巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「正統性」とは何だろう?

彼らは「何/誰」によって殺されたのだろうか?

 Related image

出典

 

John Foxe, Foxe's Book of Martyrs, Chapter 16(抄訳)

 

ミュンヘン(1527年)

ジョージ・カーペンターの元に、聖ペテロ教会のとある教師がやって来て言った。「わが友ジョージ。これからお前に臨もうとしている死と刑罰を恐れないのか?自由の身になれるのだとしたら、お前の妻と子ども達のところに帰りたくはないのか?」

それに対し、彼は答えた。「もしも釈放されるのなら、わが妻と愛する子ども達のところにだれか帰りたくない人がいるでしょうか?」

すると教師は言った。「お前の見解を取り消せ。そうすれば釈放される。」

ジョージは答えた。「妻と子ども達は私にとってなににも代えがたいものです。そしてバイエルン卿のすべての財宝をもっても彼らの価値には代えられません。しかしわが主なる神に対する愛ゆえ、私は進んでこの道を行きます。」

 

コンスタンス(1416年)

プラハのヒエロニムスに対し有罪判決が言い渡されると、〔あざけりと辱めのために作られた〕長い巨大な紙製の司教帽が彼の元に持ってこられた。その紙帽には赤い悪魔たちの絵が描かれていた。彼はその紙帽をみると、自分の頭巾を、司教たちの座っている場に投げ捨て、あざけりの紙帽をかぶり、次のように言った。「われらの主イエス・キリスト。汝が私のために苦しまれた時、茨の冠をかぶられました。そして今、私は汝ゆえに、茨の冠の代わりに、この紙帽をかぶりたく思います。」

 

オルレアン(1549年)

ロープがアン・オウデバートの体に巻き付けられた時、彼女はそれをキリストととこしえに結ばれるための「契りの帯」と呼んだ。(土曜日に焚刑)

 

ブリュッセル(1544年)

処刑場に引かれていったギレス・ティールマンは、そこに〔自分に対する焚刑用の〕たきぎの山を見た。すると彼はたきぎの大部分を取りのけ、それらを貧しい人々に与えるよう要請した。「私には少しで十分ですから」(と彼は言った。)また、靴も履いていない一人の貧しい男をみた彼は、自分の履いていた靴をその男にあげた。「この靴が焼かれ、そして貧しい人が寒さで凍え死んでしまうよりは、こうした方がよいから」(と彼は言った。)焚刑柱に立つと、死刑執行人が〔焚刑以前に〕彼を窒息死させようとした。しかしギレスは死の痛みを緩和するためのそのような措置は必要ないと執行人に伝え、次のように言った。「私は炎を恐れていません。ですからあなたはご自分の命じられたことを執行なさってください。」こうして殉教者は、炎の中で眼と天に向けつつ、死んでいった。そして彼の死は周りに立っていた人々すべてに大いなる嘆きを起こさせた。

 

ーーーーー

 

正統性とはなんだろう?

だれが、いつ、どのようにして正統とされるのだろう?

教会的理神論のリスクを負ってでも、‟異端”の可能性を生涯この身に引き受けながらも、人はこの問いを問い続けなければならないのだろうか?

おお、「可視的」教会の「正統性」によって流された無数の人間の血と叫びに、人はいかにして耳を塞ぐことができるだろうか。主よ、助けたまえ。