巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義クリスチャンと聖母マリア(Θεοτόκος)(by ロバート・アラカキ)【前篇】

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出典

 

目次

 

Robert Arakaki, Why Evangelicals Need Mary, Reformed-Orthodox Bridge, 2012(抄訳)

 

ロバート・アラカキ。ハワイ生まれ。高校時代にキリスト信仰に導かれ、学生時代、インターヴァーシティー・クリスチャン・フェローシップで精力的に活動。ゴードン・コーンウェル神学校で修士号。カリフォルニア州バークレーGraduate Theological Unionで博士課程。福音主義教団United Church of Christ元教職/改革派神学者。1999年、東方正教に改宗。改宗の証(How an Icon Brought a Calvinist to Orthodoxy, 2011.)

 

福音主義クリスチャンにとっての最大のハードル

 

近年、正教に関心を持つ福音主義クリスチャンがとみに増えています。それらの方々の多くは正教に改宗したいと願っておられるようなのですが、いくつかの正教教理にとまどい躊躇しておられます。その中でも最大のハードルはやはり何と言ってもマリアに関する教説です。

 

それではなぜそこにハードルがあるのでしょうか。一つの問題として、福音主義クリスチャンと正教クリスチャンの間にコミュニケーション上の行き違いがあることを挙げたいと思います。

 

というのも両者は異なる神学的パラダイムの中で作動しているからです。それゆえに、両者は似たような用語を用いていても、実際にはかなり異なった意味合いでそれらを用いているのです。

 

聖書の中のマリア

 

それではまず御言葉はマリアについてどのように言及しているのかご一緒にみていきましょう。マリアに関する聖書の言及は確かに多くはありませんが、それらが聖書の中にあることは事実であり、またそれらの箇所は聖書の中の極めて重要な場所に位置しています。

 

さて、まずは創世記3章15節です。アダムとエバが禁断の果実を食べた後、神は蛇に対し次のように仰せられました。

 

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。(創世記3:15)

 

この短い聖句の中で神は救済にまつわる偉大なる御計画のアウトラインを提供しています。このアウトラインはやがて聖書の中でさらに詳しく色彩鮮やかに開明されていきます。創世記3章15節の箇所で注目すべきは二重の敵意です。

①サタンと女との間の敵意。

②サタンの子孫と女の子孫との間の敵意。

 

多くの福音主義クリスチャンはここで言及されている「女」がエバではなくイエスをお産みになったマリアであると認識しています。それゆえ福音主義の方々はここで立ち止まり、次のような質問をしてみるべきでしょう。

 

「なぜ神はここで女に関する言及を包含することを良しとされたのだろう。なぜ神はただ単にサタンの頭を砕いた方のことのみ言及されなかったのだろう。なぜここのプロト・エヴァンゲリウム(proto-evangelium)の中で神は救い主を、彼の母とペアにされたのだろう。」

 

女と彼女の子をペアにして言及する主題はその後も聖書の中で繰り返し登場し、それは聖書の最終巻である黙示録にまで及びます。さて二番目のペア箇所はイザヤ7章14節です。この聖句の中でイザヤは次のように預言しています。

 

それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)

  

マタイの福音書によると、この預言はイエス・キリストの誕生において成就しました。

 

「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:20-23)

 

ガラテヤ人への手紙の中でパウロは、キリストが乙女マリアから生まれたのは偶然的出来事ではなく「時が満ち(in the fullness of time)」、つまり、人類史において最も決定的な時にそれは起こったと記しています。

 

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4-5)

 

ここの聖句において興味深いのは、それらが「キリストの受肉が私たちの救済における管(instrumental)である」ということを含意している点にあります。そしてこれは、救済をほとんど排他的に十字架上におけるキリストの死において捉えているプロテスタント・パラダイムに揺さぶりをかけます。

 

そして次は黙示録です。黙示録12章において私たちはキリストとサタンの間の宇宙的戦いを描いた劇的な場面に出くわします。*1

 

また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。(黙示録12章1-2、4-5節)

 

黙示録12章の福音主義的読解は、マリアを描写するのに使われている上記のような大仰な語法にぎこちなさを覚えるでしょう。

 

マリアは神的栄光を身にまとう存在として言及され(身に太陽をまとい)、また創造の秩序における彼女の卓越性(月を足の下にし)、神の選民の間における彼女の卓越性(十二の星は旧約のイスラエル十二部族を表象する、ないしは新約の教会十二使徒を表象している)を表す生き生きとしたシンボル言語で描写されています。

 

これは、飼い葉おけでキリストを産んだ後、静かに表舞台から脇にしりぞくプロテスタント神学内の乙女マリア像とは大きく隔たっています。

 

このように創世記から黙示録に至る聖書証言を総括し、私たちは救済史における乙女マリアの極めて重要な役割に対する証言の明確な型を見い出します。聖書によると、救済史においてマリアは周縁的役割ではなく肝要な役割を果たしているのです。救済の一大転換点は神が人となって歴史に入ってこられた時に起こりました。

 

毎年8月、正教会はマリアの生涯と模範を覚えます。その時に幾つかの聖書箇所が読み上げられるのですが、その一つがルカの福音書11章27-28節です。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」と叫んだ女に対し、イエスは答えられました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 

最初私はこの聖句を聞いて驚きました。というのも、多くの福音主義クリスチャンはこの聖句を使ってマリアをこき下ろそうとするからです。しかしさらに熟考を重ねていく中、次第に何がマリアを信仰の模範とせしめているのかに理解が及び始めたのです。

 

声高に叫んだその女が、マリアを偉大にしたのは彼女の肉体的母の役割であったと考えていたのに対し、マリアを真に偉大にしたのは神のみこころに進んで従おうとする彼女の恭順な心の姿勢にあったのです(ルカ1:38)。

 

 神のみこころに従ったことでマリアは第一のエバがし損なったことを成し遂げました。神に対し「はい。」と従ったことで、マリアは人類の堕落(Fall)を覆し、救い主イエスが歴史に入ってくる道を開くという第二のエバになりました。

 

キリストを産んだということは唯一無二なる経験ですが、神のみことばに対するマリアの恭順は、全ての福音主義クリスチャンが共に分かち合うことのできるものです。(マタイ12:46-49、マルコ3:31-35、ルカ8:19-21)。  

 

マリア——全ての福音主義者にとっての母

 

十字架にお架かりになったイエスの最後の言葉の一つはマリアと使徒ヨハネに向けられたものでした。マリアに対しイエスは言われました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。ヨハネに対しては主は「見なさい。あなたの母です。」と仰せられました。(ヨハネ19:26-27)。

 

この聖句は二つの次元において解釈され得ます。すなわち、文字通り/歴史的解釈、もしくは寓喩的/予型論的解釈です。両方のアプローチが可能です。予型論的次元でいいますと、ヨハネはキリスト者を表象し、十字架上でのイエスの死を受容することでキリスト者はマリアを自らの母として受け入れる、という風に解釈され得ます。マリアはイエスの母であるのみならず、私たちの母でもあるということです。

 

黙示録12章17節をみますと、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者は全てマリアの子たちであることが読み取れます。

 

ここで注目すべきは、この聖句が福音主義クリスチャンの二大特徴を見事に表している点です。①聖書的であろうとする彼らの情熱、および、②キリストの良き証し人であろうとする彼らの情熱、この二点です。

 

もしそうなら、黙示録12章17節を踏まえ、マリアは全ての福音主義者にとっての母であるということが言えるかと思います。福音主義プロテスタントの方々はこの点における心理的障害を乗り越え、御言葉に従い、マリアを自らの母と認める必要があるでしょう。

 

聖書は霊的マザーフッドに関する概念を教えています。この原則はアブラハムの妻であるサラに関する箇所において見い出されます。ペテロは次のように記しています。「あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。」(1ペテロ3:6)。パウロはガラテヤ4章のサラ/ハガル の例を用い、教会が私たちの母であるという事を述べるべくこの対比を用いています(ガラテヤ4:26)。

 

それゆえ、マリアの子であるという意味は、彼女に似た者であること、彼女の模範に従うということです。マリアが神のみこころに従うことに全身全霊で臨んだように、私たちもまた神のみこころに従うことに献身すべきです。

 

天使ガブリエルからの驚くべき告知を受けた時、マリアは答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)。マリアはまたイエスの証し人として献身していました。カナの婚礼の席で彼女は召使たちに言いました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)。

 

イエスが言われることを何でも(whatever)するという事は、私たちの人生におけるキリストのロードシップを完全に受け入れるということです。マリアを自分たちの母として受け入れることはキリストに対する私たちの献身を弱めるのではなく、むしろそれはキリストに対する私たちの献身を強めます。マリアにより近づくことは、神および救い主であるイエス・キリストに私たちをより一層近づけるのです。   

 

典礼の中におけるマリア

 

福音主義クリスチャンにとり、主日の典礼を見学に行くことは、正教会が実際にマリアに関し何を信じているのかを学ぶ最善の道だと思います。正教徒にとり、Divine Liturgy(Θεία Λειτουργία, 聖体礼儀)というのは実践の中における神学です。

 

典礼の最初の部分はいくつかの連祷(規定の祈り)で構成されており、これはマリアに対する言及、それから三位一体神に対する言及を持って締めくくられます。連祷のおわりに達すると司祭は次のように言います。

 

「もっとも聖にし、純粋、祝福され、輝かしい御婦人、セオトコス、永遠なる乙女マリアを、全ての聖人たちと共に覚え、私たちの全生涯を神であるキリストに委ねましょう。」(私訳)*2

 

祈りの終わりの部分で私たちはキリストに対するマリアの全き献身を覚えると共に、先代のキリスト者たちの模範を覚えます。キリストに対する人生を駈けたコミットメントへの召命は福音主義クリスチャンの心を熱くするはずです。

 

何年も前に私はキリストに対する個人的コミットメントをしました。そして現在、私は毎週、典礼の中でそのコミットメントを新たにしているのです!実に典礼の中で数回に渡り、私はキリストに自分の人生を再献身し、それと同時に友人や家族の人生を神の慈悲深いケアに委ねます。

 

典礼が進む中で私たちはニカイア信条の中で再びマリアに出会います。ニカイア信条は毎日曜日、そして毎典礼祭の際に唱えられます。ニカイア信条は父なる神に関し教会が何を信じているかに対する告白から始まり、その後、キリストの神性および人性に関する信条へと続きます。

 

 

「主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。」*3

 

最初に留意すべき点は、ニカイア信条が「わたしたちの救い」を、--福音主義クリスチャンが通常するように十字架と関連づけるのではなくーー《受肉》との関連性の中に位置づけているということです。第二番目として、《受肉》は聖霊およびおとめマリアに関わっているという点が挙げられます。マリアは《受肉》において不可欠な役割を果たしました。実に彼女の協働なくしては、受肉は起こりませんでした。

 

その後、パンと葡萄酒の聖別に続き、会衆は歌います。「汝を祝するのはまことにふさわしいことです、おおセオトコス!常に祝福され、いとも純粋なる方、私たちの神の御母。ケルビムよりも誉れ高くセラフィムよりも栄光に富んでいる。穢れなく汝はロゴスである神をお産みになりました。まことのセオトコス、汝に誉れを帰します。(拙訳)」

 

おそらくここで福音主義クリスチャンの方はマリアを称える大仰な表現に嫌悪感を持ち、次のように考えるかもしれません。「こういった称賛言語は果して聖書的だろうか」と。しかしながら聖書を注意深く読みますと、実際それが聖書的であることが分かります。

 

Blessed(祝福され) —「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1:42)

 

Theotokos (セオトコス、生神女God-bearer) — 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1:42、それからイザヤ7:14、マタイ1:21-25、ルカ2:6-7、黙示録12:5も参照。)

 

Ever-blessed (永遠に祝され)— 「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」(ルカ1:48)

 

All-holy(いとも聖) — 「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1:15-16)

 

Utterly pure(いとも純粋) — 「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(1ヨハネ3:3)

 

Mother of God(神の母) — 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:23、イザヤ7:14も参照。)

 

More honorable than(~よりも誉れ高く) —「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩篇8:5)。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エペソ2:6)

 

プロテスタント信者の方々の多くは、マリアを崇敬(venerate)することが最終的にマリアを礼拝(worship)することにつながるのではないかと危惧しています。

 

「正教はマリアを崇敬するけれども礼拝はしていない」という主張に対しプロテスタントの方々が混乱している訳は、「礼拝(worship)」に関する両者の理解に違いに起因しています。プロテスタント礼拝においては説教が中心であるのに対し、正教礼拝の中心はユーカリスト(エウカリスチア、聖餐)です。ローマ・カトリックに改宗した福音主義者キンバリー・ハーンは、この点について次のような指摘をしています。

 

 「マリアに対する礼拝行為をカトリック教会は明確に糾弾しているということを知っていたにも拘らず、どうも私の目に、カトリック信者たちはマリアを礼拝しているように思えてなりませんでした。とても不可解でした。

 しかしある時、はっと気づいたのです。プロテスタント信者は『礼拝』というのを、賛美の歌、祈り、説教として捉えているのだと。そのため、カトリック信者たちがマリアに向かって歌を歌い、祈りの中でマリアに嘆願し、マリアに関して説教がなされる時、プロテスタント信者は『ここの人々はマリアを礼拝している』と結論づけてしまうのです。

 しかしカトリック信者は『礼拝』を、イエスの御体と血潮の犠牲として捉えています。彼らは決して、マリアの犠牲を奉献するようなことはせず、またマリアを祭壇に奉献するようなこともしません。」*4

 

それゆえ、正教クリスチャンがマリアを『礼拝』することはあり得ません。正教のマリア崇敬に対するこの種の誤解は、歴史的キリスト教典礼パターンからのプロテスタンティズム逸脱の事実にまで溯ることができるでしょう。

 

正教礼拝に何度も足を運ぶうちに、正教礼拝のフォーカスは三位一体神にあり、マリアは正教神学において二次的役割を果たしているのだということが分かってきました。福音主義クリスチャンは御言葉によって検証され確証されていない伝統により間違った方向に導かれていくことを恐れています。

 

理解すべき肝要な点は、正教の信仰および実践は使徒たちの教えに基づいているということです。日曜礼拝では聖ヨハネ・クリュソストムスの典礼を用いており、このリトルジーは5世紀にまで溯り、その後、ほとんど変更が加えられることなく現在まで続いています。

 

典礼が不変であるゆえ、この不変性が私たちの神学を守ってくれています。典礼は、二本のレールのように列車を軌道に乗せ、且つ正しい方向へと向かわしめる機能を果たしています。

 

また、この不変なる典礼は、マリアをイエスを同じレベルに担ぎ上げたり、イエスをマリアから分離させたりするという行き過ぎから私たちをしっかり守ってくれており、かつ、私たちをキリストへと導いているため、福音主義クリスチャンは安心できると思います。

 

プロテスタント時代の自分はそうではありませんでした。自教団の本部経由でいつ何時、新奇なる逸脱諸教理が礼拝の中に侵入してこないとも限らないので、私は当時それが心配でなりませんでした。

 

全地公会議(The Ecumenical Councils)

 

典礼の中で用いられているマリアの称号の多くは初期神学論争期に誕生しました。諸論争はマリアに関するものというよりはむしろキリストの神性・人性、受肉、三位一体論に関するものでした。

 

こういった一連の全地(普遍)公会議を通し、初代教会はキリスト教信仰に関する不可欠な諸要素を規定しました。マリアに対するさまざまな称号を決めた諸公会議の決定(乙女マリアー第一ニカイア公会議、AD325年、セオトコスーエペソ公会議、AD431年、永遠の乙女[Ever-Virgin]、コンスタンティノープル公会議、AD553年)はどれも皆、キリストの神性を擁護するために為されました。

 

公会議の用語はマリアの描写に関し仰々しすぎるのではないかといぶかしく思う方がいるかもしれません。しかしながら、マリアに関する公会議の諸用語は厳格かつ簡素なものでした。

 

全地公会議がマリアに関し何を教示しているかを理解する上で私たちは、マリアに与えられた一連の称号がいかにキリストに関する正しい理解を擁護するべく機能しているのかを把握する必要があります。ティモシー・カリストス・ウェアは「セオトコス」の称号に関し次のように記しています。

 

 「セオトコスという称号は特に重要です。なぜなら、この称号は乙女マリアに関する正教信奉に対する鍵を提供しているからです。私たちはマリアに敬意を表しています。なぜなら彼女は私たちの神の母だからです。私たちは彼女を孤立した形で崇敬せず、彼女の、キリストとの関連性ゆえに崇敬しています

 それゆえ、マリアに対し示される崇敬は、神への礼拝に影を落とすどころか、むしろそれとは正反対のすばらしい効果をもたらしています。つまり、マリアを称えれば称えるほど、より鮮明に、彼女の息子である御子イエスの威厳が認識されるようになるのです。まさしく御子ゆえに私たちは御母を崇敬しています。」*5

 

ここで私たちは典礼と全地公会議の間の深い相互関係をみます。正教にとり、教会史は生きた歴史です。教会史は歴史書の中に見い出されるものではなく、リトルジーの中で毎週日曜日に追体験するものなのです。

 

マリアとイコン

 

 

正教会を訪問する福音主義クリスチャンは、正教会建築におけるマリアの可視的卓越性に度肝を抜かれることでしょう。

 

聖堂の中に入ると、王の門(Royal Door)の左側に乙女マリアのイコンが見え、右側にはキリストのイコンが見えます。祭壇の上方には、乙女マリアが幼子キリストを抱いている巨大なイコンが描かれています。イコンというのは単なる美しい絵画ではありません。これらはキリストおよび私たちの救いに関する重要な諸真理を描写しているのです。

 

この巨大なマリアのイコンは多くの福音主義者の注目を引くことかと思いますが、これは適切な文脈の中で解釈される必要があります。正教の神殿建築においては、天井ドームにパントクラトールのキリスト(全能者キリスト, Παντοκράτωρ)が描かれています。これはキリストが天において全的統治者であることを表象しています。

 

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パントクラトールのキリスト*6

 

そこから下方に視線を移しますと、幼子と共にいる乙女マリアのイコンが目に入ってきます。これは私たちの救いのために天よりキリストが下ってこられたことを表象しています。

 

その後、祭壇の正面をみます。すると奥に十字架が見えます。これはキリストがさらに下ってこられ、私たちの救いのためにご自身をむなしくし十字架の死にまでも従われたことを表象しています。これはフィリピ人への手紙2章5-11節でパウロが記しているあの有名な賛歌のビジュアルな形態です。

 

王の門の左右にあるイコンもまた私たちに救済史に関する真理を教示しています。左側に見えるキリストを抱いている乙女マリアのイコンはキリストの初臨を表象し、右側のキリストのイコンはキリストの再臨を表象しています。

 

初臨においてキリストは私たちを救うべくへりくだりの内に来られましたが、再臨においてキリストは人類に審判を下すべく栄光を帯び来られます。右側のキリストのイコンの前で告解がなされるという正教会の慣習は特筆すべきでしょう。

 

象徴的次元において乙女マリアのイコンは教会時代を描写しており、教会はキリストを、救済をもたらす神の慈愛の証人としてこの世に提示しています。イコンの彼方の祭壇の領域はやがて来たるべき世を象徴しています。

 

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出典

 

 ー【後篇】に続きます。

*1:ここの聖句の「女」は、イスラエルに対する言及とも、それからマリアに対する言及とも受け取ることができます。黙示録は非常に多くの象徴的言語で溢れており、解釈は困難です。正教クリスチャンの多くはここの箇所を寓喩的(女=イスラエル)に解釈することをより好んでいます。その理由は、聖伝によると、マリアは陣痛に苦しむことなくキリストを産んだからです。尚、『オーソドックス・スタディー・バイブル』はこの聖句に関してははっきりした言明をしていません。

*2:Remembering our most holy, pure, blessed and glorious Lady, the Theotokos and ever-virgin Mary, with all the saints, let us commend ourselves and one another, and our whole life to Christ our God.

*3:For us and for our salvation he came down from heaven and became incarnate by the Holy Spirit and the Virgin Mary and became man. // Τὸν δι' ἡμᾶς τοὺς ἀνθρώπους καὶ διὰ τὴν ἡμετέραν σωτηρίαν κατελθόντα ἐκ τῶν οὐρανῶν καὶ σαρκωθέντα ἐκ Πνεύματος Ἁγίου καὶ Μαρίας τῆς Παρθένου καὶ ἐνανθρωπήσαντα.

*4:Hahn, Scott and Kimberly.  Rome Sweet Home: Our Journey to Catholicism.  San Francisco: Ignatius Press, 1993:145.

*5:Timothy Ware, The Orthodox Church, p. 262.

*6:File:516.Christ Pantocrator.Dome.Church of the Holy Sepulchre.Jerusalem.jpg