巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

転向すべきか留まるべきか?ーー私が東方正教会に接近しながらも結局「越境」には至らなかった理由【あるプロテスタント教会牧師の葛藤と内的相剋の記録】

Dubravka Kolanovic - ha14.jpg

 「〈堅実〉という名の頑迷/錯誤があり、そうかと思えば〈柔軟〉という名の迎合/狡猾もある。この世界で信仰者として生きるっていろいろむずかしいね。」

「うん。そうだね。ボクたちどうしたらいいんだろね。」

 

目次

 

T.J. Humphrey, Why I Didn't Convert to Eastern Orthodoxy: To My Eastern Orthodox Friends Am I Really A Heretic?, 2016 (全訳)

 

ある著書との出会い

 

目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。1コリント12:21

 

話は数年前に溯ります。私と妻は、セント・ルイス中心街にあるギリシャ正教会の主催するギリシャ祝祭に行ってみることにしました。建物内を歩き回りつつ、どの料理が一番おいしそうかなあと見回っていますと、玄関口に書籍販売コーナーがあるのに気づきました。

 

本の虫である私はさっそく一冊の本を手に取ってみました。今まで一度も聞いたことのない著者名でしたが、初めの部分を少し読んでみることにしました。簡潔ながらも美しく表現されており、これまで自分が親しんできた西洋キリスト教とは違うなにかを感じました。

  

この著者は私が日頃「こうではないかなぁ」と漠然と思っていたことをすばり表現してくれているように感じました。(でも公言すると皆から村八分にされそうで自分は黙っていました。)

 

でもこの著者は大胆にも、救済論における共同的性質や、地獄の自己刑罰、教父の重要性、救いのための祈りの必要性などを公に主張していました。実はその当時すでに自分は、個人主義的で単なる知的同意だけを基にしたキリスト教の側面にかなり疲れ切っていました。また私は著者の言っている内容にかなりの深遠さを感じました。

 

祈りに関してもこの著者は己の言っていることを本当に熟知しているようでした。また彼の言説には伝統や歴史もまた反映されているようでした。それで、私はたちまちの内にこの本に魅了されました。著者はかの有名なカリストス・ウェア府主教で、書名は「私たちはいかにして救われるのか?(“How Are We Saved?”)」でした。

 

正教の信仰に関心を持つ

 

そしてこの日を境に、非常に濃密なる霊的旅路が始まりました。私は正教の信仰や教父たちのあり方についてもっと学びたいと思いました。

 

そこで私は一般のプロテスタント教徒ーー特に自分のように改革派的背景を持つ人々ーーが始める地点からスタートすることにしました。つまりまずは知的・神学的考究から出発したのです。私は近くにあるいくつかの教区で執り行われている晩課(Vespers)に参加し、地域教区の正教徒や神父たちと積極的に対話を求めました。

 

牧会者として燃え尽き寸前

 

こういった体験はやや消防ホースから水を飲もうとするような試みであるようにも思えましたが、その当時自分は霊的に脱水状態にあったのでそれも消化可能であるように感じました。自分の祈りの生活は散々で、当時自分が関わっていたミニストリーの現場で私は燃え尽き寸前の状態にありました。

 

正教の世界はとんでもなく奥が深く理解するのに相当の労力を要するように思えましたが、あえてそれにタックルするに値する治療的な要素がここにあるんじゃないかと私は感じました。そして気づいたのは、正教というのは、それまで自分の属してきた西洋キリスト教のバージョンよりもずっと包括的であるということでした。

 

またそこには深遠なる神学的視点だけでなく、禁欲主義を通しそれを実際に生きるための道が示されていました。また私が強く惹きつけられたのは、正教には、個人的祈りの生活および公同礼拝においてがっしりとした不動の骨格があるという点でした。

 

当時私は自分のプロテスタント教会の主日礼拝をリードしていましたが、自分自身のパーソナリティーを中軸に、常に新しい形のワーシップ礼拝を導入していかねばならないあり方に疲れを覚えるようになっていました。

 

また自分の属する改革派の伝統の中で、いかに祈りがーー特に無声の祈りがーー軽視され、ないがしろにされているのかに私は大いに疑問を抱いていました。他方、正教は、神の民が礼拝のために集う上での道を提示し、人々が祈りを具象化する方法を教示できているように思えました。そしてこういった事の内に修復的ななにかを私は見い出しました。

 

こうして私は東方正教会の著述をどんどん読み進めていきました。ジョン・ズィズィウーラスの著作は全て読了し、ディミトゥ・スタニロエーの著作もほとんど読みました。ソフロニー長老著『アトス山の聖シルーアン(“St. Silouan the Athonite”)』は自分の愛読書になりました(今でもそうです)。そして入手可能なソフロニー長老および彼の弟子であるザカリアス修道院長の著作にはすべて目を通しました。

 

その後、ある方からジョン・ベア(John Behr)の著作群を紹介され、私は彼の教えをスポンジのように吸収していきました。こういった現代著述家たちの作品の大半を読了した後、今度は(彼らが作品の中で頻繁に引用していた)教会教父たちの著述を読み始めました。

 

エイレナイオス、ヨハネ・クリュソストモス、グレゴリー・パラマス、アイティオケのイグナティオスなどを多くの時間を割いて研究しました。またズィズィウーラスやスタニロエーの感化を受け、カッパドキア教父や告白者マクシモスに対する愛が芽生え、彼らの作品も精読しました。

 

少し我に返る

 

私は夢中になっており、こうして正教に関するあらゆるものとの甘美な恋の時期にありました。しかしながらその後しばらくするうちに、私はある不可解な現象に気づくようになりました。

 

実は妻は、私よりもずっと前にこの事に気づいており、私の心の中で燃え上がりつつあった正教信仰への愛を私と共有してはいませんでした。当初私は、なぜ妻が自分と同じようにこの信仰のあり方に歓喜していないのか不思議でなりませんでした。しかし、時間の経過と共に、最初の蜜月が過ぎ、のぼせ上がりの状態を徐々に脱しながら、私は物事をもう少し冷静な目でみることができるようになっていきました。

 

プロテスタントとしての過去全てを否定しなければならないのか

 

さて次に挙げるのが、正教のあり方に関し自分がはたと立ち止まった点です。ーー私はそもそも ‟新しい信仰” を求めて正教会の門をくぐったわけではありませんでした。

 

カリストス・ウェア府主教の言葉を要約するなら、私は自分がすでに持っている信仰の ‟より豊満なるバージョン” を求めていたのです。しかしこういった自分の姿勢は、現実に私が交わり関係性を深めていった東方正教会〔の人々の〕の目に十分なものではありませんでした。そうです、私はキリスト者としての自分の過去全てを放棄し拒絶するよう期待されていたのです

 

つまり、プロテスタントとしての私にまつわる全ては自分にとってアナテマとならなければならなかったのです。自分を取り巻く正教の方々は、私が彼らと同じような強さで西洋的なものやプロテスタンティズムに関わる一切のものを憎みきれていないことに困惑しておられました。

 

でも私はプロテスタントとして自分がこれまで受けてきた恵みを不適格なものとして宣言・破棄することがどうしてもできませんでした。これまで長きに渡りずっと自分を養い続けてきた「手」に噛みつくことが私にはどうしてもできなかったのです。

 

自分を含め、道を探求している人々は、もはや90年代のあのフランク・シェーファーのようなスタンスではありません。私たちの世代の多くはもう彼のように、自分たちの霊的生育環境に完全に失望した上でカンカンに怒りつつプロテスタンティズムを捨てる、といった態度は取っていないと思います。

 

*尚、フランク・シェーファーはその後、東方正教会からも離れ、現在は、「神を信じる無神論者」を自称しています。(参照

 

また数多くの正教改宗者たちによってなされるアグレッシブな反西洋的スピーチはしばし、正教の指導者たちの喝采を受け支持されており、そういった現象は本当に自分の心を悩ませました。

 

こうしてなかなか「改宗」できずにいた私は、正教にとって、典型的な反西洋を象徴するポスター・チャイルドとなり、自分の霊的旅路はここから急速にある方向に進み行こうとしていました。

 

プロテスタントやカトリックの友人を「異端者」と宣言することはどうしてもできない

 

ああでも私は、敬虔なクリスチャンの友人たち(プロテスタントやカトリック)に向かい「あなたがたは『異端者』であり『分離主義者(“schismatics”)』です」などと言う事はできませんでした。どうしてもできなかったのです。(それに、そもそも、友人たちの多くは東方正教会という名前さえ一度も聞いたことがありません。)

 

正教の信仰について求道していた時に自分に対して言われたような内容をとてもじゃないけど友人たちに言うことはできませんでした。信徒にしても司教にしても自分を取り巻く正教の方々は、私が質問しに行く度に喜んでくれました。なぜなら彼らはこういった「伝道」の機会をいつも喜んでいたからです。

 

理解できなかったのは、何年にも渡りキリストに従うクリスチャン生活を送ってきた自分がなぜ「伝道 “evangelized”」される必要があるのかということでした。逆に、例えば私は、正教徒でない自分のクリスチャンの友人たちをあたかも彼らがノンクリスチャンであるかのように扱い、正教に ‟伝道” するという事はできませんでした。友人たちが真正なるキリストの教会の一部ではないかのように取り扱うことは私にはできませんでした。

 

正教の方々の多くはこういう私の態度をみて「あなたは余りにもこの世的だ」と非難されることでしょう。曰く、私はただ単に、政治的公正さや包括性に向けた現代西洋的感覚を受容しようとしているだけなのだと。

 

でもそれは違います。私は、単に友人たちの感情を害したくないがために、(非正教徒である)クリスチャンの友人たちに対し「あなたがたは異端者であり、実際には大文字のChurchの一員ではないのです」と言うことを拒んでいるわけではありません。

 

私がそういった非道な事を彼らに言うことを拒んでいる理由は、それが全く真実ではないからです。私はプロテスタンティズムの中でキリストを見い出しました。いや、より正確に言うなら、プロテスタンティズムを通しキリストが自分を探し出してくださったのです。私はこういった事を決して否定しませんし、自分の周囲の人にそれを否定するよう望んでもいません。

 

自分のこの苦悩を司教とそれから一人の修道士にシェアしたところ、彼らは共に、「~~したらあなたの心に平安が与えられるでしょう」と提言してくださいました。私は彼らの指針を心に留め、その言葉に従って、数か月に渡り、祈りと断食を行ないました。

 

そしてその後、私の正教接近の歩みが止まりました。なぜならこの旅路は自分に平安をもたらさなかったからです。最終的に気付いたのは、これら全ての根幹部分にあって、自分は「キリストのようなへりくだり」と「正教」ーーこの二つを同時に追求することの不可能性を思い知ったのでした。

 

自分は神の国の中に入れられていると信じつつ、他のクリスチャンを神の国から除外されている者として宣言することは私にはできませんでした。

 

自分の知っている圧倒的大多数のクリスチャンたちーーその中のほとんどは正教会についてほとんど何も知っていませんーーが唯一の正しいキリストの道(Way)を見い出しておらず、従って主と結び付いてもいないということを私は信じることができませんでした。そして西洋のクリスチャンの友人たちが異端者であるということを信じることができませんでした。

 

結局、私を幻滅させたのは神学でも典礼でもありませんでした。私がつまずいたのは、幾人かの正教の人々の持つエリート主義的態度および、こういった人々が私に望んでいる事柄でした。

 

フランク・シェーファーが講義の中で「正教にとって救いというのは神秘なのです」と言っていたのを思い出します。自分の知る正教の人々の多くはこの観念に同意されることでしょう。ーー但し、それはあなたが正教徒になる改宗の道を辿りつつあるならの話です。

 

でも、もしもあなたが正教に改宗する気がないのなら、そしたら、救いというのはもはやそう神秘に満ちたものではなくなります。なぜなら正教徒でないあなたはどのみち救いを得ないからです。

 

前述しましたように、カリストス・ウェア府主教は、「正教というのは信仰の ‟より豊満なるバージョン” です」と言っておられます。そしてここでも、ーーあなたが正教徒になりつつある改宗の道の途上にある限りにおいてーー自分の知る正教のみなさんの多くはカリストス府主教のこの言明に同意されることでしょう。でももしあなたがその道にないのなら、その時、‟信仰のより劣ったバージョン”など、実際には全く信仰のうちには入らないのです。

 

ジョン・ズィズィウーラス大主教は「故G・フロロフスキー神父がしばし言っていたように、教会の真正なる公同性は、西方と東方、その両者を包含しなければなりません。*1」と言っています。そしてここにおいてもまた、ここで言及されている「西方」というのが、実際の西方教会それ自体ではなく、あくまでも西洋における正教会を指し示す場合に限って、自分の知る正教の人々の多くは大主教のこの言明に同意することでしょう。

 

しかしここで申し上げておきたいことがあります。私は正教徒クリスチャン全てを批評しようとしているのではありません。本稿は正教全体に対する反応ではなく、自分の非常に限られた正教とのかかわりに関するものです。

 

正教と接点を持った多くの人々やこの共同体に改宗した方々の中には自分のそれとは大きく異なるストーリーを持っておられるかもしれませんし、私も十分にそのことを承知しております。繰り返しになりますが、私は東方正教会を批判をしようとしているのではなく、東方正教コミュニティーの一角にいる人々の態度について疑問を感じているのです。

 

またこの記事を読んでおられる正教徒の読者の方々もいくつかの異なる反応の仕方をすることだろうと思います。ある人々は心底、私が異端者であることを信じており、その異端者がバカなたわごとをとうとうと語っているとしか受け取らないでしょう。

 

別のある人々は、私がどこから来ているのかを理解してくださるかもしれません。(たとい幾つかの点で私に同意できなかったとしても)。なぜならこういった人々は正教界内部にたしかにそういった風潮があることを見抜いており、そのことを嘆いておられるからです。

 

彼らは言うでしょう。「ああそれは不幸なことです。なぜなら本来の正教のあり方というのはそういうものではないからです。」もう一度申し上げますが、私には東方正教会を攻撃する意図は毛頭なく、ただ自分自身のストーリーをみなさんに共有しているだけです。そして正教会の読者のみなさんが私に同意してくださるにしても反対されるにしても、この話を聞くことは有益なことではないかと思うからです。

 

私はまた西洋のクリスチャンの友人たち、その中でもとりわけ、自分が西方教会でキリストに出会い、今尚そこで主を追い求める信仰生活を送っていることを東方の兄弟姉妹に否定され傷つけられた経験のある方々に向けてこの記事を書いています。正教会に転向した知人や家族の取る、軽蔑的で上から視線のエリート主義的態度によってひどく傷つけられた人々を私は個人的に知っています。

 

クレテ島での公会議で持ち上がった騒動

 

最近、正教界内で起こった出来事ーークレテ島で開催された公会議にまつわる論争ーー及び、そこから生じた余震に関する記事を読み、私は不安な思いでいます。

 

正教界内でのこのクレテ会議に対するリアクションーー特に第6項「その他のキリスト教世界と正教会の関係について」ーーは自分にとって本当に不穏なものです。以下の引用文は、クレテ公会議が開催される以前にすでに大主教によってしたためられていたものです。

 

「正教会は、『信仰の一致と聖霊の交わり』を決して失っておらず、よって『キリストを信じる者たち』との一致の回復という理論を受け入れない。なぜなら、正教会は、キリストを信じる者たちの一致はすでに、洗礼を受けた正教会の子たち全ての一致の中に、正教会の正しい信仰の中に存在しており、そこに異端者や分離主義者たち(heretics or schismatics)は存在しないということを信じているからである。それゆえ、正教会は、異端者や分離主義者たちが悔い改めの内に、正教会に帰正することを祈る。」*2

 

さらにアトス山修道院からのリアクションの記事を読み私の心はさらに深く沈み込みました。(私の愛読書が『アトス山の聖シルーアン』だってこと覚えてますか?)それによると、アトス山の修道士たちは、コンスタンティノープル総主教が ‟エキュメニズムの総異端*3” を促進していると信じているとのことでした。

 

これは自分にとって奇怪かつ不快感をもよおさせる観念です。この考え方によると、正教会との一致を追い求める上で、私の「分離主義的」かつ「異端的」自己がまず改宗されなければなりません。

 

でも、そもそも私はどこの正教教区の教会員をやめたこともなく去ったことすらないのです!さらに、私が相手の伝統の内にキリストの恵みを認める一方、相手はそれとは逆に私の伝統の中の神の恵みを否定する時、「それじゃあ結局、‟分離主義的”なのは一体どっちの側なんだろ?」と素朴な疑問を抱かざるを得ません。

 

アンティオケのイグナティオス

 

クレテでの公会議に対する正教界の否定的リアクションを見聞きする中で私は、アンティオケのイグナティオスの著述のことを思い出しました。おそらくですが、一連のネガティブな反応の噴出はその源を聖イグナティオスの著述に持っているのではないかと私はみています。

 

ある人々は、自らの主張擁護のためにイグナティオスを直接引用しています。たしかに聖イグナティオスは、諸教会は「監督/司教なしに何も執り行ってはならない(“do nothing without the bishop”)*4」、そして自らを群れから引き離そうとする異端者たちに注意するよう警告しています。

 

しかしながら、この文章が書かれた文脈と今日の世界を考えてみると、これはイグナティオスが生きていた当時の世界とはかなり異なっていると思わざるを得ません。

 

まず第一に、初代教会はすでに使徒たちの教えおよび長老たちの確立の下にかなり一つに一致していました。そしてこれは今日のキリスト世界の様相とはかなり異なります。その当時、教団教派(denominations) などというものは存在していませんでした。ですから、当時、ある人が教会と絶縁し、自らの選ぶ道を行こうとするなら、彼は積極的かつ意図的に分裂主義的でなければなりませんでした。 

 

それに加え、当時存在していた主教たちと異端者たちの間の分裂は、今日の正教会主教たちと西方教会との間に存在している分裂よりもずっと深刻なものであったことを押さえる必要があると思います。聖イグナティオスがその当時の異端者たちのことをどのように描写しているのか耳を傾けてみてください。

 

「なぜなら、彼ら〔異端者たち〕は、キリストのことを語っているものの、キリストを宣べ伝えているのではなく、逆にキリストを拒絶しているのです。また彼らは律法のことを語っていますが、律法を確立するためではなく、それとは反対のことを宣べ伝えています。

 

 なぜなら彼らはキリストを御父から乖離させ、律法をキリストから乖離させようとしているからです。彼らはまたキリストが処女からお生まれになったことを中傷し、主の十字架を恥じています。彼らはキリストの受難を否定し、復活を信じていません。彼らは神のことを『知られざる存在者』として紹介しており、キリストをunbegottenな方だと想定しています。

 

 また御霊に関していうと、彼らは聖霊が存在していることを認めていません。彼らの内の何人かは、御子は単なる人間であり、御父、御子、御霊は同一人格であり、さらに、被造物は、キリストによってではなく、何か他の奇怪なるパワーによる神の業だと言っています。」*5

 

聖イグナティオスが描写しているような種類の異端的教えを信奉している西洋クリスチャン(カトリックであれプロテスタントであれ)を私は個人的に一人も知りません。そしてもしもそうなら、私たちが「異端者」という言葉を用いる時、少し再考してみる必要があるのかもしれません。

 

私が心の底から願うのは、正教の友人たちが、西洋クリスチャンと正教主教たちを隔てている楔というのは、聖イグナティオスが述べている分裂問題よりもずっと深刻度の少ないものであるという点に気づいてくださることです。

 

ダブル・スタンダード

 

最後に、私たち西洋クリスチャンたちとの一致を望んでいない人々の視点の中に存在するダブル・スタンダードについて触れようと思います。正教の主教に追従しない人々が「異端者」の烙印を押される一方、なぜ、聖イグナティオスの言及している ‟一つのユーカリスト(聖餐)” を守らない人々は「異端者」とみなされないのか、私には不思議でなりません。

 

「あなたがたは一つのユーカリストを執り行うよう気を付けなさい。なぜなら私たちの主イエス・キリストの御体は一つであり、主の血潮の一致を示すための杯も一つだからです。そして一つの祭壇があり、長老や執事たちと共に一人の祭司がいます。それゆえ、何を行なうにしても、神の御心に従ってそれを執り行いなさい。」*6

 

ジョン・ズィズィウーラス府主教はさらに次のように述べています。

 

「現存する1世紀の典礼的文献断片の集合体から分かることは、ある都市にある ‟全教会” が ‟パンを割くため” に主として日曜日に ‟共に集っていた” ということです。そしてこの集会は、ーーそれが ‟全教会” を包含するという意味においてーー、特定の場所に存在するただ一つの集会だったということです。」*7

 

それでは現在、一人の東方正教会主教のかしら性の下、ある地域内でただ一つの正教ユーカリストが執り行われているのでしょうか。それとも一つの地域内で複数の主教たちの下、複数のユーカリストが行われているのでしょうか。

 

さまざまな管轄(OCA, ROCOR, Antiochian, ギリシャ正教, ルーマニア正教、セルビア正教等)が地理的に近接した各教会内で、それぞれの主教たちの監督下、それぞれのユーカリストが執り行なわれているのではないでしょうか?

 

私の住むセント・ルイス市では、ユーカリスト典礼のためにさまざまな教区が一同に会するのではなく、日曜日、それぞれ独自に儀式が執り行なわれています。しかしこれは本来、聖イグナティオスの指示に背く行為ではないでしょうか。

 

ギリシャ人はギリシャ人、ルーマニア人はルーマニア人といった風に、それぞれ民族別に別たれている現在の正教諸教会の姿は、はたしてイグナティオスのいうoneness(一致)を具象化しているものなのでしょうか。

 

典礼的シフト

 

さらに主教職に関し掘り下げて考えてみます。ズィズィウーラス府主教は次のように述べています。

 

「初代教会の主教職は、実質的にユーカリスト的集会の長としての役目を果たしていました。主教の叙任における典礼的・経典的要素は、各都市にChurchがありーー1人の主教(アンティオケのイグナティオス時代から始まり、初代教会における主教たちの名前は、特定の都市の名前を関連づけられていました。)がいるという原始的状況を前提しています。そして一人の主教は、長老たちの群れに囲まれ(実際、彼自身、長老の一人でした)、長い間に渡って「長老」と呼ばれていました。

 

 しかし教区の出現により、この構造が破壊され、それは主教職(episcopal office)だけでなく、長老職にも影響を及ぼしました。なぜなら、それ以後、ユーカリストには一群としての長老たちの参列が要求されなくなったからです。しかし地域教会として存続するに当たり、この一群は長老会(presbyterium)の元来の重要性を表す重要な側面でした。こうして、一人の長老だけで、ユーカリスト的集まりを生み出し導くに十分となっていきました。つまり、教区の誕生です。しかしこういう集まりを果して ‘Church’と呼べるのでしょうか。」*8

 

ズィズィウーラス府主教はこの問題に触れた上で、古代教会が二つの異なる型の礼拝式を持つことからシフトした時*9典礼的にも教会論的にも多くの妥協が起き、それがキリスト教界全体に影響を及ぼしてきたと言っています。

 

そしてズィズィウーラス府主教は次のような問いで締めくくっています。『私たちは、それらが古代教会のありさまとは著しいコントラストにあったとしてもそれでも尚、本当に自分たちの集まりを〔大文字の〕“Church”と呼べるのでしょうか。』」

 

ズィズィウーラス府主教はまた、各世紀を通し、正教に影響を与えてきた典礼的シフトについて著書『ユーカリスト的聖餐と世界(The Eucharistic Communion and the World)*10』の中で考察しています。

 

そして、「聖体礼儀(Liturgy)や礼拝の形態はほとんど完全なる堅実さと厳密さをもって保たれている」と認めつつも、彼はまた、「聖体礼儀のイコン的象徴主義に及ぼした間接的かつ破壊的影響があった」ビザンツ期以降の変遷のことを熟考するよう読者に呼びかけています。そうした上で、彼は下に挙げる4つの変化を記しています。

 

諸教会からskevophylakionが姿を消し、Little/Great Entrancesの背後のシンボリズムが変化した。

 

主教制典礼と長老制典礼の間の区別がなくなった。

 

個人主義的、合理主義的態度を取り入れた結果、「私たち正教徒は、自分たちの典礼および伝統をどうすればよいのか分からないという事態に陥った。イコンに口づけしたり、祭司の手に口づけする人々はなぜ自分たちがそうしているのか理由が分からず、ただ慣習的にそれをやっている。」正教徒の内何人かは啓蒙主義運動に徹底的に揺さぶられたため、正教礼拝におけるシンボリズムのほとんどは、‟より良く知っている”人々にとっては、‟敬虔なる純朴”、‟ナンセンス”、‟迷信”、‟マジック”に過ぎないものと化した。

 

敬虔運動が正教界の大半を支配し、その結果、聖体礼儀における終末論的シンボリズムの壮大さが失われ、それに代わってより簡素な形態が用いられるようになっていった。(例えば、人々は大聖堂よりも地方チャペルをより好むようになり、詠唱された祈りよりも朗読された祈りを好み、精巧に装飾された法衣よりも質素な法衣をより好むようになっていった。)

 

ここで東方正教会神学や教会論の詳細には立ち入りません。まず第一に、西洋キリスト教はここにおいても聖イグナティオスの教えに遠く及んでいないということが分かります。

 

それから二番目に、ズィズィウーラス府主教は正教内部から自らの伝統に対し検証を行なっておられます。私は府主教の言説にこれ以上何も付け加えようとは思いません(その資格もありません)が彼がすでに述べていることを指摘したいと思います。

 

一つの問いかけ

 

私は、自分のことを異端者だとみなし、そのような者と合同一致する価値はないと考えておられる正教会の方々に一つの問いかけをしたいと思います。

 

「なぜ、私やその他の西洋クリスチャンたちは主教に関する教えが取り上げられる度に聖イグナティウスの著述に従う必要がある一方、『一人の主教の下で一つのユーカリストを執り行う』という事に関するイグナティウスやその他の教父たちに関してはあなたがたはそれらに従う必要はないと考えておられるのでしょうか。

 

 西洋のクリスチャンは異端者であり伝統(Tradition)の逸脱者であるとされていますが、しかしながら、ーー正教会の著名な神学者たちも認めているようにーー正教会もまた、古代教会の元々の礼拝形態を保持するという事に関し完全には忠実でありません。その辺りの矛盾に関してはどうお考えでしょうか。」

 

全く変わらず受け継がれてきたのか?

 

最後になりますが、今日多くの正教の方々によって主張されている観念についても言及したと思います。多くの方々は言います。「正教の典礼(聖体礼儀)は歴代を通し、変ることない方法で受け継がれてきました」と。

 

また、使徒パウロやその他の使徒たちも現代の正教典礼をためらうことなく喜んで認めるだろうという意見もよく聞きます。たしかに東方の典礼の中には、古代のクリスチャンたちがすぐさま認めるだろう多くの要素があるということに私は完全に同意します。

 

しかしながら同じことが伝統的西洋の典礼儀式についても言えると思います。そしてこの点で正教のみなさんはご自分の視点を少し再考し直す必要があるのではないかと思います。

 

前項でのズィズィウーラス府主教の言明通り、全てが完全に同一の形態で保たれてきたわけではありません。ですから、いにしえの道から迷い出てしまったのは決して西方クリスチャンたちだけではなく、また受け継がれた諸伝統を刷新してきたのも西方クリスチャンたちだけではないのです。

 

日曜の朝に行なわれる正教の一回の礼拝は、古代教会の二回礼拝とは違います。時を経る中で、何かが変わり、その結果、その二つが融合しました。

 

かつて洗礼志願者(catechumens)たちは典礼の途中で外に出なければなりませんでしたが、現在の礼拝では彼らは典礼の終りまで信徒と共に残っています。一つの都市の複数の主教というのは、古代キリスト教世界における一人の主教というコンセプトとイコールではありませんし、一つの都市における複数のユーカリストは一つの都市のただ一人の主教の下に執り行われるユーカリストと同一ではありません。

 

そして、便宜や時間の都合で古代の行列を取り除くのはそれを保持するのと同じではなく、入城(Entrances)の動きに変更を加えることは、それを手つかずのまま変えずに保持することと同一ではありません。

 

以上です。読んでくださってありがとうございました。

 

ー終わりー

 

〔執筆者ハンフレイ師は、現在、ナショタハウス神学校の教職者課程で学び、聖公会司祭として按手礼を受ける準備をしておられます。〕

 

関連記事


*1:Zizioulas, John. Being As Communion. Crestwood: St. Vladimir’s Seminary Press, 1985. 26

*2:https://orthodoxethos.com/post/athonite-fathers-call-for-rejection-of-cretan-council-and-cessation-of-commemoration-of-the-patriarch-of-constantinople

*3:https://orthodoxethos.com/post/athonite-fathers-call-for-rejection-of-cretan-council-and-cessation-of-commemoration-of-the-patriarch-of-constantinople

*4:http://www.earlychristianwritings.com/text/ignatius-trallians-longer.html

*5:http://www.earlychristianwritings.com/text/ignatius-trallians-longer.html

*6:http://www.earlychristianwritings.com/text/ignatius-philadelphians-longer.html

*7:Zizioulas, John. Being As Communion. Crestwood: St. Vladimir’s Seminary Press, 1985. 150

*8:Zizioulas, John. Being As Communion. Crestwood: St. Vladimir’s Seminary Press, 1985. 250

*9:ドム・グレゴリーはそれら二種をSynaxis ServiceとEucharistic Serviceと呼び、J・J・フォン・アルモンはService of the Word とService of the Eucharistと呼んでいます。

*10:Zizioulas, John.  The Eucharistic Communion and the World. London: T & T Clark, 2011. 95