巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ディスペンセーション主義者を理解する ⑨「代表としてのかしら性」「キリストの十字架における二分法」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学)

小見出し

 

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「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

 

Vern Sheridan Poythress, Understanding Dispensationalists

Westminster Theological Seminary, PA, summer, 1986

(目次はココです。)

 

代表的かしら性(REPRESENTATIVE HEADSHIP)

 

この歴史的発展の中における統一性(一致;unity)は、人類および宇宙を回復し、再び新しくする神の御働きに内在している統一性です。人類は、かしらとしてのアダムによって代表される統一体(unity)であることを私たちは知っています。(ローマ5:12-21)

 

アダムが堕落したことで、全人類がその影響を受けました。そして被造物それ自体が虚無に服しました(ローマ8:18-25)。それゆえ、贖罪と再創造もまた、代表的かしらであり、新しい人間のかしら、つまり受肉したキリストによって為されます(1コリント15:45-49)。

 

肉によるアダムの下、一つの人類が存在するように、御霊によるキリストの下に結ばれ一つの新しい人類が存在します。他の被造物がアダムの堕落によって影響を受けたように(ローマ8:20)、それらはキリストの復活によって変えられます(ローマ8:21)。

 

すべての贖われた者のかしらであり代表者としてのキリストご自身が、贖罪と再創造という神の御業における求心力ある統一的中心(unifying center)なのです。

 

特に、キリストの贖いは、人間を神と和解させるだけでなく、人間同士をも互いに和解させます。私たちが神と和解する時、私たちはまた、神と和解の関係にある他の人間と和解します。

 

例えば、私たちは互いに赦し合うことを学びます(コロ3:13、エペソ4:32)。またキリストがもたらす贖いは人間個人だけでなく、人間の集団に対しても変化を及ぼします。私たちは神の子となり、家族の一員のように互いにつながり合っています(1テモテ5:1)。

 

キリストは私たちを再創造し(エペソ4:24)、神の民である新しい人間共同体へと私たちを導き入れます(エペソ2:19)。そして神に属する民はただ一つでしかあり得ません。なぜなら、キリストは唯一(only one Christ)だからです。

 

そして勿論、キリストの受肉と復活以前には、この唯一性(単一性;oneness)は異なる方法で働いていました。それはキリストの御業が実際に為されるまでは、単に予備的、影のような(shadowy)かたちしか持ち得ませんでした。

 

しかし私たちは、旧約聖書の神の民のことを、新約聖書の神の民と平行して存在する二番目の神の民と捉えることはできません。それらは――キリストの代表的かしら性を表す公同体の顕現としての――「二つの連続する歴史的段階」です。

 

ディスペンセーション主義者の中には、次のように言う方々もいます。「もしも神が御使いたちにそれぞれ異なる目的を持っていらっしゃるのなら、主はイスラエルと教会に対しても、それぞれ別個の目的をお持ちになっているかもしれないではないですか?」

 

しかし御使いはこれまで決してアダムのかしら性の下に結ばれたことはありません。そして御使いたちはアダムと共に堕落もしませんでしたし、信仰によってキリストと結ばれることにより罪から贖われたことも決してありません。それゆえに、御使いたちの宿命は、上記のような種類の問いを私たちに突きつけてくるような性質のものではないのです。

 

人間の贖罪問題に関して言いますと、ローマ5:12-21には、私たちがそれに対してどのように考えなければならないのかが示されています。そして、これらの聖句は、原則として、「二つのパラレルな神の民」という思想を排除しています。なぜなら、神の民としての公同の統一体(corporate unity)は、彼らにとっての共通の「代表としてのかしら」から生み出されるものだからです。

 

キリストの十字架における二分法(DICHOTOMY AT THE CROSS OF CHRIST)

 

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歴史的諸時代の間に存在する「多様性」と「非連続性」に対するディスペンセーション主義者の関心について考慮した場合、キリストの生涯の中で起こった事――中でも主の死、復活、昇天――で生じた、歴史におけるラディカルな断絶、この事が特に考察すべき肝要点になってきます。

 

ここに二分法(dichotomy)――すなわち、「以前」と「以後」という二分法が存在します。実にキリストの御業は、真実にして永続する変化をもたらしたのです。神と人間との関係は、それ以後、もはや二度と同じものではあり得なくなりました。なぜなら、今や贖罪が成し遂げられたからです。

 

それゆえ、イスラエルと教会の間には確かに非常に大きな区別が存在します。しかしその区別は基本的に歴史的なものであって、形而上学的なものではありません。それはキリストの復活「以前」/「以後」を分離する区別であって、「天的」/「地上的」を分離する区別ではありません。

 

もちろん、キリストは天よりの人です(1コリ15:47-49)。また私たちの国籍も天にあります(ピリピ3:20)。しかしそれは天が神の御座であり、そして全宇宙の刷新のための出発点であり型であるからです。私たちは天を単なる静的《他者》としてではなく、全体を変化させる力源と捉える必要があります。

 

さらに「天」vs「地」のコントラストは、今や「無形で蒸気質なもの」vs「物質的で固形のもの」との間のコントラストではありません。キリストご自身の復活された御体は、まことにリアルであり、まことに有形のものです(ルカ24:39)。

 

そしてこの方こそ真なる実在です(the really real)。なぜなら、その他すべての肉体的な事物は変化するものであるのに対し(2ペテロ3:10-12)、キリストは永久にそのままに存続されるからです。

 

また、私たちはイエス・キリストとの一致の中で体験している旧約の御約束の成就の内容を気化したり、度を越して個人化すべきではないでしょう。キリストはわたしたちのからだ(our bodies)、そして神の民という共同体の主でもあり、ただ単に個的魂の主だけではないからです。

 

しかし幾つかの問題がまだ残っています。「ということは、例えば、ユダヤ人のような人々は、ペンテコステの出来事以降、異邦人との間に存在していたあらゆる特異性を失ってしまったのでしょうか?」

 

いいえ、そうではありません。もしもあなたがかつて神の民に属する一員であったのなら、あなたは「命に選び出されている(“marked for life”)」のです。(参:ローマ11:29)

 

神と一度もそのような関係になかった頃とは違う立場に現在あなたは置かれています。ですからそのようなあなたが主に背を向けた場合、あなたの罪責はより深刻なものになります(2ペテロ2:21-22)。

 

ローマ11章はその事を大変効果的に語っています。何人かのディスペンセーション主義者は、ローマ11章の「オリーブの木」を、「霊的機会や特権に与ることができる場にいるということの象徴」と捉え、そのように解釈しています。確かにそのような意味も含まれていることでしょう。しかしそれはまた「聖いこと」も含意しています(ローマ11:16)。

 

ですから、オリーブの木の一部になることは、1ペテロ2:9で言及されている「聖なる国民」の一員になることと類似しています。またそれはペテロの言う「選ばれた種族、神の所有とされた民」(1ペテロ2:9)であることとも類似しています。

 

異邦人がつぎ合わされるために、ユダヤ人の中にはオリーブの木から切り落とされてしまった人々もいました。しかし切り取られたユダヤ人はその後も栽培されたオリーブの枝であり続け、そして彼らは再びつぎ合わされることができるのです。

 

これは、そこにただ一つの聖なる(栽培された)オリーブの木――ゆえに、ただ一つの神の民、そして一つの根だけが存在するという事実とまことに整合しています。

 

切り落とされたユダヤ人たちには救いが来ます。――彼らがオリーブの木に再びつぎ合わされ、神の民の一部として彼らの立場が刷新され、再び神との交わりを享受し、根から栄養を摂取するようになる時に。

 

それではどうして、新約聖書の中には、「イスラエル」と「教会」という二つ別箇の用語があるのでしょうか。一見したところ、これは、「二つのパラレルな神の民」という思想を暗示しているようにみえます。しかし神学というのは、語彙ストックから直接演繹してはならないということを私たちは覚えておかなければなりません(参:Barr 1961; Silva 1982)。

 

実際、新約でのこれらの語の用法はかなり複雑です。といいますのも、「イスラエル」の語使用の多くは、キリストの復活およびペンテコステで起こされた変化「以前の」神の民のことを言及しているからです。また、他の語用法のいくつかは旧約からの引用です。

 

しかしそれ以上に、旧約の神の民の内、ある人々が神との交わりから切り落とされてしまったという複雑な状況において、幾つかの用語が必要です(ローマ11章)。大概の場合、ユダヤ人のことを指し示すべく「イスラエル」および「ユダヤ人(hoi Ioudaioi)」という語を用いる明瞭な決断がそのまま、「一つの神の民」という――旧約と新約の諸段階の間に存在する――より深遠な概念的・神学的統一性への否定を伴うということにはなりません(参:1ペテロ2:9-10)。

 

より一般的に言って、聖書というのは、日常語(そして時には文芸語)で書かれたのであって、後代の組織神学者たちの用いるような技術的に厳密な言葉で書かれたのではないということを、すべての聖書解釈者たちは認識する必要があると思います。

 

そして個々の単語の意味は無限に正確であるわけではなく、ある単語が持っている特定の意味というのはその直接的文脈と共に判断されなければなりません(参:Barr 1961, Silva 1982)。

 

旧約聖書の聞き手による理解(UNDERSTANDING BY OT HEARERS)

 

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次に、預言を読んだ当時の旧約聖書の受信者はどうだったのでしょう?彼らは語られたことをしっかり理解できていたのでしょうか?そしてどのようにして彼らはそれを理解していたのでしょうか?これらの問いについては第9章で詳説したいと思います。

 

しかし差し当たり申し上げますと、私の考えでは旧約の聞き手たちは預言メッセージを理解していたはずです。しかし私たちがイエス・キリストにある成就を見る光の中で理解するようには、正確に、もしくは完全に理解するには至っていなかったかもしれません。しかし当時、それらのメッセージによって霊的に養われ、励ましを受けるに十分な理解はしていたでしょう。

 

例えば、新しい出エジプトに関するイザヤの預言(例:イザヤ51:9-11)に耳を傾けながら、彼らはそれが寓意的(figurative)であることに気づいていたでしょう。

 

――つまり、新しい「出エジプト体験」をするべく、自分たちはエジプトに戻ったり、紅海を再度奇蹟的に渡ったり、荒野をさまよったりする必要はないのだ、ということを彼らは自覚していたはずです。

 

そしてこの預言が正確に一体どれくらい「字義的な」形を取ることができるのか結論を出しかねていたかもしれません。どの詳細記述が寓意的なのか、そしてどういう点が寓意的なのか正確には把握できなかったかもしれません。しかし彼らはその預言の本質は知っていました。――それは、最初の出エジプトと同じように力強く包括的な「解放」です。

 

しかし、このように時として内容が不明瞭である時、私たちはどのようにしてそういった聖句を――特に預言を――理解していくことができるのでしょうか。こういった問いはそうそう簡単に回答を出せないような性質のものです。しかしながら、基本的には、以下のような回答にまとめられるかもしれません。

 

(1)文法的・歴史的解釈法を用いる。つまり、「その聖句が記述された当時の歴史的・言語学的状況の中で、それが何を意味していたのか?」と問うのです。

 

(2)「聖書が聖書を解釈する。」明瞭な聖句は時として、より不明瞭な聖句理解を助けます。成就が実際になされる時、それらにより、私たちは預言の箇所をより完全に理解することができます。

 

(3)主要なポイントは詳細よりも、より明瞭。たとい全ての詳細を理解できているのかはっきり分からなくても、私たちは主要点について確信を持つことができます。聖書が多くの箇所で説いていたり、あるいは強調している内容に対しては、たった一度きりないしは通過的にしか説かれていない内容よりも、その理解により確信を持つことができます。(なぜなら私たちはその詳細を正確に理解できているのかそこまで確かではないからです。)

 

(4)私たちは、はるか先の御約束や脅威を描いている数多くの預言の「累積的成就」を正当にも期待することができます。

 

ウィリス・J・ビーチャー(Willis J. Beecher)は、この事について次のように巧みに解説しています。

 

 「事の性質上、――時間に制限されることなく有効な――御約束は、一時(いちどき)に成就され始める場合もありますし、将来複数回に渡って、成就され続けることもあります。」(Beecher 1905, 129)

 

 「ある考証によると、包括的預言(generic prediction)というのは、

①時空的隔たりによって分離され、複数の部分部分から成る出来事の中で起こるものとして、ある出来事を捉える事であり、またこれは

②最も近い部分/より隔たった諸部分/全体、とは無関係に適用されることもあります。――換言すると、一つの複雑な出来事の《全体》に適用される預言というのは、同時に、《部分の中の諸要素》にも適用されるということです。」(Beecher 1905, 130)

 

 「他の人々は、預言の連続的ないしは漸進的成就について述べています。やがて起こるべき出来事は、それ以前の諸出来事(その中のある詳細はそれに類似している)を通して、前もって語られます。」(Beecher 1905, 130)