巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

礼拝における規制原理(Regulative Principle of Worship)に対する自見解の見直しと振り返り

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家庭礼拝での詩篇歌唱(出典

 

ブライアン・クロス氏と、ジェイソン・スティールマン氏の対談のPodcast(mp3)を聴きました。

 

ジェイソン・スティールマン氏は米国長老教会(PCA)の牧師として、2011年6月、(Federal Visionに関し)同僚のピーター・ライトハート氏の異端審議における検察官を務めた方です。(その後、カトリックに改宗。その間の苦悶の歩みについてはココ。)

 

対談の中で、スティールマン氏は、プロテスタントの解釈的パラダイムとカトリックの解釈的パラダイムそれぞれについて非常に詳しく、また分かりやすい解説をしておられました。*1

 

その中で礼拝における規制原理(Regulative Principle of Worship)のことも少し触れられていたのですが、スティールマン氏の解説を聞いて私は、この規制原理が、プロテスタント解釈パラダイムの大前提であるソラ(ソロ)・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」*2.)をベースに構築されているのだということが分かりました。

 

少し話は溯りますが、礼拝における規制原理(RPW)に私が辿り着いたそもそもの出発点は、ロック礼拝、ドラム、エレキギターや賛美フラなどの現代コンテンポラリー礼拝を目の当たりにしての、「キリスト教礼拝のあり方はそもそも誰が、何を基準に決めるのだろう?」という素朴な疑問でした。去年の2月のことです。

 

 

「『規制的原理(略RP)』は、一言で言いますと、『聖書が命じていないことは、禁じられている。』(quod scriptura non iubet, vetat. )という原理です。ただし、これは何についても適用されるものではなく、これからお話ししますように、信仰の事柄と、礼拝と教会政治の本質に関わる事柄に適用されるものです。これは、ローマ(カトリック)教会などの、『聖書が禁じていないことは、許されている。』(quod scriptura non vetat, permittit. )という原理に対立するものです。」(引用元:長老政治について

 

昨年これを読み、私は感動しました。実に筋が通っていると思ったからです。そしてCCMロック礼拝問題の解決は、私たちが宗教改革の土台であるこの規制原理に戻ることではないかと考え、次のような記事を翻訳しました。

 


そしてさらに、規制原理というこの〈窓〉から教会の公同性・普遍性がひろがっているのではないかと考え、次のような記事も書きました。

 

 

また私はこの規制原理をよりラディカルにした形の、ストーン・キャンベル運動およびチャーチ・オブ・クライストの聖書解釈("Churches of Christ speak where the Bible speaks and remain silent where it is silent."「チャーチ・オブ・クライストは聖書が語るところで語り、聖書が沈黙しているところでは沈黙する。」)についても研究しました。

 

そしてこの研究から、無楽器派のグループの諸主張の由来と根拠を知ることができ、大変勉強になりました。参考資料を惜しみなく提供してくださったチャーチ・オブ・クライストの牧師の方々にこの場を借りお礼申し上げます。

 

さらに実践の面でも私は、1650年版のスコットランド詩篇歌集(The Psalms of David in Metre)を購入し、個人礼拝の場で用い始めました。そして詩篇歌を用いた礼拝の豊かさに目が開かれました。

 

 

また今が良い機会だと思うので申し上げておきたいのですが、こういう所が改革派的解釈パラダイムの強さなのではないかなあと私は思いました。「聖書のみ」の土台があって、その下に「礼拝における規制原理」があって、その原理からExclusive Psalm Singingという実践が生み出されて、、、という具合にこのパラダイム内には秩序と整合性があります。

 

私が改革派系のグランパたちに格別の信頼と親しみを覚えていた(いる)のもこの体系的秩序と調和からもたらされる安心感が大きかったように思います。改革派グランパたちの傍にいて説明をじーっと聞いていると、プロテスタンティズムのアナーキーの痛ましい現実が将来的に克服されるのではないかという希望が与えられ、それで私はこれらのグランパたちがとりわけ大好きなのでした。

 

しかしながら、私の中でプロテスタンティズムの解釈パラダイムから伝統教会の解釈パラダイムへの一大転換が引き起こされ、「聖書のみ」の教理が立ち行かないという結論に至りました*3。そしてそれゆえに、「礼拝における規制原理」も現在私が移ったカトリック解釈パラダイムの中では通用しないものとなったということが分かりました。

 

そしてここから私が学んだのは、カトリックとプロテスタントの間の対話やディスカッションにおいては、個々の教理が「聖書的か非聖書的か?」という問いはあまり意味をなさず(なぜなら、聖書的/非聖書的という語用自体が基本的に「聖書のみ」の教理を前提にしており、この前提をカトリックや正教会はそもそも共有していないからです。)、むしろ本質的に問われるべきは、互いの解釈的パラダイムおよびそれを支えている諸前提が果たして真か否かという点ではないかということです。

 

また私が感動したのは、こういった伝統的解釈パラダイムは、権威、聖書、神秘的みからだとしての教会、ユーカリストにおけるキリスト実在説等がすべて有機的につながっており、包括的・全体論的であるということです。

 

そしてこの理解に至るにあたって、改革派的礼拝論(「礼拝における規制原理」)の内的調和に触れたことは私にとって非常に大きなステップでした。これらすべての過程に感謝します。

 

ー終わりー

*1:特に、この解釈的パラダイムの違いが義認論における両者の解釈にどのような直接的影響を与えているかという点に目の覚める思いがしました。

*2:

*3: