巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

脱構築(déconstruction)とキリスト教世界観(by ヴェルン・ポイスレス)

目次

 

Vern Poythress, In the Beginning Was the Word Language—A God-Centered Approach, Appendix I, Reaching Out to Deconstruction, p.370-382(抄訳)

 

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(エペソ5:15-16)

 

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ヴェルン・ポイスレス(ウェストミンスター神学大) 

 

はじめに

 

私たちと信仰を共有していない方々を含め、他の人々と言語について話し合う際、私たちキリスト者はどのような姿勢で対話に臨むべきなのでしょうか。言語について熱心に研究しながらも、言語が神と関連しているということを否定している方々とどのように語り合っていくことができるのでしょうか。

 

脱構築(déconstruction) 

 

例えば、『脱構築』という思想を信奉しているある特定の人々にリーチしたいという思いが私たちに与えられたと仮定してみてください。私が脱構築主義者を例として取り上げた理由は、彼らが言語について熟考し、多くの意見を持っている人々だからです。また同時に、脱構築を奉じている方々の多くは、聖書の神を信じていません。そして彼らの諸見解の多くは、前項でみてきました「ポスト近代の文脈主義(コンテクスチュアリズム)」に似通っています。*1

 

ところで、脱構築という思想は、定義づけが非常に難解なことで有名です。*2 本稿の目的は、脱構築の全体像を把握することではなく、その中のいくつかの課題を抽出し、そこからいかに対話を進めていくことができるのかを模索していくことが主眼にありますので、定義については省略させていただきます。*3

 

私たちの姿勢

 

脱構築関連の著作を読むたいがいの聖書信仰クリスチャンは、こういった思想に対し否定的な印象を受けると思います。そして確かに私たちが否定的・批判的に受け取るのはそれ相応の理由があります。私たちはこう思います。「この人たち(=脱構築主義者)は、――聖書のみことばの意味も含めた――安定した意味をぶちこわそうとしている。彼らは間違っている!」と。彼らが神を否定しているのなら、確かに彼らは間違っているでしょう。そして神を否定しているのなら、彼らは遅かれ早かれ他の領域の誤りへも落ち込んでいくことでしょう。

 

しかし、そうではあっても、依然として彼らは神の創造された世界に住んでいます。そして神が彼らにお与えになった言語を用いています。その意味で、一般恩寵により、彼らにもある点で何かしらまっとうな洞察が与えられているのかもしれません。そしてたとい彼らの諸主張が偽物(counterfeit)であったとしても、偽造(counterfeiting)というのはいわば「真理の歪み(a distortion of truth)」なのです。そういう意味で、私たちは彼らの着眼点について考察してみることはできないでしょうか?

 

善悪を分別・峻別するのは、複雑な作業です。ですが、これまでの章でご一緒にみてきましたことに照らし合わせ、私たちは、言語に関する純粋な諸真理に関し、いくつかの点で脱構築思想にも類似点があるのをみることができると思います。本章において私は相違点よりも類似点の方にフォーカスを置きたいと思っています。といいますのも、相違点というのはこの場合、より明瞭だからです。そして類似点を切り口にしても、相違点を切り口にしても、私たちは脱構築を奉じる人々を対話を始めることが可能です。

 

フィールド・パースペクティブとしての脱構築

 

第一番目に、脱構築は、意味においてフィールド・パースペクティブを頻用する傾向があります。つまり、意味というのがいかに諸関係のネットワーク内において存在しているのか、という点に焦点を当てているのです。*4 単語や文やテクストを、安定した単位ないしは《素粒子》として捉えるのではなく、単語や文に寄与している多数の諸関係に脱構築は従おうとします。そういった文脈は、英語やフランス語などといった言語体系である場合が多々あります。そして、これまでの章でみてきましたように、こういった体系は意味の中に創造性を許容します。

 

しかし、ある人が、神に、そして神に属する意味の内に究極的な根拠を置かず、一連の諸関係を単に「水平的」にしかとらえようとしないのなら、万事はたえず動的(in motion)であるように思えるはずです。有限な人間存在の間にあって、そこに何ら究極的全体(ultimate whole)がないのです。そうしておいて自分の体系から神を締め出し、「究極的全体は存在しない」と結論づけることは容易にできます。そして、そうなりますと、人の選択する――究極未満の――部分的文脈が、彼の選択に依存するところの意味を作り出すことになるでしょう。

 

脱構築のモットー:『テクストの外部には何もない。』

 

それではもう少し踏み込んでみることにしましょう。脱構築主義者であるジャック・デリダは「テクストの外部には何もない("there is nothing outside the text")」と述べました。*5

 

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ジャック・デリダ (Jacques Derrida,1930 –2004、フランスの哲学者)

 

この標語の底辺には、あるがままの世界をみるべく、人ははたして言語の《外側》に出ることができるのか否か、に対しての懸念があるように思われます。言語、および言語により持ち運ばれたもろもろの文化的《沈着物》は、まことの世界に覆いをかけている「監獄」のような存在なのでしょうか?

 

とは言っても、脱構築主義者は、文字通りの意味において、すべてが「テクスト」であると考えているわけではありません。人は口頭で話し、彼らの「世界」に存在する食べ物やその他もろもろの事物について話していることを彼らも認識しています。「しかし、拡大された意味において、人の話すこういった世界全体は『テクスト』である。」と彼らは指摘しているのです。「なぜなら」と彼らは言います。「文化的に、それはすでに加工処理され、人間の諸意味に同化・吸収されているから。」

 

そして彼らによると、同じことが、「神」や「神々」についても言えるのです。「神」もまた、人間の意味という造られた世界の一部なのだと。ですから、そこから脱構築主義者が含意しているのは、人は実際にけっして神に対してのアクセスがあるわけではなく、原則としてそういったアクセスは不可能ということでしょう。

 

そして、神が実際に存在せず、その上で、現在、多種多様な文化に直面しているのなら、自然な流れとして、人々はそこから相対主義ないしは多元主義に向かっていくことでしょう。

 

しかし、聖書的世界観の中においては、神は言語の使用者であられ、しかも、最高の使用者であられます。もろもろの意味というのは、ただ単に人間的に生み出されているものではなく、神によって生成しているのです。実際、神のご計画は、あらゆる意味を包含・網羅しており、時の経過の中で、人間が知るに至るあらゆる意味をすでに予期しておられるのです。全ての意味は、神に由来しています。そして被造物それ自体が神に由来しています。万物が存在しているのは、神が、それらを存在に至らしめるべく仰せられた(spoke)からです(創世記1章)。

 

実に、被造された物は、特定の諸資質と共に、その存在自体を神の発話に負っています。神が存在に至らしめるべくそれらをお呼びになり、それらを維持しておられます(「御子は・・その力あるみことばによって万物を保って("upholds")おられます。」ヘブル1:3)。そして神はそれらの名を命名されます(「神は、この光を昼と名づけ」創世記1:5)。

 

その意味で、神の発話という「テクスト」の外部には何もないのです。被造物は存在していますが、被造物は神ではありません。そしてそういった被造物にとって、神がお与えにならない意味というのは存在せず、神の表示する言葉に依存していない存在物は皆無です。

 

それゆえ、私たちが脱構築的モットーを、(被造物を統治している)神の言葉に適用させる時、その標語は妥当だといえます。私たちが神の意味の『外部』にはみ出すことは決してありません。*6

 

そして、人間を包含する言語コミュニケーションにおいてもこの標語は正しいといえます。なぜならそういったコミュニケーションは、決して神を除外し得ないからです。神は、英語やその他の諸言語を話す「言語コミュニティー」の一員です。そしてローマ1章で述べられている一般啓示は、あらゆる言語社会に生きる人間にたえず意味を分与しているのです。

 

脱構築のモットー:『作者の死』

 

幾人かの脱構築主義者の中に見い出されるのは、「作者は死んだ」という標語です。*7

 

この標語の言わんとしていることを判別するのは少々難解ですが、一つの主要目標として、「ここにひとつの権威ある意味が存在する」という思想から読者を解き放とうという意図が在ると思われます。つまり、(作者が包括的に統治し、テクスト解釈の固有標的であるところの)作者の持する権威的意味から自由になりましょう、ということです。

 

作者の「死」というのは、作者の完全統制という思想の持つ困難を要約する上でのダイナミックな方法です。ある人々にとっては、「作者の死」というこの表現は、至高の作者としての神の「死」を関連・示唆する意図的表現に他ならないかもしれません。

 

しかし他の人々にとっては、人間の作者を神格化することに対する抗議と映っているかもしれません。つまり、人間の作者があたかも神のように取り扱われ、言語に対し、意味の起源に対し、表現に対し神のような統治をすることに対する抗議だと受け取っているのです。換言すれば、詩人を神々に仕立て上げようとする偶像礼拝に対する攻撃であるということです。

 

それでは脱構築の枠組みの中で、作者というのはどのような仕方で「死ぬ」のでしょうか。作者の死なせ方として、関連する少なくとも三通りの方法があるでしょう。

 

 解釈者は、一つのテクストの解釈を増加させることができ、テクスト自体もただ一つの完全に統一された意味を強要していないということを示す。

 作者というのは主権者ではなく、自由な創造者でもなく、作者は、彼に先立つ言語や文化の文脈の中に(網をかけて)捕えられている、ということを示す。

 読者は、彼に付随する言語や文化の文脈の中に(網をかけて)捕えられている、ということを示す。

 

ですから、たとい私たちが著者の(言わんとする)意味を安定化させることができたとしても、読者は完全にそれにアクセスすることはできず、ただ自分自身の文脈においてそれを読んでいるということになります。

 

ここで脱構築主義者が展開している議論は、聖書テクストをも含めたあらゆるテクストに適用されるべく意図されています。それゆえ、聖書テクストに関し、このアプローチが含意しているのは、読者が自由に人間記者の権威を放棄してもよい、という事でしょう。そしてもしもそれが神的作者なら、神の権威もまた放棄されるということになります。このように、人間作者の死は、神的作者である神の死に関連しているのです。

 

こういったテクスト見解における主要欠陥の一つは、神的に企図されたものとしての歴史観念です。人間行為および歴史における文脈なしのテクストは、実際、本当に一通り以上の受け取り方をすることができます。それゆえに、解釈者は、意味を増加させることができるわけです。

 

そしてたといテクストが歴史的文脈の中に見い出されたとしても、読者たちは常に、(彼らが自らを律則する倫理的規範を持っていない限り)自分自身の自律的方向へと向かうことができます。倫理的規範の源としての神を私たちは必要としており、意味選択を律則する、最終的コンテクストとしての神を私たちは必要としています。

 

またそれに加え、意味に対する脱構築のアプローチは、次に挙げる二つの選択肢という対立構造を作り出していることによく表れています。

 

選択肢(1)安定した意味(そして彼らはこれが専制君主的になることを恐れています。)

選択肢(2)解放するものとしての、創造的解釈。

 

しかしながら、聖書的世界観の中にあって、両者は、互いに反目し合う存在ではありません。神との交わりは創造性を生み出します。なぜなら、歴史の全体を包含している神のみことばの安定した意味は、無制限に豊かであり、そこから知識は増し加えられていきます。

 

キリストのみからだの中における諸解釈の多様性は必ずしも常に悪いものであるとは限りません。(たしかに真理の歪曲は悪いものですが)。なぜなら、みからだが正常に機能する時、構成員たちは、真理の内に成長していく上で互いに励まし合うことができるからです。ある人はこの面で真正なる洞察の提供に貢献し、他のある人は他の面で貢献しています。キリストのみからだの中にいる多様な人々による多様な見解によってみからだは豊かにされていきます。*8

 

また、単なる人間作者たちは、完全に自分自身を支配しているわけでもありません。*9 彼らは有限の存在です。作者たちは、神の主権の下に進展していった過去に依拠しており、未来に関して言えば、彼らはそれを完全に掌握しているわけではありません。そして時間の枠組みの中のある瞬間において生じた彼らの意図する意味は、過去にも未来にもつながっているのです。つまり、人間作者の持つ意味は、密閉された容器の中に閉じ込められているわけではありません。そう、それは、多次元的関係性の中に存在している意味なのです。

 

さらに、人間は罪によって汚染されています。それゆえ、私たちの書き物は完全なる一貫性(一思考)のうちに書かれてはおらず、人間の持する意味の所産は、100%明確に定義されているわけでなく、統合されているわけでもありません。そういう意味で、こういった諸前提に対し問いを投げかけ、人間のコミュニケーションを損なわせるような政治的アジェンダや権力闘争の有無を疑ってみるよう私たちに警告している脱構築の主張は妥当なものだと言えます。

 

実際、検証されていない諸前提に対する脱構築の批判は、コーネリウス・ヴァン・ティルにより創始された超越論的弁証論(=先験的弁証論:transcendental apologetics)と比べた時に、何かしら興味深い類似点があるのです。*10

 

脱構築は、ある所定の文章が(言語および思考を含む)背景に暗に依拠しているあり方を表面化させ、そういった背景の深淵性が究極的にいかにして、所定の文章における明瞭な命題をむしばみ、あるいは偏心化させているのか、ということを指摘しています。

 

類推によっていいますと、すべての罪びとは、①自らの罪深い諸意図と、②暗黙のうちの神への依拠、との間の緊張関係を通して、自らの命題をむしばんでいます。前章で触れましたように、それを例えていうなら、ある小さな女の子がおじいちゃんの頬をぴしゃっと平手打ちするべく、おじいちゃんのお膝の上に座らざるを得ない――そういう状況なのです。

 

つまり、神に対する反逆者は、神の真理に逆らったことを主張すべく、言語という神よりの賜物(=『お膝』)の上に座らざるを得ないということです。そして何はともあれ反逆者たちは、神よりの賜物である「言語」を使っているわけですから、彼らは最終的に、(われ気づかずして、より優れたことを語った)あのカヤパ(ヨハネ11:49-53)のような存在と化するのでしょう。

 

脱構築は、文章それ自体の言語が、弱体化された緊張関係を明らかにしている様を暴露しようとしています。もしかすると脱構築は、半分がまがいもので、そして残りの半分は、反逆状態にある堕落した人間についての実態解釈なのかもしれません。

 

脱構築の言語はまた、キリスト教のストーリーとも類似点を持っています。読者が生きるべく、作者の死がもたらされました。つまり、私たちが神の栄光を顕すべく、いのちにある新しい歩みをするために、キリストの死がもたらされたのです。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(Ⅱコリ5:5)。

 

キリストのみわざと作者の死はこじつけではありません。キリストの死は実に、(人としての)ご自身の力を神の聖意図に明け渡すことも含みました。そうする上で、キリストは、自律性を求め、また自己中心的な私益を得るべく、あらゆる状況を支配しようともがく人間の罪深い傾向を破棄されました。

 

罪びとである人間作者は往々にして、自らの文章の意味を絶対的に支配し、自らがコミュニケートする相手の思考を絶対的に支配しようとするパターンに陥りがちです。そういった欲望に対し彼らは死ぬべきなのです。そして読者側も、固定された作者の意味を絶対的に支配しようとする欲望に対し死ぬよう求められています。そしてこの死こそ、自律性に対しての死であり、「神のようになろう」という願望に対する死に他なりません。

 

さらに、自ら死ぬことを選び取られたイエスの意思には、罪にまみれたこの世にご自身のロゴスをお遣わしになった神の御意思ともアナロジーの関係にあります。遣わされたこの世で、神のロゴスはあざけられ、腐敗させられ、歪曲され、悪用され、そして「殺され("killed")」ました。そして今日に至るまで、聖書は、(あからさまな敵からだけでなく)痛ましいことに、神の「友」を自称する人々によっても、あざけられ、悪用・乱用されています。そういった人々は、口先では神に仕えると言っていますが、自らの権力やプライドや快適さへの欲求を満たすべく神の言葉を歪曲しています。

 

「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。(使徒7:52-53)」

 

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ23:27-28)」

 

旧約の預言者たちや新約の使徒たちに対し、文字通り起こった殺しは、比喩的に、彼らの発信した使信(message)に対し起こります。使信は、罪深い聴取や応答によって「殺され」、踏みにじられています。しかし使信は、そういった憤怒を甘受しています。――そうすることにより、使信の死を超えたところで、(当初、福音の使信を中傷していたパウロのような)人々のうちに、復活のいのちが臨むからです。

 

キリストというペルソナの内に、死と復活は、歴史上、一回性の出来事として起りました。そしてその後も、死と復活の写しは、イエスの弟子たちの生、そして彼らが証言した使信の中に繰り返し現れ出ました。真理というのは、真理に逆らおうとする人間側の抵抗のただ中にあって、その道を切り開くべく格闘しているように思われます。

 

脱構築のモットー:『シニフィエ(‟記号内容”)の繰延』

 

また、脱構築は、「解釈者たちは、決して、究極的に安定した『記号内容(シニフィエ;"signified")』に到達することはない」と主張しています。それはどういう意味なのでしょうか。

 

この主張を理解するために、私たちは、『シニフィアン(記号表現;"signifier")』と『シニフィエ(記号内容;"signified")』という概念を導入したフェルディナンド・ソシュールにまで遡らなければなりません。*11

 

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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)は、スイスの言語学者、言語哲学者。「近代言語学の父」といわれています。

 

ソシュールの分析によれば、――「犬」という言葉のような――言語学的記号には、①シニフィアンと、②シニフィエ、という二つの側面があります。シニフィアンとは、d+o+gという音の並び、つまり「音のイメージ,聴覚映像」のことを指します。それに対し、シニフィエは、それが表現する「概念」(つまり、この場合でいえば、犬という概念)のことを指します。*12

 

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脱構築は、「それぞれのシニフィエは、それ自身を超えたものを指し示すシニフィアンになる」と主張しています。つまり、どういうことかと言いますと、そこに指示対象ないしは(間接的)言及のチェーンがあるということです。AはBを暗示し、BはCを暗示し、CはDを暗示する・・・といった具合です。

 

例えば、「犬」について考えることは、「動物」につながり、それが今度は「生命」に、そしてさらに杉の木のような植物に、そして、、そして、、と無制限にこれが続いていきます。指示対象に関し、そこに終着点はないのです。これは前章で取り扱いましたフィールド・パースペクティブと密接に相関しています。つまり、どんな語にしても、どんな文章にしても、それは関係性によって、他のものにつながっていきます。その意味で、「究極的」終点はどこにもありません。

 

よって脱構築は、「われわれは、究極的静止を見出すことはできないし、チェーンの終わり、つまり、単一にして究極的シニフィエを見出すこともできない」と主張しているわけです。そして、時にこれは、究極的シニフィエ(final Signified)としての神についての言明にも適用されます。

 

脱構築が主張するところによれば、(大文字のSignifiedであろうと小文字のsignifiedであろうと関係なく)究極的シニフィエなどというのは存在し得ない、とされます。なぜなら、記号というのは常に、さらなる別の記号へと関係性を持っていくからです。ですから、この体系の外部(「テクスト」の外部)にある終点にたどり着くことはないのだと。

 

脱構築は、単一にして未分化のシニフィエの内に存在する究極的静止というような像を攻撃しています。彼らによると、こういったシニフィエは、何ら関係性をもたない、最終物です。確かに、古典的哲学における認識論の探求は、往々にして、ある特定対象に関する完璧な知識の内に存在する、そのような究極的静止を要求してきたかもしれません。そして神についての望ましい知識としても、同じような事に焦点が置かれる可能性があります。

 

しかしここでいう究極的静止像とは、実質上、ユニテリアン的観念の神像です。そういった神像には〔位格間における〕区別もなく、内的ダイナミック性もありません。ですから、この点に関して言えば、脱構築の批判はかなり的を射ていると言えます。彼らはこういった種類の偶像礼拝的結論を拒絶しているのです。

 

それでは、まことの神のことを考えてみましょう。神に近づく人間のアクセスは、御言葉を通してです。そこに神の内に在る究極的指示対象(final Reference)が存在します。その意味において、父なる神は、究極的シニフィエと言えるかもしれません。

 

しかし御父は、三位一体内の他の位格とも、永遠の関係性を持っておられます。御子を通して私たちは御父を知ります。言語の下位組織というアナロジーを用いますと*13、御父は、シニフィエに譬えることができ、御霊はシニフィアンです。そして御子はロゴスです。そしてその中で、シニフィエとシニフィアンは永遠に結ばれ、相互に内在しているのです。三位一体の神の三格は、一致と多様性の内に存在しており、観念的孤立ではなく、互いに交わりを持ちつつ存在しています。

 

それゆえ、この関係性に終わりはありません。なぜなら、関係性は神の本質である最も深遠なるリアリティーの中に包含されているからです。その意味で確かに私たちは、究極的シニフィエとしての御父を見い出しています。しかしそれと同時に私たちは究極的関係性をも見い出しているのです。――つまり、御父、御子、御霊という、シニフィカシオン(=signification)の関係です。ですから、脱構築は、それが意図していることよりも深い意味において「正しい」のです。

 

さらに、人間の意図が最終的なものではないとする脱構築の主張も正しいと言えます。人間の意図ではなく、神の御意図こそ究極的なものなのですから。しかし神に対し私たち人間が依存している事実は、私たちが安息(静止)を見い出せないことを意味しているわけではありません。神ご自身が、御霊の働きを通し、キリストの内にあって、私たちをご自身に近づかせてくださるのです。

 

脱構築に関する議論の根底には、言語の内にある深遠性というテーマが横たわっています。言語内のシニフィカシオン(=シニフィアンとシニフィエの関係;significationの関係性は、三位一体神の位格間のうちに存在する、シニフィカシオンの究極的関係性に由来しています。*14

 

それゆえ、言語内の関係性は、――神ご自身を除外したところにある――単一の最終的単語の内で終止することは決してないのです。脱構築主義者は深遠性のことに真剣に取り組んでいます。しかし、「そこに存在する神」を無視した上で、もしも彼らがユニタリアン的本体論を破壊することだけに終始してしまうのなら、彼らはおそらくどこまでいっても充足するはないでしょう。

 

脱構築のモットー:『不在』

 

脱構築は、現前("presence")に対しても戦いを挑んでいます。脱構築理論によると、意味というのは、私たちが余すところなくフルに受容するところの「現前」としては達することがないとされています。

 

それによると、私たちは決して包括的に意味を理解することができないのです。この種の描写は、前項で扱った「シニフィエの繰延」とも深く関連しています。つまり、シニフィカシオン(=シニフィアンとシニフィエの関係;significationを通し、ある要素が別の要素を指し示す、ないしは、連続したテクストがの読みが続けて新しい洞察を生成しつづけるといった内容と関連しています。

 

面と向かい合った会話においては、一見したところ、人間話者は、問題なく私たちの前に「現前」しているようにみえます。しかし会話が暗黙のうちに言語媒介物を用いている様について真剣に考え始めると、私たちは遅かれ早かれ気づくようになります。――発話者の諸思想は、媒介物なしに直接的に("immediately")私たちの思考に入ってくるのではなく、むしろそれは媒介的(mediately)に入ってくるのだと。発話者は言語を媒介物として用いており、彼が話すことは、一つの言語体系に多数の関係性を有しています。

 

脱構築は、その後、この原則を一般化し、「言語媒介なしに、私たちの思考の内にはいかなる考えも『現前』しない」と主張するようになりました。*15 そして結果として、言語は、明確なる考えを内包するいわゆる「完全なる」視覚をぼかし、不鮮明にし、あるいは不安定化させるようになると。

 

そして脱構築はさらに、これと同じ原則を神にも適用しています。曰く、神は「現前」していない。なぜなら、神に対するわれわれの考えは、言語によって「媒介」されているからと。

 

言語全体を通し、そのあらゆる側面において神が現前されるという根本的事実が存在しないのなら、確かにこういった「神不在」の結論は必然的なものになるでしょう。つまり、私がここで神が「現前」していると言っているのは、――脱構築の批判しているところの、自律的哲学の求めている「現存」という意味ではなく――、神の現前は聖書の中に釈義されているという意味においてです。神は、超越的かつ不可把握的(incomprehensible)でありつつも、現前しておられます。私たちは、言語学的体操という手続きを通し、神を「現存」させるよう努力する必要はないのです。

 

ここにおいても、脱構築は、真理の一部分を着服しています。確かに神は媒介なしに人間の元に来られません。――特に、ロゴスである御子という媒介者なしには。そしてキリストに信頼する者の内に内住される聖霊の媒介が存在し、この聖霊は、人間の魂との交わりの中で、私たちが神を知り、この方を「父」(ローマ書8:15)と呼ぶよう、開示してくださいます。私たちの神は三位一体(Trinitarian)であり、脱構築が闘おうとしているところのユニタリアンではありません。そうです、神は御子のペルソナの内に、インマヌエル(=神はともにおられる)として現前しておられるのです(マタイの福音書1:23)。

 

『ロゴス中心主義』批判

 

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それからまた、脱構築は、「ロゴス中心主義」批判を展開しています。さて、「ロゴス中心主義」とはいったい何を意味しているのでしょうか。

 

ロゴス中心主義("logocentrism")」という語は、語源的には、言葉の中心性という思想を表しています。というのも、「ロゴス」というのはギリシャ語で「言葉」を意味する語だからです。この語の使用に関し一部の人々は、ヨハネの福音書1章1節で「ことば」と表されている、キリストの中心性というキリスト教思想に対する暗示も含めているのかもしれません。*16

 

それはあたかも、脱構築が直接的にキリスト教教理を攻撃しているかのようにさえ見えるかもしれません。しかしそういった印象は表層的なものでしょう。脱構築が「ロゴス中心主義」という語に含意しているのはむしろ別の種類の暗示ではないかと思います。

 

この批判の標的は、知恵の探求法として理性を用いる西洋哲学における(学的)営みに向けられています。そういった探求は、純粋思惟という、神のごとき、透明にして、理性的かつ究極的真理像を獲得することをその目的としています。

 

ですからここでの文脈で言いますと、「ロゴス(λόγος)」というギリシャ語は、特にキリスト教思想と関連づけられているというよりはむしろ、理性と関連していると言っていいと思います。哲学的探求は、理性に依存し、その中心に理性を有しています。

 

それと同時に、キリスト教思想に言及している場合の「ロゴス中心主義」という語は、こういった西洋の探求営為が、宗教の世俗的変異であるということを訴えています。脱構築は、この語を、挑発的ラベルとして用いており、「西洋における合理主義者たちの伝統は、代替的宗教に他ならないのだ」ということを主張しています。

 

さらに、「ロゴス中心主義」批判は、前項で取り扱いました、究極的シニフィエおよび究極的現前に関するテーマとも類似性を持っています。西洋哲学は、言語の持つ「形式と意味(form-meaning)」という性質に属する、いわゆる「不純性」から独立したところにある究極的にして理性的な像を欲しています。それゆえ、脱構築は、私たちがこれまで述べてきました諸真理のいくつかに訴えているわけです。*17

 

脱構築の営為における一つの関心は、西洋哲学および形而上学の一部を「脱構築」することにあります。そして、脱構築はこれまで、西洋の哲学的伝統の内に存在する諸前提に批判的に取り組んできました。その努力自体は肯定されてよいかもしれません。なぜなら、そういった伝統の多くは、人間のこしらえた知恵を探求してきたからです。*18

 

そして多くの場合、哲学者たちは言語や(あるいは少なくとも彼らの哲学の鍵となる語)を使用する上で、それらがあたかも無限の正確さおよび、安定性を有するものであるかのように取り扱ってきたきらいがあります。

 

曰く、用語というのは、対照同一視的形態(contrastive-identificational features)において無限に正確でなければならず、そこに差異や文脈(分配)からの干渉があってはならないと。*19 そして、(あたかも人が神のごとき像を持つことができるかのように)、用語というのは真理を非蓋然(がいぜん)的かつ完全に、「現前」させるものであると。

 

極性の偏心化ないしは逆転

 

脱構築はまた、さまざまな極性、例えば、正常/異常、男/女、客観/主観、字義的/寓話的、意味/解釈、内側/外側・・といったものを偏心化させ、もしくは逆転させようと試みています。

 

そういった極性は、階層的な関係性の内にこれまで理解されてきました。つまり、最初の単語が主要であり、二番目の単語が派生的であるという捉え方です。

 

洗練された脱構築主義者は、こういった区別を破棄しようとはせず、その代り、そこに関連する文化的諸前提や権力構造を明るみに出し、問題提起をしようとしています。そしてそれを行なう上で、彼らはしばしば、遠近法プロセス(単語が、全体としての見解となるまで、意味において広げられること)に類似したプロセスに依拠しています。*20

 

そして実際、これは可能なのです。なぜなら、遠近法プロセスは、ある意味の他の意味との関係性を活用するからです。全ては他の意味との諸関係を享受しています。神でさえも、三位一体のそれぞれの位格は、互いに対する相互の永遠なる関係を享受しておられるのです。

 

しかしながら遠近法プロセスはまた歪曲もされ得ます。もし私たちが神を見失ってしまうなら、このプロセスは半分の真理や偽りを推進する道具として利用されるでしょう。それが理由で、この脱構築プロセスは実際にいくぶんかの洞察を含んではいるものの、(それぞれの実践者にもよりますが)、複雑な混合の内に歪曲や偽りをも含み得るのです。

 

慣習的諸前提を弱体化させる

 

脱構築は、フリードリヒ・ニーチェ、マルクス主義、フロイド主義、フランス実存主義などから生じた、人間存在に対する疑わしく不穏な各種アプローチと類似点を持っています。多くの人々にとってこれらの諸哲学は、深刻に不穏なものです。そしてさまざまな意味で、これらの哲学的諸見解は、思想全体に対する再解釈といった面を内包しています。

 

こういった新見解に直面することは、外国人と会い、(見知らぬ)彼らの文化を理解しようと努める様にも似ています。こういった外国人たちは慣習的諸前提の域を超えています。そして聖書信仰のクリスチャンにとって、こういった「外国人たち」が二重に不穏な存在である理由は、彼らが、その根柢においてキリスト者に敵対している(anti-Christian)からです*21

 

しかしまた別の側面も考慮しなければなりません。こういった人々が一連の不穏な動きを導入しようとする理由の一つとして、彼らが、慣習的なものや、現状体制、「すべてが正常で健全」といった満足気な諸前提に対し懐疑的だからです。脱構築主義者たちが二項対立を逆転させようと試みている理由の一つもここに在ります。彼らは抜本的に不満を抱えています。霊的にいうと、彼らは必死かつ絶望的になっており、こういった《死にもの狂い》が人々をラディカル療法へと駆り立てます。*22

 

特に、脱構築は時として、言語の諸制限を無理に押し上げ、広げようとしています。そして彼らは、慣習や諸制限に注意を引かせるべく、(合理主義哲学内では一般に用いられている書き方の)常識・慣習をあえて破りつつ、文章を書いているため、彼らの文章は読みにくくなっています。*23

 

絶望やラディカルな懐疑というのは理解できます。なぜなら、こういった状態や見解は真理の半分を捉えるものだからです。私たちは生来、正常でもなく、霊的に健全でもありません。そしてこれらの症状全てに対する最も抜本的治療薬は、キリスト教の福音です。これは堕落した人間が避難所を見い出す(ルカ1:51-53)という事において、二項対立のすさまじい逆転であり、また、人間というのは、死に物狂いの状態になってみない限り、福音を真剣に捉えようとはしない傾向にあります。

 

キリストの十字架刑は、究極の逆転でした。死から永遠の生命がもたらされます(黙示録1:18)。屈辱から栄誉がもたらされます(ピリピ2:8-10)。弱さから力がもたらされ(2コリ12:9-10;13:4)、敗北から勝利がもたらされます(ルカ24:20)。苦難から栄光がもたらされ(ルカ24:26)、暗闇から光がもたらされます(ルカ23:44;22:53;ヨハネ9:4-5;12:31-36)。そして死刑執行から正当性の証明がもたらされ(ローマ4:25)、愚かさから知恵がもたらされます(1コリ1:25)。逆転に関する関心により、脱構築は、――歴史における中心的奥義に達することなく――、それでも近いところまで来ているのです。

 

さらに、次のことが言えるかもしれません。脱構築およびその先任者たちの懐疑的アプローチには、ある意味、懐疑における徹底性が未だ足りないと。彼らは絶望することにおいても、抜本性においても、未だ徹底し切れていません。彼らは人間自律という根本欲求に対し徹底して懐疑的になるところまでは未だ行っておらず、神のご慈愛に自らを投げ出すほど絶望し切れてもいませんし、十字架の抜本性を受容するほど抜本的にも成り切れていません。神が彼のそういった抵抗を克服してくださらない限り、誰もそうはできないのです(ヨハネ6:44、65)。

 

そしてもしクリスチャンたち自身が、メインストリームの近代性の中に安住し、そういった現状体制の上にあぐらをかきつつ、自己満足と妥協の内に生きているのだとしたら、私たちもまた、目を覚ますべきであり、批判を甘んじて受け入れるべきだと思います。私たちもここかしこで何らかの餌食になっており、他者からの批判的声――たといそれが誤りのただ中に存在する真理のちいさな一粒を含んでいるに過ぎないとしても――それらは〔私たちクリスチャン側の〕罪を明らかにしているかもしれないのです。

 

知恵をふたたび 

 

知恵に対する求めは人間存在の深い処にあり、それは人間が神のかたちに造られたことの一側面です。また、一般恩寵により、私たちは(脱構築主義者を含めた)他の多くの人々の働きや洞察からもなにかしら益を得ることができます。また、知恵への探求は、人々を斬新な洞察、深み、奥義へと導いていくでしょう。

 

しかしこの求めは罪によって歪められます。そして神に対する私たちの反逆により、知への願望は、「神のように、超人的かつ合理的に透明な意味を支配したい」という歪められた形態を帯びていきます。そしてこういった知への願望に対して、脱構築は正当にも懐疑的なのです。そして正当にもその実態を暴露しようとしています。

 

しかし洞察だけでは解放はもたらされません。(知的にであれ、他の方法によってであれ)私たちが単に自らの罪を認識することによっては自律性(autonomy)は消滅しません。それが消滅するのはキリストの御業を通してのみです。実際、脱構築は他の例にもれず、同じような危険ルートを走っています。つまり、実態を暴露したいという願望それ自身が、――神のようになりたいという――もう一つ別の形態願望になりかねないという危険性です。

 

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレ17:9)」

 

こういった誘惑は、多くの形態においてみられます。「神のようになりたい」という願望は、近代主義者に理性過信をもたらすだけでなく、ポスト近代主義者に〈寛容への推進〉をも動機づけています。これは時にまた、言語学や記号論理を用いて言語を支配したいという願望を刺激し、普遍的かつ合理的基盤としての言語行為論(speech-act theory)を用いることで言語を理解したい、あるいは、口頭解釈において意味を支配したい、もしくは贖罪的物語に代替するようなものを考案したいというような願望を刺激します。

 

キリスト者である私たちであっても、依然として自らの罪によって汚染されており、こういった罪深い一連の諸形態願望が、思わぬ所で不意に頭をもたげてくる時があります。神のような有様で聖書それ自体を治めたいという願望に突き動かされ、こうして、自分に同意してくれない人々に対して独善的な態度を取るようになっていきます。

 

これまで皆さんとご一緒にみてきましたように、ポスト近代主義者は、教条主義(dogmatism)を恐れています。そして確かに、罪深い種類の教条主義は、キリストを真理として告白する信者の間にでさえも忍び込んでくる力を持っています。そしてもしも私たち(キリスト者)がそうなってしまうのなら、その責めはさらに重いと言えるでしょう。なぜなら、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求される(ルカ12:48)」からです。

 

しかしながら、解決は、真理を放棄する「偽りの謙遜さ」の類にはありません。そうではなく、私たちは神からいただいた真理に大胆に寄り頼んでいくことができるはずです。そうして私たちは、より豊かに真理を享受し、現在思うところを超えて増し加わる知識に至る小道として真理を愛するべきです(エペソ3:18-21)。

 

ポストモダニストはまた、教条主義を、「究極的な物語の説明」つまり、メタナラティブ(大きな物語)を所有しようとする試みの一環として捉えています。大きな物語とはつまり、その理性的力によって私たちを説得するところの、全般的な歴史記述のことです。*24

 

ポスト近代主義者が恐れているのは、そういったメタナラティブが結局、「究極的知に達することができる」という誤った人間の主張を表すものになるのではないかという懸念です。それに屈することは、自律性を放棄することに他ならず、こうして他人の物語というレトリックな策略によりわれわれは捕虜にされてしまうのではないか・・・と彼らは懸念しています。

 

確かにそういった恐れについて理解はできるとしても、結局、ポストモダニズム自身、彼独自の教条主義を作り出してきたのではないでしょうか?つまり、「『大きな物語』というのは常に権力を渇望する欺瞞的仮面にすぎない」と主張する、二次知識としての教条主義です。そしてそれは、神からの解放を求める「人間の自律性への欲求」という、究極的にして最も情け容赦ない捕囚に今も囚われているのではないでしょうか?*25

 

聖書はある意味、大きな物語を提供していますが、それは多元構造的(multitextured)*26 かつ多層的、そして今も未完です。――私たちはまだ再臨を待っているからです。聖書は、私たちに対し、自発的にして自由かつ栄光に富んだ「キリストの囚人(captivity to Christ)」になるよう誘っています。この囚われより自由がもたらされます。

 

そして神への囚われというこの捕囚自体、人間の強さではなく、むしろ弱さを通して私たちにもたらされます。そして聖書の物語は、堕落した人間の悟性に対する、その優越した透明性によってではなく、聖霊の御力により私たちに確信を与え、こうして聖霊は、霊的に盲目な目を開眼させるのです。

 

「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(1コリント2:1-5)

 

ー終わりー

 

 

*1:本書 appendices AおよびBを参照。

*2:有益な入門書としては、Heath White, Postmodernism 101: A First Course for the Curious Christian (Grand Rapids, MI: Brazos, 2006)があります。

 

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 (〔訳者注〕著者のヒース・ホワイト氏は、米国ノース・カロライナ大の哲学科で教鞭をとっておられる福音派キリスト者です。「先生。最近よく、ポストモダンとか、ポスト近代の問題とか聞くんですが、そもそも『ポストモダニズム』っていうのが一体何なのか私にはよく分かりません」といった学生たちの問いに答える形で、ホワイト教授は非常に分かりやすく、かつ明瞭に説明してくださっています。本の目次 ①なぜポストモダニズム?②前近代および近代の思考方式、②ポストモダン、理性に背を向ける、③真理、権力、そして倫理、④自己、⑤言語と思考、⑥探求と解釈、⑦文化とアイロニー、⑧歴史と希望)

それから、John D. Caputo in Jacques Derrida, Deconstruction in a Nutshell: A Conversation with Jacques Derrida, edited with a commentary by John D. Caputo (New York: Fordham University Press, 1997)を参考。

*3:〔訳者注〕「脱構築」の定義に関して

『フランス哲学・思想事典』(弘文堂、1999年)では、「脱構築」は次のように定義されています。

 「形而上学の脱構築 (deconstruction)とは、ハイデガーの『存在論の歴史の解体 (Abbau, Destruktion)』に示唆を受けたモチーフである。」 

 「脱構築の実践とは、形而上学的諸概念の階層秩序的二項対立の解体作業として整理できる。・・・階層秩序的二項対立に対して、脱構築は一般に、劣位におかれたものが何らかの形で、優位におかれたものの可能性の条件にかかわっていることを示し、両者の境界線が厳密には決定不可能であることを暴露することによって、規制の価値序列とは別の関係、別の〈他者との関係〉の可能性を開こうとする。」

 

また、『現代美術用語辞典』では次のような説明がなされています。

 「20世紀フランスの哲学者であるジャック・デリダ(1930-2004)の主要概念。デリダはもともと、この言葉をハイデガーの「解体」([独]Abbau, Destruktion)の訳語として用いはじめた。

 「脱構築deconstruction」はたんなる否定的な「破壊destruction」とは異なるため、それと区別するために日本語では当初「解体構築」という訳語が用いられることもあったが、1970年代に「脱構築」という訳語が定着した。ちなみに、この訳語は英文学者の由良君美による考案であるとされている。

 デリダは、初期から晩年の著作にいたるまで一貫して「脱構築」をみずからの哲学的方法とした。具体的には、古代ギリシャ発祥の西洋哲学において前提とされてきたさまざまな二項対立を疑い、その対立を成立せしめている基盤そのものを問うという方法が「脱構築」と呼ばれる。とはいえこのような定義はあくまでも一面的なものでしかなく、デリダの「脱構築」はむしろ命題的な定義を拒むようなところがある。 

 20世紀後半の現代思想を牽引したデリダの思想は現代美術にも少なからぬ影響を及ぼし、この「脱構築」という言葉も1970年代以降のアメリカを中心に大いに流布した。造形芸術に関して言えば、特にその影響は建築の分野において顕著であり、1988年にはニューヨーク近代美術館で「脱構築主義の建築」展が開催される。

 デリダ自身、しばしば脱構築派と形容されるピーター・アイゼンマンとともに「コーラル・ワーク」というプロジェクトに携わったことがある。しかし注意しなければならないが、本来デリダの「脱構築」には造形(芸術)に対する特別な含意はいっさい見られない。

 実際、批評の用語として「脱構築」という言葉が用いられる際に、上記のようなデリダの議論が厳密な意味で踏襲されているケースは稀であり、そのほとんどはある概念や物事の見方に対する異議申し立てや問い直しといった程度の意味で用いられている。」(執筆者: 星野太氏)

関連記事:

*4:本書第3章。

*5:Jacques Derrida, Of Grammatology (Baltimore: John Hopkins University Press, 1976), 158. (日本語訳:ジャック・デリダ著(足立和浩訳)『根源の彼方に――グラマトロジーについて(上)(下)』、現代思潮新社、2012年)

*6:コーネリウス・ヴァン・ティルは、「全ての事実および全ての意味は神のご計画およびその全能性に由来している」という事を繰り返し指摘しています。非キリスト者の思想は、事実や意味を、神から独立した『そこ("there")』にあるものとのみ考える傾向があります。彼らによると、宇宙およびその意味は究極的に《非人格的(impersonal)》です。しかし、神がご臨在され、統治している世界では、すべての意味は神との関係性の中にあり、また世界に対する神のご計画との関係性の中に存在しています。参:Cornelius Van Til, The Defense of the Faith, 2nd ed. (Philadelphia: Presbyterian & Reformed, 1963), 37–46; Van Til, A Survey of Christian Epistemology, vol. 2 of In Defense of Biblical Christianity (n.p.: den Dulk Foundation, 1969), 12–18, 34–37. そこにナマの事実、つまり、神のご計画という「テクスト」から乖離しているものは存在していません。

*7:特に、Roland Barthes, “The Death of the Author,” reprinted in William Irwin,ed., The Death and Resurrection of the Author? (New York: Hill & Wang, 2002)を、この著の中で取り上げられているその他の関連事項と共に参照のこと。

*8:本書18章および、Vern S. Poythress, Symphonic Theology: The Validity of Multiple Perspectives in Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1987, ; reprinted, Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed, 2001)を参照。

*9:本書20章を参照。

*10:Van Til, Defense of the Faith; John M. Frame, Cornelius Van Til: An Analysis of His Thought (Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed, 1995). この相関性はおそらく偶発的なものではなく、超越性に対するクリスチャンとノン・クリスチャンのそれぞれの見解に起因していると思われます(本書をappendix Cを参照)。ヴァン・ティルのアプローチは、知識に対するキリスト者のアプローチです。それに対し、脱構築は、非キリスト教のアナロジー(偽物)です。

*11:Appendix Eを参照。

*12:訳者注シニフィアンは、フランス語の動詞signifier現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」という意味を持ちます。それに対し、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持ちます。つまり、前者は、能動的で、後者は受身的な意味を持っているということです。そのため、ソシュールの『一般言語学講義』を翻訳した小林英夫氏(1903-1978)は、前者の訳語としては「能記(「能」は「能動」の意味)、そして、後者の訳語としては「所記(「所」は「所与」「所要」などのばあいと同じく受身を表します。つまり「所記」は「しるされるもの」の意味)という語を選ばれたそうですが、現在では、前者は、「記号表現」、後者は「記号内容」という訳語が定着化しているようです。

*13:本書32章。

*14:より正確に言いますと、観念(シニフィエ)は、言語の指示的サブシステムに属しています。それとは対照的に、シニフィアン(「音のイメージ」「聴覚映像」)は、言語の音韻サブシステムに属しています。シニフィアンとシニフィエについて説明する際、ソシュールは分析的に、(『犬』というような)一つの単語の二側面を単離(孤立)させることを提唱しました。しかしながら、いわゆる『犬』は、形式と意味の複合であり、実際には、この二側面を完全に分離することはできません。それらは、①音韻的、②指示的という二つのサブシステム連結のアスペクトとして、連動しています。尚、本書32章において、私たちはこれらのサブシステムが、アナロジーとして、三位一体の神の奥義より派生していることをみました。それらは、類推として、御父と御霊の同時内包(coinherence)と同一内在しています。御父のご計画が、指示的アスペクトであるのに対し、神の「息吹」としての御霊は、音韻的アスペクトに相当します。

*15:Jacques Derrida, Positions (Chicago: University of Chicago Press, 1981), 26.(日本語訳 ジャック・デリダ著、高橋允昭(訳)『ポジシオン』青土社、2000年)

*16:ヨハネ1:1のギリシャ原典ではλὀγος("logos")が使われています。

*17:本書巻末のAppendix Hで取り扱っている、言語行為論(speech-act theory)の諸制限の問題についての項もご参照ください。発話者側における、意味を支配したいという願望の内に、理性に関する西洋伝統の徴をみることができるでしょう。同様に、意味に対する超人的にして究極的支配に対する願望は、口頭解釈に影響を及ぼしています(第21章)。

*18:Vern S. Poythress, “The Quest for Wisdom,” in Resurrection and Eschatology: Theology in Service of the Church, ed. Lane G. Tipton and Jeffrey C. Waddington (Phillipsburg, NJ: Presbyterian & Reformed, 2008), 86–114.を参照。

*19:第19章、それから巻末の Appendix D、そして Vern S. Poythress, “Reforming Ontology and Logic in the Light of the Trinity: An Application of Van Til’s Idea of Analogy,” Westminster Theological Journal 57/1 (1995): 187–219を参照。

*20:第34-35章参照。

*21:訳者注〕実存主義についての秀逸な考察書として、William Barrett著、Irrational Man: A Study in Existential Philosophy, 1962を挙げることができると思います。

 それから、次のような考察記事もあります。 

pt.2,pt.3,pt.4

尚、近年のフェミニスト神学における「脱構築」の動きについては、以下の二つの記事をご参照ください。 

Deconstruction | Internet Encyclopedia of Philosophy(特にこの論考の第3章 Feminist Deconstructionの項) 

*22:それゆえ、ジョナサン・キューラーは次のように述べています。「自分の腰かけている木の枝をギコギコ切断していくこと」は、一般人の常識からすると、かなり向こう見ずで無謀な事のように思われるでしょうが、ニーチェやフロイド、ハイデッガー、デリダのような人々にあってはそうではないのです。なぜなら、彼らは、次のように疑り深く考えているからです。「(枝が折れた後)自分が下に落下したところで、頭を打ち付ける『地面』それ自体がそもそも存在していないかもしれないではないか?だから、最も確かなる行為というのは、①無鉄砲なノコ挽き、そして、②(千年王国という避難所に人間が逃げ込んだところの)宮殿のごとき偉大な木々の、計画的切断ないしは脱構築であるだろう。」(Culler, On Deconstruction: Theory and Criticism after Structuralism [Ithaca, NY: Cornell University Press, 1982], 149).

「・・・認証されているいわゆる、プラグマティスト的な真理観念は、真理として(一般)通用しているものを批判することを常としている。そして、脱構築は、内側からだけでなく、外側からも諸体系をみることを心がけているため、女性、詩人、預言者、狂人等いわゆる周縁化されている人々のエキセントリセティー(奇行)も、体系についての諸真理を生み出しているのではないか?と、脱構築主義者たちは、そういった可能性を捨ててはいない――そう、コンセンサスと相矛盾し、(未だ発達途中の)枠組み内で実証されていない諸真理を。」(同書153–154)

*23:言語の諸制限に対するこういった「押し行為」により、脱構築は、(批評家たちが指摘しているように)「否定神学(“negative theology”)」と類似点を持っています。しかし脱構築も、否定神学も共に、「超越性」に関するノン・クリスチャン見解に道を外してしまっています。(詳しくは、巻末 Appendix Cに掲載されているジョン・フレームの図のcorner 3を参照してください。)彼らは、聖書の使信に包含されているシンプル性および有効性(corner 2)に自らを明け渡す代わりに、自律的知性という制限枠、そして意味の制限枠の中でのみ諸回答を見い出そうとしています。

「主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする」(詩19:7)。

「恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」(2コリント4:2)。

*24:ジャン=フランソワ・リオタールは、『ポストモダンの条件』(1979)の中で、ポストモダンを次のように定義しました。「極限まで簡略化すると、私は、ポストモダンを『大きな物語に対する不信』と定義する」(Jean-François Lyotard, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge [Minneapolis: University of Minnesota Press, 1984], xxiv)。尚、本書27章で取り扱っている、ポスト近代の贖罪ストーリーの項も参照ください。

*25:二つの描写が思い出されます。両方ともC・S・ルイスの作品からです。『さいごの戦い』の中で、小人たちが、「トリックにかかることを拒絶した。」それまで散々騙され続けてきたため、彼らは、疑念と批判の内に生きることを決心していたのです。もう一つの別の描写は、ルイスの『巡礼者の退行(The Pilgrim’s Regress: An Allegorical Apology for Christianity, Reason, and Romanticism)』です。この本の4巻、第1章の中で、フロイド主義という地下牢の中に閉じ込められていた囚人たちが、外界に出ることを拒否しています。そしてこうつぶやいているのです。「いやいや、今目の前に見ている解放の知覚も、『願望充足の夢の一つにすぎないはずだ。さあ、もう金輪際、騙されないぞ。』」鎖につながれている捕囚人たちの中でも最も悲嘆な人たちは、自律的に批判的・懐疑的であろうと自らに課している人々なのでした。

*26:聖書には多数のジャンルがあります。四福音書の含意については、Poythress, Symphonic Theology, 47–51を参照ください。