巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーデイビッド・アンダーズ師の信仰行程

David Anders

 

目次

 

A. David Anders, A Protestant Historian Discovers the Catholic Church, 2012(抄訳)

 

生い立ち

 

私は、アラバマ州バーミンガムの福音主義プロテスタント信者の家庭に生を受けました。両親は愛に溢れ、敬虔で純粋な信仰を持っており、教会に深くコミットしていました。両親の生き方を通し、主は幼い私の心に、神の言葉としての聖書に対する崇敬、そしてキリストにある生きた信仰に対する渇望の念を植えてくださったと思います。

 

各地で活躍している宣教師たちがわが家を訪れ、現地での働きの様子を知らせてくださいましたし、家の本棚は神学やキリスト教弁証関係の本で溢れていました。そのため幼い時から自分の中で、「最高の召しとは人がキリスト教信仰を教えることだ」という観念が深く根付いていました。

 

教会

 

うちの家族が通っていた教会は一応、長老派ということになっていましたが、実際には教派的相違というのは私たちにとりほとんど重要ではありませんでした。

 

「たしかにバプテスマや聖餐、教会政治に関し、いろいろと意見の相違がある。でも人が新生し(“born again,”)、信仰のみによる救いを経験し、聖書がキリスト教信仰における唯一の権威であると信じ、福音を信じている限り、そういった細かい相違はさほど重要ではない」という旨をよく耳にしていました。

 

プロテスタントによって福音が ‟回復” されたというのは、私の教会の強い教えでした。幼い頃から、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンといったプロテスタント宗教改革者たちは自分にとってのヒーローであり、彼らは中世カトリシズムの暗黒からキリスト教を回復させた英雄たちでした。

 

カトリック教徒というのは、天国行きのために‟善行”を積まねばならないと考えている人々であり、聖書ではなく伝統を信頼し、神の代わりにマリヤや聖人たちを拝んでいる人々でした。また秘蹟(サクラメント)に対する彼らの執着により、イエスに対する真の信仰および主との個人的関係がはなはだしいほどに阻まれていると考えていました。ですから、カトリックが真のクリスチャンではないというのは自分の中で確実なものでした。

 

私たちの教会はある種の知性主義によって特徴づけられていたように思います。長老派は神学的に強靭な思考になる傾向があり、教会主催のセミナーにもしばし、神学校教授、弁証家、科学者、哲学者などが講演者として招かれていました。

 

自分の父親も、元々こういった知的な環境に惹かれ、教会に通うようになったのであり、父の書斎にはジャン・カルヴァン著作集、ピューリタンのジョナサン・エドワーズ著作集、それから最近の著述家としてはB・B・ウォーフィールド、A・A・ホッジ、C・S・ルイス、フランシス・シェーファーなどの著作集がぎっしり並んでいました。

 

こういったアカデミックな文化の一環としてだと思いますが、「人が真摯に真理を探究するなら皆必ず、私たちのような種類のキリスト教信仰に行き着くに違いない」という思いが私たちの内にありました。

 

「人を救うのは信仰であり、行ないではない」

  

しかしこういった環境の中に一つの不可解なアイロニーがありました。私たちは、「人を救うのは信仰であり、行ないではない」ということを強調していました。また、すべての人は ‟全的に堕落している(totally depraved)” という古典的プロテスタント信条を受け入れていました。ここでいう‟全的堕落”とは、私たちの最善なる倫理的努力も本質的に神の忌み嫌われるものであり、何ら価値/功徳(merit)を持たないという意味です。

 

高校に進学する頃までには、私はこういった諸教理から、「ということは、宗教的行ないや倫理的努力というのは結局自分の人生には関係ないものなんだ。」という結論を出すに至っていました。信仰を失ったわけではありません。それどころか、私はこれを徹底的に受け入れ自分のものにしたのです。

 

私はすでにキリストを救い主として心に受け入れ、‟ボーン・アゲイン”していました。そして聖書が神の御言葉であることを信じていました。さらに自分の宗教的/倫理的行ないにはなんら価値がないということも信じていました。それで私は倫理的な実践への努力をやめてしまいました。

 

大学入学後ふたたび信仰が息をふき返す

 

しかし幸いなことに、大学に入学後、私は個人的信仰復興を体験しました。また(将来の妻となる)ジルともキャンパスで出会い、彼女と共にプロテスタント礼拝に集うようになりました。私たちは共に信仰において成長してゆき、ニュー・オーリンズ大学の世俗的雰囲気に居心地の悪さを感じるようになりました。

 

そのため私たちはより霊的な学際環境を求め、大学2年の半ばで、福音主義のホイートン大学に転校しました。(1991年1月)。

 

ホイートン大学にて

 

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ホイートン大学(出典

 

ホイートン大学は、さまざまな背景をもつ真摯な福音主義クリスチャンの結集する灯台のような場所でした。多くの異なる教団教派出身のプロテスタントの学生たちがおり、皆、キリストおよび聖書に対するコミットメントという点で一致していました。

 

神学、弁証学、福音伝道というのが人生最高の召命であるということを幼い時から感じていましたが、ホイートンにはそれらがすべて豊満に提供されていました。ホイートン在学中に私は初めて、神学の道に人生のコミットをしようかと考え始めました。またこの時期にジルと私は婚約しました。

 

トリニティー神学校へ

 

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トリニティー神学校(出典

 

卒業後、私たちは結婚し、シカゴにあるトリニティー神学校に進学しました。当時の私の目標は神学教育を受け、ゆくゆくは博士号を取得することでした。母教会であれほどまでに皆に敬われ信頼されていた神学教授に自分もなりたいと思いました。

 

私は神学校での勉学に打ち込みました。1994年に、トリニティー神学校内で、“Evangelicals and Catholics Together” の文書*1が初めて出版されましたが、教授陣はほぼ全員、この動きに対して敵対的でした。カトリックとの間におけるいかなる妥協も、教授たちにとっては宗教改革への裏切りと映っていたのです。

 

宗教改革史を専門にすることに決意

 

私は、教会史の中でも宗教改革史を専門にしようと決心しました。また宗教改革を文脈の中に置いて考察すべく、キリスト教全史を理解したいと思っていました。こうして私はアイオワ大学の歴史神学科で博士課程のコースを履修し始めました。

 

博士課程スタートーー「信仰のみによる義認」の教理研究に打ち込む

 

1995年9月、私は博士課程のコースを始めました。私は初期、中世、宗教改革期の教会史の科目を履修し、教父文書、スコラ哲学神学者、プロテスタント宗教改革者たちの著述を研究しました。そして各段階において私は後代の神学者たちを前代の神学者たちに関連づけ、そして彼ら全てを聖書に関連づけようと努めました。

 

また特に「信仰のみによる義認」の教理の研究に打ち込みました。私たちプロテスタント信者にとっては、この教理こそが宗教改革によって‟回復”された最も重要な教義です。

 

ヒッポの教父アウグスティヌス

 

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宗教改革者たちは、自らが「信仰のみ」の教えにおいて、古代教会に倣っていると論じており、その証拠として、彼らはヒッポの教父アウグスティヌス(354-430)の著述に言及していました。神学校の恩師たちもまた、プロテスタント神学の源泉としてアウグスティヌスを挙げていました。なぜならアウグスティヌスは原罪、恩寵、義認の教理に非常な関心を持っていたからです。また彼は、こういったパウロの諸主題の体系的詳説を試みた最初の教父でした。彼はまた、「行ない」と「信仰」の間に鋭利なコントラストを置きました。*2

 

最初の困難点

 

アウグスティヌスが実際に救いに関してどのように説いていたのかということが明らかになり始めた時、私は最初の障害物にぶつかりました。簡潔に言いますと、アウグスティヌスはソラ・フィデ(「信仰のみ」)の教理を拒絶していたのです

 

もちろん彼は信仰および恩寵に対する高い見方をしていましたが、彼はそれを主として、善い行ないの源として見ていました。またアウグスティヌスは文字通り、私たちの人生が恩寵によって変えられる時、永遠のいのちを ‟得る(merit )”と教えていました。そしてこれはプロテスタント見解とはかなり異なっています。

 

自分にとってこの発見は深遠なものでした。「ということは、アウグスティヌスはローマ・カトリックの義認教理を説いていたっていうことなのか。なにかおかしいぞ。」

 

そこで私はさらに時代をさかのぼり、より初期の教父たちの著述に移っていきました。その中にきっとキリスト教遺物としての‟汚れなき純粋なる信仰”を見い出すことができるに違いないと思ったからです。しかし不幸なことに、初期教父たちは、アウグスティヌスのそれよりもひどい有様でした。

 

救いに関する初期教父たちの一致した見解に驚く

 

アウグスティヌスはラテン語圏の北アフリカ出身の人でした。他の教父たちは小アジア、パレスティナ、シリア、ローマ、ガリア、エジプトとさまざまな地域にまたがっており、異なる文化を反映し、異なる言語を話していました。そして異なる使徒たちとつながりを持っていました。

 

ですから、その中の幾人かはもしや福音をやや誤解して理解していた可能性はあると思いました。しかし彼らが揃いもそろって皆間違っているということはほぼあり得ないように思われました。‟真の信仰” は古代世界のどこかにおいて表されていなければならない。ーーそれなのに私はそれをどこにも探すことができませんでした。

 

それどころか、どこを参照しても、どの大陸、どの世紀に当たっても、教父たちは同意していました。ーーすなわち、救いは倫理生活の変化を通して来るのであって、「信仰のみ」によってではないと。彼らはまた、この変化はサクラメントの中で始まり、その中で滋養されるのであって、なにか個人的な回心体験を通してではないと教えていました。

 

プロテスタントであることを止めたくない

 

この時点で私はプロテスタント信者としてとどまり続けたいと強く願っていました。実に、自分の人生全体、結婚、家庭、キャリアすべてがプロテスタンティズムに固く結びつけられていたからです。

 

教会史の中におけるこういった発見は、自分の信仰アイデンティティーの根幹部分に対するものすごい脅威でしたので、私は安らぎと助けを求め、聖書学の方に転じました。

 

また私はパウロ理解において宗教改革者たちが正しかったという堅固なる証拠を求めていました。しかしその当時自分が知らなかったのは、20世紀における最良のプロテスタント学術研究はすでに聖書に関するルターの読みを退けていたということでした。

 

ルターのパウロ理解と信仰義認論

 

ルターは教会に対する彼の拒絶全体を、次のパウロの言葉に据えていました。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28)。ルターは、「‟信仰” と ‟行ない” というこの対比が意味しているのはつまり、救いのプロセスにおいて倫理性には全く役割がないということである」と考えていました。(伝統的プロテスタント見解によると、倫理的行ないというのは救いに対する『応答』であって、それに寄与する要因ではありません。)

 

しかしながら草創期の教父たちはこの見解を拒絶していました。また現在では多くのプロテスタント学者たちも、これ〔=ルターの解釈〕が元々パウロの意味していたことではなかったということを証言し始めています。

 

「新しい視点」が実は最も「旧い視点」であることに気づく

 

また近年の著名なプロテスタント学者たちも2世紀の教父たちと同様の見解に立っていることを知りました。20世紀後半以降、E・P・サンダーズ、クリスター・ステンダール、ジェームス・ダン、N・T・ライトといった学者たちは、伝統的プロテスタンティズムは深刻にパウロを誤読していると論じています。

 

ステンダール等によると、信仰による義認というのは主としてユダヤ人と異邦人の関係に関するものであって、永遠のいのちの条件としての倫理性の役割に関するものではありません。彼らの著述は、「パウロ研究の新しい視点」と呼ばれています。

 

この「新しい視点」の発見は、自分の聖書理解において重要な分岐点となりました。まず初めに、「新しい視点」とは言いますが、実はこれは最初期の教父たちの持っていた「旧い視点」なのだということに気づきました。

 

またこの発見により、自分が常に感じていたパウロとその他の聖書箇所との間の積年の緊張関係が解かれました。ルターでさえ、彼のパウロ読解と、山上の垂訓/ヤコブの手紙/旧約聖書との間の調和を見い出すことに困難を覚えていました。しかし一度「新しい視点」と導入すると、こういった困難点が消滅しました。

 

こうして私はしぶしぶ、信仰義認論において宗教改革者たちは間違っていたということを認めざるを得なくなりました。

 

また学術的な分野でのこういった発見は自分の私生活における発見とも並行していました。プロテスタント神学は行ないと信仰を強く区別していますが、それがいかに自分の人格形成に影響を与えてきたのかということが段々見えてきました。

 

子供の頃から自分にとって、神学、キリスト教弁証、福音宣教というのがキリスト者生活における至高の召しである一方、徳というのは正しい信仰から生み出される単なる実に過ぎないという認識がありました。不幸なことに、そういった実が自分の人生に欠けていただけでなく、自分の神学が実際に自らの悪徳に寄与してしまっていた感が拭いきれません。

 

ソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)

 

外面的には私は依然として反カトリックのスタンスを採り、宗教改革を擁護していましたが、内面的に私は心理学的・霊的苦悶の中にありました。カトリシズムを反証しようとの自分の動機がものすごい勢いで失われていくのを感じました。

 

そして自分の中に「ただ私は真理を学びたい」という思いが芽生えてきました。プロテスタント宗教改革者たちは、自らの反抗の根拠を「聖書のみ」の教理に訴えました。義認の教理に関する研究の中で私が知ったのは、聖書というのは改革者たちが主張していたようには明白な指針書ではないということでした。

 

そうすると疑念が湧き起ってきました。「もしも聖書に対する改革者たちの訴え自体が誤っていたのだとしたら?そしたらどうなるのだろう。それにそもそもなぜ、私は聖書を最終的権威だと捉えてきたのだろう?」

 

この問いを自問した時、私は驚きました。それに対するまともな回答を持っていなかったからです。私が聖書のみに訴えていた本当の理由は、それがこれまでずっと自分が教えられてきた内容だったからです。

 

ソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)の問題を調べるにつれ明らかになってきたのは、この問いに満足な回答を与えることのできたプロテスタント教徒は一人もいないということでした。宗教改革者たちは「聖書のみ」の教理を擁護していたわけではありません。そうではなく彼らは単にそれを主張していたのです。さらに悪いことに、「聖書のみ」を擁護しようとしている現代プロテスタント神学者たちは、こともあろうにその擁護をするに当たり、伝統に訴えているのです。それでは意味がありません。

 

さらに、「聖書のみ」という教理は聖書の中にさえそもそも存在していないということにも気づきました。この教理は自己反証的です。また草創期クリスチャンたちにとって、「聖書のみ」は、ーー「信仰のみ」の教理と同じ位ーー、馴染みのない新奇な教理であることも分かってきました。

 

「いかにして人は救われるのか」および「いかにして信仰を定義するのか」という問題に関し、最初期のクリスチャンたちは自らの中心を教会に据えていました。教会というのがキリスト教教理における権威であると共に、救いの管でもありました。

 

古代キリスト者、宗教改革者、福音主義者それぞれの教会観

 

教会というテーマが繰り返し繰り返し戻ってきました。福音主義クリスチャンは教会というのを、同じ考えを持つ信仰者たちの集まりとして捉える傾向があると思います。ルターやカルヴァンといった宗教改革者たちでさえも、現在の私たちよりはずっと強い教会観を持っていましたが、古代クリスチャンはそれらすべてを凌ぐ教会観を持っていました。

 

私はかつて「古代クリスチャンたちの教会への強調は非聖書的ではないだろうか。‟信仰のみ”に反しているのではないだろうか」と考えていたのですが、次第に、「いや、むしろ、私の福音主義の伝統の方こそ非聖書的なのかもしれない」と考えるようになりました。

 

聖書は、教会がキリストのみからだであると教えています(エペソ4:12)。福音主義クリスチャンはこれを単なるメタファーとして捉える傾向がありますが、古代クリスチャンたちはこれを文字通りにーー神秘的にーー真だと考えていました。それゆえにニュッサのグレゴリオスは「教会を見る者は実にキリストを見るのである」と言い得たのです。

 

この事を黙想しながら私は、このみことばは救いに関する聖書的意味についての深遠なる真理を語っていることに気づきました。聖パウロは、バプテスマを受けた者は主の死の中でキリストと結び付いているため、彼らはまた必ずキリストの復活においても主の内に結び合わされているということを教えています(ローマ6:3-6)。そしてこの結合は文字通り、クリスチャンをして、神のご性質に与る者とせしめるのです(2ペテロ1:4)。

 

聖アタナシオスは「主が人となられたのは私たちが神のようにされるためである*3」とまで言っています。今までよく把握できていなかった古代の教会観が今ようやく分かってくるようになりました。なぜなら救いそれ自体がキリストとの結合および主の御性質の中へと入りゆく絶え間ない成長であるということが見えてきたからです。

 

教会は単に同じ考えを持つ人々の集まりではなく、超自然的なリアリティーです。なぜならそれはキリストのいのちと御働きを分かち合っているからです。

 

サクラメントに関する発見

 

この気づきにより、サクラメントに関する教会の教理にも光が照らされました。教会がバプテスマを執行し、罪の赦しを宣言し、ミサにおいて聖体を提供する時、実のところ、本当にキリストがバプテスマを執行し、罪の赦しを宣言し、ご自身の御体および血潮を提供しておられるのだということを知りました。サクラメントはキリストを損うものではなく、まさに主の臨在を現前させるものなのです。

 

聖書はサクラメントに関しかなり明瞭です。もしもそれらをあなたが額面通りに受け取るなら、バプテスマは「聖霊による、新生と更新との洗い」(テトス3:5)であると結論付けざるを得なくなるでしょう。

 

またイエスは額面通りの意味で「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」(ヨハネ6:55)と仰せられました。また「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦される」(ヨハネ20:23)と約束されたイエスの言葉は出まかせではありません。そしてこれが古代キリスト者たちがサクラメント理解でした。

 

こうして私はもはや古代キリスト者たちを非聖書的だと責めることができなくなりました。何を根拠に私は彼らを拒絶できるというのでしょう?

 

古代キリスト教の教会観と聖人への崇敬

 

古代キリスト者たちの教会観を理解していくにつれ、私は聖人や殉教者たちに対する崇敬(veneration)に関しても理解がいくようになりました。聖人に関するカトリック教義は、キリストのみからだに関するこの聖書教理の発展形であるこということに気づいたからです。

 

カトリック教徒は聖人たちを礼拝(worship)してはいません。彼らはキリストの構成員たちにおいてキリストを崇拝しています。彼らの執り成しを祈願することにより、カトリック教徒はキリストがここに臨在しており、天においてご自身の教会で働いておられるということを告白しているにすぎないのです。

 

実際、この教えは古代教会の敬神の具体化でした。プロテスタントの英雄であるアウグスティヌスの研究を続ける中で私は、彼もまた聖人への崇敬という教えを完全に受容していたことを知るに至りました。

 

アウグスティヌス研究者ピーター・ブラウン(1935-)もまた、聖人たちは古代キリスト教にとって付随的なものではなかったということを私に教示してくれました。彼は、古代キリスト教を聖人への崇敬から切り離すことはできないと論じ、アウグスティヌスをこの伝統の中に入れていました。またブラウンは、これはキリスト教に流入した異教慣習ではなく、キリスト教の救済観と密接に結び付いた観念であることを表示しています。*4

 

博士課程を修了する頃までに、私のカトリック教会の理解は完全に変わっていました。カトリックのサクラメント教理、救済論、マリヤや聖人たちへの崇敬、権威に対する教会の主張などはすべて、最古の伝統の中で、そしてキリストおよび使徒たちの明白の教えの中において聖書に根差しているのだと理解するようになりました。

 

現在の福音主義は、宗教改革者の元々の教理からもかけ離れている

 

また研究を続ける中で、自分の福音主義遺産は、古代キリスト教からかけ離れているだけでなく、宗教改革期のプロテスタント創始者たちの教えからも遠ざかってしまっていることに気づきました。

 

現代のアメリカ人福音主義者は、クリスチャン人生は、私たちが「イエス様を心にお迎えした時」に始まると説いています。この教えの中では、個人的回心(“being born again”)が肝心なものであり、キリスト者アイデンティティーの始まりであると捉えられています。しかし、教父文書を読んで分かったのは、これは初代教会の教えではないということでした。

 

また宗教改革史の研究を通し、これが草創期プロテスタントの教えでさえもなかったことが明らかになりました。カルヴァンもルターも、一義的にはっきりと、バプテスマをキリスト者生活の始まりと捉えています。彼らの著述のどこを探しても、‟ボーン・アゲイン”への勧告は見い出されませんでした。

 

また宗教改革者たちは、ユーカリスト(聖餐)を重要でないものと斥けてもいませんでした。ルターもカルヴァンもたしかにサクラメントにおけるカトリック神学は拒絶していましたが、にも拘らず両者共に、キリストはユーカリストの中に実在しているということを主張していました。*5

 

カルヴァンに至っては1541年に、こういったユーカリストに関する正当な理解は「救いのために必須である」とまで説いています。ですから、カルヴァンにとっては、個人主義的な‟ボーン・アゲイン” キリスト教というのは彼にとって全く無縁のものだったのです。

 

暗闇の日々と見えない将来ーー主よ、私を助けたまえ

 

2002年12月に私は博士号を取得しました。博士後期課程の最後の数年は実際、真っ暗闇でした。いろいろな事が自分の中で不安定になっていき、今後どうすればいいのか、未来が全く不明瞭でした。信仰の確信が激しく揺さぶられ、今後自分は果してなにかを信じることができるのだろうかと懐疑の念に苦しめられました。

 

そんな中、カトリシズムがキリスト教信仰に関する最も賢明なる解釈であるように思われてきました。しかし幼年期以来の信仰の喪失は自分にとってとにかく壊滅的でした。私は導きを求めて祈りました。あの危機的状況から救い出されたのは神の恵みだったと信じています。その時点で、私には妻と4人の子供がおり、神はその時ついに、自分には研究書以上のなにかが必要であるということを示してくださいました。

 

率直に言って、その時私は本当に、「信仰のみ」以上のものを必要としていました。私は自分の生を生き抜き、数々の自分の罪と戦うための真の助けを必要としていました。そして私はこの助けを教会のサクラメントの内に見い出しました。「聖書のみ」ではなく、私には権威を持った教師からの真の導きを必要としていました。

 

私はこの導きを、教会の教導権の内に見い出しました。そして自分はーー地上における聖人たちの著作だけではなくーー本当に彼ら聖人たちの一群すべてを必要としていたことを知りました。

 

こうして2003年11月16日、私はカトリック教会に入りました。私は、自分をキリストおよび聖書に導いてくれた両親に感謝しています。そしてついに私を教会に導いてくれた聖アウグスティヌスに感謝しています。

 

ー終わりー

 

その他の信仰道程シリーズ

【その2】【その3】

【後篇】

 

 

*1:

*2:Augustine, On the Spirit and the Letter, 412を参照。

*3:De incarnatione, 54.3

*4:Peter Brown, Cult of Saints: Its Rise and Function in Latin Christianity.

*5:訳者注:関連記事