巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会はいつ始まったのか?(by D・A・カーソン)

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D・A・カーソン(トリニティー神学校)

D.A. Carson, When Did the Church Begin?(全訳)

 

「教会はいつ始まったのか?」この問いは、特に神学を学ぶ学生たちの間で頻繁に出されます。

 

ある人々は、ディスペンセーション神学体系を奉じており、その観点からこの問いかけをします。その場合、相手の出す答えが、ディスペンセーション主義者の差し出すその他の質問群に対する一種の《リトマス試験》となります。

 

ディスペンセーション主義的背景を持つ人々は一般に、諸契約間の非連続性に力点を置く傾向があり、それゆえ、通常、教会はペンテコステ時に始まったと主張します。他方、契約主義的背景を持つ人々は一般に、恵みの契約の連続性に力点を置く傾向があり、約束されていたものの成就という観点で考え、それゆえ、神の民の「集会(“assembly”)」は一つであり、それゆえ、教会がペンテコステ時に始まったと考えるのは誤っていると主張します。

 

また別のある人々は、相手が改革派系の長老派信者なのか、それとも改革派系バプテスト信者なのかを探ろうとこの問いを発します。また、特にこれといった神学的アジェンダなく、この質問をする人々もいます。これらの人々は、「聖書本文の中ではこの問いに関する答えは不明瞭であるように思う」と感じ、この問いを発するのです。

 

それでは段階を置きつつ、関連する資料を少しまとめてみることにしましょう。

 

① 術語に関して言うと、確かに「教会」というのは一般に新約表現ではありますが、言葉及びその思想両方共、旧約の中においても浮上しています。

 

例えば、特に異型というわけでもない次の一般聖句の中で、神はモーセにこう指導しています。「民をわたしのもとに集めよ(=assemble)。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」(申命記4:10、新改訳)。

 

「集めよ」の動詞はヘブライ語ではקהלそして、LXXギリシャ語聖書では、ἐκκλησιάζειν(「教会」ないしは「集会」を表す名詞エクレシアἐκκλησίαと同根)です。

 

また、軽視できない要素として挙げられるのが、新約記者たちが、旧約の神の民のことを"church"と言及している事実です。

 

ステパノは、荒野において集まっていたイスラエルの民のことを「荒野の集会 “the assembly [ἐκκλησία] in the wilderness”」(使7:38)と呼んでいます。ヘブライ人への手紙の記者は、「神を賛美しよう」とイエスが仰せられていることを表現すべく、旧約言語を用いています。「教会の中で(“in the assembly [ἐκκλησία])、わたしはあなたを賛美しよう。」(ヘブル2:12、詩篇22:22からの引用)

 

クリスチャンが共に集まる際、ヘブル書記者が、自分たちの集会を描写すべく用いている言葉は、成就された予型的《旧約聖書への言及》で満ち溢れています。

 

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会([ἐκκλησία])、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:22-24)

 

ここでの「アベル」への言及は、クリスチャンが「証人たちによって・・・雲のように取り巻かれている」(ヘブル12:1参)ことーー、つまり、アベルに始まり、エノク、アブラハム、サラ、ギデオン、ダビデ、そしてその他全ての旧約人物(ヘブル11章)に至る、忠実なる証人たちのことを読者に不可避的に思い起こさせます。

 

② ここでの論点は、単なる術語上の問題よりも、より広義なものです。

 

イエスが、完全にユダヤ的文脈の中でご自身が教会(ἐκκλησία、マタイ16:18)を建てると宣言された際、この福音書によると、イエスの念頭にあったのは、異邦人をも含む教会でした(マタイ28:18-20)。

 

どのように教会([ἐκκλησία])戒規を実践すべきかに関する主の御指示は(マタイ18:15-20)、私たちがともすれば区別をつけたがる区分を、主ご自身は曖昧にしようと意思しておられたことを示しています。つまり、地域教会(マタイ18章ではこれが念頭に入っていたはずです)は、全体としての教会(the entire church)の露頭であり(16章)、またそれは、明確にユダヤ人も異邦人も包含しています。

 

彼らはメシアの集会であり、メシアの教会を構成しています。メシアの民(メシアの教会)の単一性(one-ness)が、かくも力強く打ち出されているのは、パウロによるエペソ書をおいて他にないでしょう。ユダヤ人信者も、異邦人信者も、私たちの平和であるイエスによって「一つ」にされました(エペソ2:14)。

 

かつて異邦人たちは、神から離れ、「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり」(エペソ2:12)ましたが、今やこの二つのグループは、「新しいひとりの人」とされています(2:15)。

 

異邦人たちは「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(2:19)。そしてこれがキリストが愛され、そのためにご自身の命を投げ出された教会(ἐκκλησία)です(5:25)。

 

ローマ書11章にあるオリーブの木のメタファーを思い出す方もいるでしょう。そこに存在するぶどうの木はひとつであり、その木から切り取られた枝、もしくはその木につがれた枝が存在しています。

 

③ それでは、上述の二つの陣営――A) 「教会はペンテコステ時に始まった」と考える陣営、B) 「教会は過去に溯り、究極的には全ての神の選民を含んでいる」と考える陣営――はそれぞれ、如何様にしてそのような解釈学的現象を表出しているのでしょうか。

 

透過的に言って、異種の解釈的選択が、それぞれの立場と連携しています。前者の陣営は、LXX(七十人訳)聖書の中で、もしくは新約の中で、旧約の神の民に言及している ἐκκλησίαという語の使用に注目した上で、これらは、語のテクニカルな使用ではないと主張します。つまり、これらは、さまざまな「諸集会」についての言及ではあるけれども、新約の「教会」ではありませんと。

 

彼らは言います。「神の民の単一性について語っている新約箇所(例:エペソ書)は間違いなく、『その民』と、『旧約での集会』の間に相違を打ち立てている。なぜなら、旧約の集会/教会は、イスラエルの民だけで構成されていたのだから。」

 

このようにして、一番目のグループはその立場を擁護しています。さて後者の陣営は、前者と同じデータに注目した上で、「神の民である旧約の集会を、ἐκκλησίαと考えるのは間違えではあり得ない。なぜなら、聖書記者たち自身が喜んでその語を用いているのだから」と主張しています。

 

彼らは言います。 「ギリシャ語では『集会』にも『教会』にもただ一つの単語しかあてがわれていないのに、そこにあえて区別を設けるというのは、『ペンテコステ時に教会が始まった』と主張するいかなる根拠にもなり得ない。神の教会は神の集会であり、それは旧約時代に始まったのです。」

 

そして彼らは続けてこう言います。「同じ一つのオリーブの木に(ローマ11章)そして、『新しいひとりの人』(エペソ2章)の中に、ユダヤ人も異邦人も共に集められるという事実は、ペンテコステ後の教会が、新しいからだであるという事を意味しているのではなく、それはあくまで同じからだであるけれども、拡大されたからだであるということを意味しているのです。」

 

④もちろん、私は本稿で議論を単純化しています。

 

さて、前者のグループは、その基本的立場内に多様なスタンスがありますが、全体として言えることは、このグループが往々にして、神の贖罪的諸目的における単一性、包括性に対する十分な理解なしに、神がすでに一つに合わされたものを再び分割するという危険性を持っているということです。

 

他方、後者のグループもまた、その基本的立場内に多様なスタンスがありますが、全体として言えることは、このグループが往々にして、ペンテコステ以降のἐκκλησίαに関連する「新しい」事柄を見過ごす危険性を持っているということです。例えば、新しい創造、聖霊の新しい働き、新生、新しい時代、新しい契約等です。

 

⑤ そこから見えてくるのは、このディベートにおいて、両サイドが、若干異なる事柄にフォーカスを置いているという事です。

 

もしもフォーカスが、贖われた神の民の単一性及び連続性にあり、彼らの全てが主イエスによって保証されているという点にあるのなら、もちろん、契約主義神学者側の方を強く支持するよう、聖書は要求してくるでしょう。

 

ヘブル12章にある長子たちの教会(集会)は、今生きている人も含めたーー生ける神の御座の周りに「集められている」ーー両方の契約からの聖徒を含んでいるように思われます。先ほど簡潔に概観した言語学的証拠の事実をも加えると、この主張はかなり強固だと言えます。

 

しかしながら、改革派系解釈のある種のバージョンは、聖書の筋を平べったく捉え過ぎており、その結果、「増加した情報」という点を除いては、新契約には何ら新しいものがないという理解に陥るという危険性を持っているでしょう。

 

こういった読みをしますと、例えば、新生というのが、ヨハネやパウロの時代と全く同じように、アブラハムの時代における回心を統制するものとされ、それから、聖霊の働きにしても、(ヨハネ14-16章をそのような仕方で読むことは非常に困難であるにもかかわらず)新契約下とモーセ契約下で全く一様であるという見方がなされます。しかし、多くの新約記者たちは、神の御子の到来、死、復活、昇天により、私たちが新しい時代に入ったことを確言しています。

 

とは言え、もちろん両サイドとも、その「新しさ(“newness”)」の内実を、確実に見極めることの困難性は認めています。ただし、「新契約に関連することに何も斬新性がない」、もしくは(前述したように)「新しい事といえば、我々が現在、イエスの十字架と復活のこちら側に生きているという『増加情報』ではあっても、新しい経験ではない」と主張するのは確実に間違っていると言えましょう。

 

どんなに最小に見ても、そこには、さまざまな表現や諸経験における、ある種の漸進的増し加わりがあるということは確かに言えるはずです。

 

例えば、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という表現は、①天幕内での神の自己開示としてモーセ契約に結び付いており、②キリストの仲介的御業としての新契約に結び付いており、③新しい天と新しい地の完成における聖書の最終展望に結び付いています。

 

要するに、もしも人が、神のひとつの贖罪的計画、神のひとつの究極的、救済の犠牲、御座の前にいる神のひとつの集会、神のひとつの「恵みの契約」(←但し、この表現には少々語弊がありますが。。)、そして贖われた者たちに対する神のひとつの究極的目的に焦点を置くなら、私の見解では、改革派的契約主義の見方が正しいと思います。

 

教会は、最初の罪びとが贖われ、贖われた他の罪びとに加わり、共同する時に始まります。実に、神の御思いの中で、教会というのは、ーー世界が創造されし時より屠られた小羊(黙13:8)にまでーーはるか溯り、始まっています。

 

*訳者注:(The Lamb) who was slain from the creation of the world. 黙13:8の英語訳と日本語訳は訳し方の点で若干違いがあります。興味のある方は、日英のさまざまな聖書訳で比較検討してみてください。日本語訳比較はココ。英語訳比較はhere

 

そしてもしも誰かが、新契約の下にいる神の民に関連した「新しい」(徐々に増していく?)事柄に焦点を置いている場合、なぜその人が、「新契約下の民には適用され、旧約の聖徒には当てはまらない、そのような用語を探し求めているのか」、そこは私にも理解できます。

 

しかし問題は、「教会はペンテコステ時に始まった」というような主張は、前述したように、特殊なニュアンスを含む枠組み内で出される場合が多いと思いますが、この言明はややもすれば、それ「以上」のことをも含意しているように(外部者から)受け取られる恐れがあり、その意味で、改革派系の信者がこういった言明につまずくのは致し方ないと思います。

 

それとは反対に、「教会は、旧契約および新契約、その両方においての、神の民の総体である」というような主張は、先ほど概観したように完全に擁護可能なのですが、しかし、この言明はややもすれば、どこかで保持さればければならない契約的諸区分というのを平べったくしてしまっているように(外部者から)受け取られる恐れがあります。

 

⑥ またこの議論に関わる別の要素も在ります。

 

長老派は、この点において、契約神学の術語を保持しようとするさらなる理由を持っています。長老派の見解によると、モーセ契約、新契約、その両契約の下において、契約共同体(教会)の中枢は、選民の中枢ときっちり同一視されてはならないとされています。

 

換言すると、彼らの教会論(ἐκκλησία-ology)の構造が、「連続性」を強調するよう、ある意味、プレッシャーをかけているわけです。

 

他方、改革派バプテストの見解によると、新契約の条件の下において、契約共同体(教会)の中枢は、選民の中枢と「理想的には」同一視されなければならないーーそして、これは旧契約の下における事の運びとは違った風に働いている、と考えられています。

 

そして両者のこの見解の違いは勿論、彼らそれぞれの割礼/洗礼に対する理解の仕方と結び付いています。 長老派の見方では、割礼も洗礼も、そのどちらも、(贖われた者/選民によって構成される経験実証的共同体への参入に関し決定的に何かを言うことなく)契約共同体への参入を特徴づけるものであるとされています。

 

他方、改革派バプテストの見方では、①割礼も洗礼も、契約共同体への参入を特徴づけるものである。②しかし新契約の条件の下において、新契約共同体への参入はまた、贖われた者/選民によって構成される経験実証的共同体への参入をも特徴づけるものである、とされています。

 

つまり、この点に関し、新契約は、モーセ契約とは異なっており、少なくとも、それが、新契約を「新しいもの」にしている一要素であると彼らは考えているわけです。

 

確かに、「贖われた者」と「契約共同体」を結びつきは、旧契約の下における事の運びとは違った風に働いているというのはそうでしょう。ですから、この点において、彼らの教会論は、ある程度の「非連続性」への、ほのかなるプレッシャーがあるとみていいかと思います。

 

⑦ かくして、次の二つの問いの間には、なにがしかのパラレル関係があると思います。

「教会はいつ始まったのか?」そして、

「メシア王国の幕開けはいつだったのか?」

 

ここではテーマ上、後者の問いに対しての詳細な回答はしません。が、聖書を学ぶ人々がしばしば指摘するのが、ある意味、神の国は、イエスが御父の右の座に昇天した時に幕を開けたということです。ーーそしてイエスは最後の敵を打ち破る時まで統治し続けます。他方、受難のナラティブにおいては、イエスが十字架の上から統治しておられたことが語られています(特にマタイによる福音書とヨハネによる福音書)。

 

またそれ以前においてもすでに、神の国は、イエスの公的ミニストリーの中において幕を開けていました。また、弟子たちを通した主の御働きにあってさえも、それは見られ、現に、主は、サタンが天から落ちるのを見ました(ルカ10章)。

 

事実、イエスはユダヤ人の王としてお生まれになりました(マタイ2章)。王としてのイエスの統治と、主の復活・昇天を結ぶ聖句はたしかに多くありますが、「いつメシア王国が幕を開けたのか?」に関する選択肢の幅は、実際、好ましいことであり、示唆に富むことであり、そこには想像力をかき立てる複雑性という風味が添えられています。

 

それと同様に、「教会はいつ始まったのか?」に関する問いも、特定諸聖句のかなりストレートな釈義によっての回答は可能でしょう。しかし、です。一度、ふーっと深呼吸してみて、もう一度周りを見わたしてみると、そこには神より来、しかも想像力をかき立てる繊細さで織りなされるレイヤーがあって、それが、私たちに、異なる諸文脈の中で微妙に異なる回答を要求していることーーそれに気づくのではないかと思います。

 

ー終わりー

 

 

新旧約間の連続性・非連続性、漸進性、有機的一体性についてさらに考察を深めたい方へ  

-Geerhardus Vos, Biblical Theology: Old and New Testaments, 2014(新装)*本書のアウトラインをお読みになりたい方は次をクリックしてください。Outline of Geerhardus Vos' Biblical Theology 

-Palmer Robertson, The Christ of the Covenants, 1987

-D.A. Carson, G.K. Beale, ed., Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, 2007

-G.K. Beale, Handbook on the New Testament Use of the Old Testament: Exegesis and Interpretation, 2012

-D.A. Carson.ed., From Sabbath to Lord's Day: A Biblical, Historical and Theological Investigation, 1999 

-諸契約の成就者キリスト - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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