない人々との間に「友だち」関係を築こうとしています。
伝統的な村において喫茶店と教会が交わりの主要ソースであったように、中央広場における社会的相互交流というのは、深刻化する疎外を阻止する一つの手段です。
それゆえ、私たちは余りに多くの時間をコンピューターの前で過ごし、実際に人々と関わる時間をほとんど持たなくなる、そういった誘惑に対し立ち向かわなければなりません。若い人々がカフェで一緒に座りながらも、互にこころは遠く離れている光景をみるのは非常に痛ましいものがあります。
テキスト・メッセージ、emailを介したコミュニケーション、フェイスブック等ソーシャルメディアに費やす莫大な時間・・・は、孤立感をさらに助長し、魂を死に追いやっていきます。
人間であるということは、共生することを意味しています。なぜなら共に生きるという営みの中にあって私たちは知性においても霊においても成長していくからです。
共同体の中で私たちは神を愛することを学んでいきます。オンライン会話だけに限られた「友だち」関係というのは大いなる悲劇であり、それはやがて社会の荒廃へとつながっていくことでしょう。
ー終わりー
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