巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

正教徒クリスチャンになるために人は必ず「アンチ西洋的」にならなければならないのでしょうか?(by ベンジャミン・ケイブ、東方正教会)

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目次

 

Benjamin Cabe, Do You Have To Be Anti-Western To Be Eastern Orthodox?, 2016(拙訳)

 

 

Ben Cabe Photo bw

ベンジャミン・ケイブ。アーティスト、作家、映画製作者。プロテスタント無教派の宣教師家庭に生まれ、アフリカで成長する。2013年、妻と共にミシガン州にある東方正教会のメンバーとなる。他のキリスト教伝統のクリスチャンたちとの意味ある対話を求め、Conciliar Post.を開設。一児の父。

 

私たちの失敗

 

T・J・ハンフレイ兄(現:聖公会司祭)の次の記事がインターネット上で反響を呼んでいます。

 

 

彼の記事に対する大勢の人々の共感と反響の大きさから示されるのは、私たち東方正教会クリスチャン側の問題ある態度(特に正教会改宗者たちの誤った態度)の実態だと思います。

 

本稿で私が書きたいのは正教弁護ではなく、謝罪です。T・J・ハンフレイ兄(そしてその他のみなさん)、申し訳ありません。そして正教改宗者としての私もまたこの責めから自由ではないということを告白いたします。

 

ハンフレイ氏の記事は多くのテーマを含んでいますが、主題は、なんといっても、多くの東方正教クリスチャンたちの内にみられるエリート主義的で勝ち誇った態度です。それに関し彼は次のように回想しています。

 

「さて次に挙げるのが、正教のあり方に関し〔当時プロテスタント求道者であった〕自分がはたと立ち止まった点です。ーー私はそもそも ‟新しい信仰” を求めて正教会の門をくぐったわけではありませんでした。

 

 カリストス・ウェア府主教の言葉を要約するなら、私は自分がすでに持っている信仰の ‟より豊満なるバージョン” を求めていたのです。しかしこういった自分の姿勢は、現実に私が交わり関係性を深めていった東方正教会の人々のの目に十分なものではありませんでした。そうです、私はキリスト者としての自分の過去全てを放棄し拒絶するよう期待されていたのです。つまり、プロテスタントとしての私にまつわる全ては自分にとってアナテマとならなければならなかったのです。

 

 自分を取り巻く正教の方々は、私が彼らと同じような強さで西洋的なものやプロテスタンティズムに関わる一切のものを憎みきれていないことに困惑しておられました。でも私はプロテスタントとして自分がこれまで受けてきた恵みを不適格なものとして宣言・破棄することがどうしてもできませんでした。これまで長きに渡りずっと自分を養い続けてきた‟手”に噛みつくことが私にはどうしてもできなかったのです。」(引用元

 

これは確かに的を射た指摘です。西洋キリスト教に対する憎悪の念は、東方正教のある一角に見い出されます。そしてこの現象は昨今、ハイテクな正教改宗者の増加および「インターネット正教」の出現によりさらに悪化しています。

 

ですから私としては、自分たち正教クリスチャンたちの間にみられるアンチ西洋や傲慢な勝利主義的態度を弁護する意図はなく、ただこれによって傷つけられ、また苛立ちを覚えておられる方々に謝りたいのです。

 

現実世界におけるハンフレイ兄の東方正教との出会いは、西洋キリスト教に対する無数の論駁を試みてきた正教クリスチャンたちでほぼ占められていました。ですから仮に彼がこういった人々の間にい続けたのなら、彼もまた彼らのアンチ西洋主義の影響を被っていたはずです。しかし彼は賢明にもそれを拒みました。この点で私たち正教クリスチャンもハンフレイ兄の例に倣うべきだと思います。

 

なぜこういったエリート主義的態度が蔓延しているのか?

 

東方正教会が豊かな霊的伝統および遺産を持っているのは事実です。しかし人々は問いかけます。「もしも正教クリスチャンたちがそれほどに深い霊的井戸からいのちの水を飲んでいるのなら、なぜ彼らの界隈はこれほどまでにキリストに似つかわしくない高慢な態度が蔓延しているのでしょうか」と。良い質問です。

 

多くの正教クリスチャンはーー特に改宗者たちはーー正教信仰に対する知的熱情で燃えたぎっています。これはしばし‟改宗者熱”と呼ばれ、新しい改宗者および正教に関心があり半分入門しかかっている求道者たちの間にしばしみられます。そして改宗者熱で燃えたぎっている人々は全世界の人々をーー特に自分が今しがた離れたばかりの教派伝統の人々をーー正教に‟改宗”させようとします。

 

そして多くの場合において、(特に改宗者である彼が‟神との合一に到る道である”と確信している内容に関し相手がそれを受け入れようとしない場合)、そういった ‟伝道” は、上から目線のエリート主義的な形をとって表れてきます。

 

しかしもしも彼が神との合一に到る道を進みつつあり、且つ、深い霊的井戸から飲んでいるのなら、なぜ彼はこれほどまでに高慢ちきなのでしょう。これは東方正教キリスト教の道に対する不信用性を示すものなのでしょうか。いいえ、そうではありません。こういった現象が示しているのは、彼が霊的旅路のほんのスタート地点にいる一介の罪びとに過ぎないという事実だと思います。

 

霊的旅路の三つの段階

 

ソフロニー長老(ハンフレイ兄の愛読書『アトス山の聖シルアン』の著者です。)はキリスト者生活を一般化して一つに括ることに対し、常に慎重な態度をとっていました。

 

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Elder Sophrony(1896-1993)ロシア生まれのアトス山修道僧。

 

しかしそんな彼も、きわめて大ざっぱに、人々が霊的旅路において通過する三つの段階について述べています。

 

まず第一に私たちは、(ルカ15章の放蕩息子のように)、‟我に返る”経験および神の恵みを経験します。こうして旅が始まります。そして次には、神の恵みが退き、私たちは霊的砂漠を経験します。そして最後に、神の恵みがーー砂漠の中で信仰を試され‟初めの愛”の中でそれを堅く証した人々にーー戻ってきます。*1

 

ソフロニー長老によると、最初の段階は数日間から7年間ほど続く場合が多く、二番目の段階は、クリスチャンとして私たちが過ごす地上での人生の大半を占めます(忍耐です!)。そして三番目にして最後の段階に到ることなく砂漠の中で死ぬ人々もいますが、やがて多くの苦闘と忍耐の後、私たちは‟子として生まれ; begotten as sons”ます。

 

アンチ西洋的傾向を見せ、また高慢な勝利主義を振りかざし始める東方正教改宗者たち(or熱狂者たち)の大部分は、ソフロニー長老の言う「第一の段階」において初めて神の恵みを味わっているのだと思います。そしておそらくそれは彼らが自分たちのかつての教派的伝統において一度も経験したことのないものなのだろうと思います。

 

彼はこの ‟いにしえの道” を発見し、恵みに次ぐ恵みを経験しています。そのため、その事を信じない人々や正教に改宗しようとしない人々に出くわすと彼はなにかしら腹立たしい思いがし、反撃に出るのです。

 

不幸なことに、第一の段階で経験する恵みは、彼のかつて属していた教派伝統の ‟無力さ” に対する憎悪を確かなものとするべく悪用されがちです。しかし本来、東方正教は決して人々をアンチ西洋主義に導きはしません。それゆえに私は東方正教キリスト教ーーもしくはキリスト教一般ーーは無価値なものとして片づけられないと信じているのです。

 

ハンフライ兄は東方正教の恥ずべき部分を直に見、経験しました。それは汚れた衣服類のようであり、最終的に求道者であった彼につまずきを与えてしまいました。ただ覚えておきたいのは私たちがどこにいても、常にこういった恥部はあるということではないかと思います。

 

別の方は、「エリート主義は何も正教に限られた現象ではなく、プロテスタンティズム内にも同様に見い出される現象です」と述べておられました。そして福音主義者だった当時、私もまた、「ローマ・カトリック教徒は救われておらず、地獄に向かっている」と考えていたことを告白します。主よ、私を赦してください。

 

ウェストボロー・バプテスト教会がプロテスタンティズム全体を代表するものでないのと同様、多くの正教改宗者たちの間にみられる勝利主義や高ぶりもまた、正教全体を代表するものと捉えられてはならないと思います。

 

定義

 

ここまで私たちは、‟アンチ西洋”、‟勝ち誇った(勝利主義的)”、‟エリート主義的”とかいった言葉を特に定義づけすることなく使ってきました。ですが実際、これらの言葉は何を意味していて、何を意味していないのでしょうか。(特に本稿の文脈において)。

 

東方正教におけるアンチ西洋主義はその源泉を、ヒッポのアウグスティヌスに対する悪者扱い/悪魔化に見い出すことができると思います。アウグスティヌスは東方キリスト教世界ではしばし、万能《身代わりぶたれボーイ》的な用いられ方をしています。

 

こうして、聖アウグスティヌスの神学の中における諸欠点や、それらが後代西洋キリスト教に及ぼした〔負の〕影響がキリスト教史を通し彼ら正教徒たちによって追跡され、しばし、劇的にして大げさな文章の中で表現されています。

 

これは複雑に入り組んだ諸問題に対する魅力的単純化作業でありーー特に、自らのかつての霊的伝統によって‟傷つけられ、それに対し怒濤の如き怒りを覚えている”東方正教改宗者にとっては魅力的な作業です。

 

‟勝利主義的”、‟エリート主義的”という語は、「唯一の意義ある神との関係は東方正教会を通して実現され、その他すべてのキリスト教共同体は無益にして価値がない」という思想を内包しています。しかしこういった用語は時に、東方正教の排他性に苛立ちを覚えている福音主義者によって皮肉な響きで用いられており、必ずしも常に東方正教会に対する正確な適用描写とはなっていないという点もあるのではないかと思います。

 

正教信仰は教会として自らをどう見ているのか

 

東方正教の信仰や慣習の中には福音主義者の気分を害するようなものが数多くあります。その中の一つが閉鎖コミュニオンです。正教は、正教徒でない方々が聖体礼儀(聖餐)に与ることを許可していません。また他の伝統のクリスチャンたちに加え、(いくつかの理由により)正教会はある種の正教クリスチャンたちとのコミュニオンも控えています。

 

聖体礼儀への参加には、精神、魂、教義における一致および、教会生活(断食、施し、懺悔など)への積極的参加が要求されます。

 

またもう一つ、西洋のクリスチャンたちの不評を買いがちな正教信仰の一つが、「東方正教キリスト教会はもっとも豊満な形でのキリスト教教義および実践を包含している」という信条ではないかと思います。ですから、その他のキリスト教伝統が、正教教義とかみ合っていない時、その部分はそういった諸伝統の教義的誤りだという風にみなされます。

 

正教クリスチャンの中には、「非正教クリスチャン共同体であっても(信条や実践の面で)Truthに近い共同体もあり、そうではない共同体もある。しかしそうではあってもやはり、聖霊は、東方正教会の教義や霊的慣習を保持してきたのであり、よって正教会は真理の豊満性の中にある」と信じる向きもあるでしょう。

 

そしてこういった考え方はもちろん、ーー「僕はOK、君もOK」というーー、アメリカ的理想からかけ離れています。ある種の事柄(多くの事柄)において東方正教会は不動であり、方針変更をしようとはしません。そしてこれが多くの人々を苛立たせます。

 

しかしこういった信条や慣習が不可避的に、正教徒を西洋蔑視型のクリスチャンにするかといったらそんな事はありません。こういった諸信条はそれ自身においてはアンチ西洋でも、勝利主義的もなく、エリート主義的でもありません。

 

‟他のキリスト教諸伝統との対話”の場においては、常に互いに同意できない事柄があります。ですから私たちは、自分とは違う伝統のクリスチャンと何か意見を違わせ、話し合う際、互に対する気遣いと思いやりを持ってそれをなすべきです。これが鍵だと思います。しかしとにかく肝心な点は、「人は東方支持者(pro-eastern)となるべく、アンチ西洋になる必要はない」ということです。

 

正教会の同胞信者のみなさまへの提言

 

前項で私たちは聖アウグスティヌスのことについて触れ、彼は時に、東方正教クリスチャンたちによって軽視され、拒絶されているということをお話しました。正教クリスチャンの中にはそこからさらに進んで、アウグスティヌスのことを異端者呼ばわりしている人々もいます。

 

しかしこういった考え方における明らかな誤りは何かというと、東方正教会自体が正式にアウグスティヌスのことを聖人と認めているという事実と矛盾していることにあります。

 

実際、非常に保守的な正教司祭であるセラフィム・ローズ神父は、『正教会内における聖アウグスティヌスの位置;The Place of Blessed Augustine in the Orthodox Church』と題した著書を記し、当時蔓延していたアンチ西洋的エートスに対抗し、正教会がアウグスティヌスを聖人として認可している事実を擁護しました

 

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セラフィム・ローズ(Seraphim Rose;1934-1982)

 

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私たちは聖アウグスティヌスが言っていること全てには同意していませんが、それでも彼の敬虔さゆえに、そして悔悛の模範として彼を崇敬しています。そしてこれが西方教会の兄弟姉妹を見る私たちのまなざしでなければならないと私は考えています。

 

多くの場合において、これらの男性/女性は、自らの霊的生活の中で私たちの周りを歩いています。(少なくとも自分の場合はそうですーープロテスタント信者である自分の両親や兄弟たち、そしてローマ・カトリック教会の友人たち)。

 

毎週、聖ユーカリストに与る直前に私たちは自分たちが「罪びとのかしら」であることを是認します。しかしもしも私たちが自分の兄弟の粗探しに躍起になっているのなら、その時私たちは真の意味で自分のことを罪びとのかしらだとは思っていないし、そう告白できていないことにもなります。

 

そしてここが正念場だと思います。正教徒はしばし、癒しと真の変革への方法として正教の霊的道程を人々に示し(←実際にこれは正しいです)、聖人たちを私たちの模範として仰いでいます。

 

しかし今日に生きる正教クリスチャンとしての私たちの生そのものがこの変革を世界に映し出すものとならなければなりません。そして私たちはキリストの光で輝いていなければならず、自分たちが出会う全ての人々にとっての小さなキリストでなければなりません。そしてこの領域において私たちはハンフソン兄や他の多くの兄弟姉妹をつまずかせています。

 

どうぞ赦してください。

 

ー終わりー

*1:This is a summary of what Elder Zacharias says  in his book, Remember Thy First Love, about Elder Sophrony’s three stages of the spiritual life.