巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ディスカッションはできればonlineではなく、相手の人間と直に触れ合い交流する中で行ないたい。

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先日、遠出し、ある方と数時間にわたりじっくり話し合う時を持ちました。そして帰り道につくづく思ったのです。「一人の人と話をするために往復何時間もかけ、一日が終わった。しかしそれはなんという濃密な時間だったことだろう」と。

 

ひと頃、オンラインでのディスカッションに参加しようと試みていた時期がありました。しかしながら、そこで私が痛感したのは、顔も名前も表情もみえない相手と、教義や思想や人生の重要な諸問題について議論することの限界性についてでした。

 

その方が具体的にどのような環境や事情や心理状況の中でその発言をタイピングしているのかは、残念ながらonline画面からはなかなか伝わってきません。彼・彼女は、怒りにまかせてキーボードに文字を打ち込んでいるのかもしれませんし、あるいは、絶望の内に泣きながら祈るような気持ちでタイプしているのかもしれません。

 

自分も含め、思想や教義に関心をもっている人々が往々にして陥りやすいのは、関心テーマに対する立場や見解が自分の中で異様にクローズアップされすぎて、気づかぬうちに相手という一人の人間の全体像が見えなくなるという危険性ではないかと思います。

 

私たちが各自大切にしている諸信条や信念は、私たちのアイデンティティの一部をなすものであり、それゆえに、その部分を相手に突かれたり、挑戦を受けたりすることは、とりもなおさず自分のアイデンティティそのものに対する揺さぶりや攻撃と捉えられ得ます。また、彼・彼女がその主題に真剣であればあるほど、自分の立場の正当性を認めようとせず否定してくる相手の競合神学や解釈や思想がイコールその人であるかのように思われてくる場合もあるかもしれません。

 

それで自己防衛的に相手のその見解を論駁しようとするわけですが、その過程で、スクリーン画面の向こう側にいる、生身の人間の実像がどんどん薄れていきます。こうなるともはや、相手の人間は、〈われ〉にとっての〈なんじ〉ではなく、思想の具現であるところの〈それ〉に過ぎなくなっていきます。

 

 「人間の〈われーなんじ〉の関係を結ぶ力が衰退するにつれて、経験と利用の機能がますます増大する。・・メロディーは音から成っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。

 〈根源語われーなんじ〉は、ただ全存在をもって語り得るのみである。全存在への集中と融合は、わたしの力によるのではないが、またわたしなしには生じ得ない。〈われ〉は〈なんじ〉と関係に入ることによって〈われ〉となる。〈われ〉となることによってわたしは、〈なんじ〉と語りかけるようになる。すべて真の生とは出合いである。」*1

 

なにが語られ、なにが追究されるかということは勿論大切ですが、それと同様に、それがだれと「どのように」語られ、「どのようなあり方/関係性の中で」追究されるのかということもまたけっして無視することのできない要点ではないかと思います。

 

なぜなら、分解されず、統合された自己と他者という生の全体、そしてその関係性を尊び、それらを敬畏していく営みの中において、私たちは〈なんじ〉であられる生ける神、そして他者をよりよく知っていくことができると思うからです。

 

ー終わりー

 

*1:マルティン・ブーバー『我と汝・対話』(岩波文庫)