巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ「解放のミニストリー」によって人々はかえって束縛されるようになるのか――「霊の戦い」という世界観に対する警告(by ボブ・デウェイ)

目次

 

 

Bob Dewaay, How Deliverance Ministries Lead People to Bondage, A Warning Against the Warfare Worldview, 2003(全訳)

 

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 ボブ・デウェイ(米国 Twin City Fellowship教会牧師)

 

「解放のミニストリー」教役者としての日々

 

「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。」(2テモテ2:24-26)

 

1977年、私は、「内なるいやしと解放ミニストリー」の専属スタッフとして奉仕していました。当時、私たちの所には、過去に受けた傷や虐待によって幻聴、中毒、精神的トラウマ等、霊的束縛の中にある人々が、解放を求め、全国からやって来ていました。

 

私たちのミニストリーは、当時、霊の戦いの世界において「最先端をいく基地」だとみなされていました。私たちは、助けを求めてやって来られる方々に場所を提供し、こうして彼らは癒しのミニストリーを受けながら、私たちと共に共同生活を送っていました。

 

ちょうどその頃、別の州に住むAさんという女性が、祈りと解放のミニストリーを受けるべく、数日間、私たちの所にやって来られました。彼女は、深くオカルトに関わる家族の元で生育し、彼女の名前でさえも、ギリシャの神々の名から命名されているほどでした。最初にAさんが私たちに電話をしてこられた時、彼女は、オカルトによる束縛から解放されようと必死にもがいており、彼女を解放させたくない悪霊たちからの攻撃を受けている状態にありました。

 

彼女を通し、悪霊たちは、私たちスタッフを愚弄し、シッシッという歯擦音を出し続け、自らの正体を顕していました。彼女に対するミニストリーを開始した私たちはすぐに、彼女を苦しめているこの悪霊たちが強力であり、且つ、彼女の中から出ようという意志がないことに気づきました。そこで(私を含めた)二人の専属スタッフが彼女への担当者になりました。彼女をいくつかの祈りに導き、悪霊たちに対峙し、イエスの御名によって彼女から出ていくよう命じた後、彼女はいくらかの安らぎを得たようでした。

 

こうして忘れもしないあの火曜の夜がやって来たのです。それは彼女に対するミニストリーの中でも最も劇的な出来事となりました。他の人々が会堂を去った後も、彼女はその場に残り、祈りを続けていました。と突然、彼女は凶暴な悪霊に憑りつかれたのです。Aさんの表情は激変し、声も変わり、顔はゆがみ、両手はかぎ爪のようになりました。彼女はけたたましく叫び声を上げ、私に襲いかかり、爪で私の顔をえぐろうとしてきました。

 

金切り声を出し叫びながら部屋を走り回る彼女に、私ともう一人の専属スタッフは「イエスの御名によって止まれ!」と宣言しました。するとその瞬間、彼女は何か目に見えない壁のようなものにぶち当たったかのように見え、その後、泣きながら床に倒れ込みました。私たちは彼女の元に駆け寄り、彼女を解放してくださるよう神に請い求めました。

 

私たちはそれまでにも数多くの悪霊の顕現を目の当たりにしてきましたが、Aさんのこの事例はその中でも最も劇的なものでした。今になって当時のあの出来事を回想する時、私にとって最も重要だったのは、あの晩に起こった出来事自体ではなく、むしろ、その翌日に起こった出来事でした。翌日、Aさんの状態はかなり良くなっており、「家に帰る前にぜひお話がしたい」と彼女は私たちに言ってこられました。そして彼女は私にこう言ったのです。「ボブさん。サタンはね、あなたのことをほんとに怖がっていますよ。あなたの持つパワーと権威はすごいのです。

 

あの当時、その言葉、およびその言葉を導き出したあの晩の出来事が自分に意味した事ーー、それは、現在の私の理解とは大きく異なっていいます。なぜでしょう?それは、あの当時、私が持っていた世界観と、現在私が持っている世界観――この二つの異なる世界観の相違に起因しています。

 

当時私が持っていたのは、「霊の戦い」という世界観(“warfare” worldview)であり、現在、私は、「摂理的」世界観(“providential” worldview)を持っています。各種の出来事を私たちがどう解釈するかは、私たちの世界観によって決定されます*1

 

この記事において、私は、①「霊の戦い」世界観、②「摂理的」世界観という、二つそれぞれの世界観の観点から、エクソシズム(悪霊追い出し)について論じていこうと思います。*2

 

「霊の戦い」という世界観におけるエクソシズム(悪霊追い出し)

 

「霊の戦い」という世界観においては、善と悪、そして神とサタンとの間の戦いは、人類の歴史の中において展開され、その結末は不確実である(uncertain;不確定、不確か)と捉えています。ここで言う「不確実」というのは、神が主権的に結末を聖定しておられない、という意味での不確定性です。*3

 

 

Greg A. Boyd, God at War; The Bible & Spiritual Conflict, 1997

 

 

そして霊的束縛の中にある個々人を解放へと導く戦いは、戦闘の仕方を学び、神のための強力な戦士となった信仰者たちによってなされます。

 

「霊の戦い」というこの世界観を持った人々の多数見解によると、国々の運命でさえも、そういった(人間の)霊的戦士たちの手にかかっており、彼らは神の国のために、国々を勝ち取るのです。そして1977年の時点における私の一大希望は、戦場においてサタンの王国を攻略する、そういった強力戦士の一人になることでした。

 

 

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ジョン・ドーソン著『神のために都市を奪回せよ』

 

ですから、そういった文脈において、私は、先ほどの女性の発言を、私自身の霊的躍進を表すしるしだと解釈したのです。27歳にして私は、ーーサタンが自分に投げつけてくるいかなるものに対しても抗戦していくよう整えられたーー強力な戦士になりました。

 

そして、あの出来事によって勢いづいた私は、その後、数年間に渡り、数えきれないほどの傷ついた人々にミニストリーの業をしていきました。実際、彼らの多くは深刻な霊的束縛の下にある人々でした。昼となく夜となく、私は悪霊どもを追い出し、暗闇の諸勢力と全面対決し、悪霊の手中から人々を脱出させる介助をしました。

 

「霊の戦い」の世界観を有している多くのエクソシスト(悪霊追い出し師、祓魔師)教役者たちの見解によると、悪霊が被害者の人間に憑りつく理由は、彼ら悪霊たちが、そうする「権利」を見つけたからなのです。

 

例えば、ある方が何か不明な呪いの下に置かれています。彼ら教役者たちの見解によると、この呪いこそが、悪霊たちに被害者を苦しめる「権利」を与えているのです。有名なエクソシストであるボブ・ローソンは、この働きをどのように見ているのかを次のように説明しています。

 

「数々の呪いは、霊の世界における、厳格にして法的な取り決めです。但し書きや注意深く精巧な言語で書かれた(人間間の)契約書と同様、悪魔的呪いは、多くの場合、精密なる無効手続きを要求する詳細で埋め尽くされているのです。」*4

 

そしてそこから解放されるために、カウンセラーが、呪い言葉の一字一画やその性質について探り出し、その後、その軛を打ち破るべく、「断ち切り」の宣言を形成します。*5

 

「解放のミニストリー」のカウンセラーとして奉仕していた当時、何が悪霊どもを侵入させ、また入口を閉じる権利を与える要因になっているのかを探り出すのは私の役目でした。そして当時私は人々に次のように教えていました。「悪霊たちがそこにとどまる合法的『権利』を見い出したなら、彼らはそこにとどまり続けます。そして仮に彼らが合法的権利を見い出せなかったとしても、悪霊たちはどうにかこうにかして、そこにとどまろうとします。なぜなら、彼らは汚らわしい詐欺師だからです。」

 

このような霊的宇宙観を持っている人々は、この種の戦いが、あらゆる次元においてなされていると見ています。例えば、天界のレベルにおいて、彼らは「預言的とりなし手の軍隊」を招集します。そしてこれらの執り成し人たちが、それぞれの都市や国家の上空を支配する支配者どもの正体を突き止め、縛り、そして投げ落とします。*6

 

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 ピーター・ワグナー著『都市の要塞を砕け!』

 

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 シンディー・ジェイコブズ著『祈りの戦士』(Possessing the Gates of the Enemy; 敵の門を獲得する)

 

こうして戦士たちは、神のために都市を奪回し、霊的支配を取り戻すべく、都市の周辺をプレイヤーウォークします。「霊の戦い」の世界観においては、解放のミニストリーのカウンセラーは、霊的戦場で白兵戦を繰り広げる歩兵です。彼/彼女は、個々人の魂を占拠している暗闇の勢力と戦います。

 

1977年、あの晩の出来事および、サタンの陣営の元にいた例の女性の証言を通し、私は自分がサタンに恐れられているパワフルな戦士であることを知ったのでした。「霊的兵士として、僕は自分の残りの生涯を囚われ人の解放のために注ぎ込みたい」ーーそう強く願いました。エクソシズムは戦いが個人的になる場であり、私はその戦場に召され戦うよう選ばれたのです。

 

カウンセリング・ミニストリーを向上させるべく、その後も私は引き続き、自分よりもこの分野で経験豊かな人々の著作を読み勉強しました。そしてこの学びを通し、いかにして悪霊たちが働くのかについての私の理解は増し加わりました。しかしながら、私がカウンセリングをした多くの人々は、数多くのエクソシズムのセッションを受講しながらも、引き続き悪霊と葛藤しておられました。どうしてだろう?私は悩み、考え、微調整しつつ、さらなる戦略を練っていきました。

 

戦いというのはそう容易に勝利できるものではありません。戦場においては常に後退があります。実際、当時私が行なっていた教えのいくつかは非常に聖書的なものでした。例えば、悔い改め、赦し、御言葉の学び、キリストのからだとの正しい関係等です。また、私のカウンセリングの中には、人々が自らの生活の中で懸命な選択ができるように助けることも含まれていました。

 

この年月の間、私は地域のほとんどの精神病院の閉鎖病棟の中にいる人々を訪問していました。本当に数えきれないほどの苦しむ人々にミニストリーの働きをしていたため、ある大きな閉鎖病棟を訪問した時など、その中にいた3人はすでに私のなじみの患者であったほどです。

 

秘密の霊的法則

 

前述しましたように、カウンセリングを進める内、私は同じ人々が引き続き同じ種類の諸問題を抱えている事実に気づくようになりました。そこで自分の手法を微調整する上で、ある有名なクリスチャンの著作を読んだのですが、その中で彼はその教えを、「神聖なる啓示によって受けた」と言っていました。

 

それによると、霊の世界を統治する霊的法則というのが存在するとのことでした。そしてその中の一つが「受動性」に関するものでした。彼によれば、ある人が受動的意志の持ち主だと、悪霊たちがその人の中に入り込み、彼を占拠することができるのです。*7

 

そしてその後、長い間、私は彼のこの説を信じ、自分のカウンセリングの中にこの「真理」を採用していました。ーーなるほどこの「受動性」というのが理由で、人々は繰り返しサタンの束縛下に戻ってしまうのだと。そして私は人々の受動的な意志を強化するための手法をいろいろと考案し、それにより、何とか彼らがもう二度と悪霊の影響下に置かれることがないよう試みていました。しかし今、私は当時自分がやっていたことが妥当であったとはもう考えていません。

 

こういったタイプの教えは今も盛況です。ボブ・ローソンは次のように書いています。「人のアイデンティティーの核の部分が強い意志であるなら、その人が何をしたにしても、悪霊がその人を占拠することはより困難になります。」*8

 

こういった構想においては、人間の意志というのが肝心かなめなものになってきます。「悪霊に縛られている人々に私はいつも言うんです。『悪魔に支配されていないあなたの意志のその小さな部分に訴えなさい』と。」*9

 

しかし私が直面した問題というのは次のものでした。つまり、いわゆる「受動的な」人々というのは、生来的に強い意志の持ち主ではなく、どんなプロセスを経過させても、その事実は変わらないということでした。この人々は、引き続き、悪霊たちに抑圧されているように感じ、その「受動性」を克服できない自分たちの無能を嘆いていました。

 

その当時私は気づいていなかったのですが、そのような人々に、「意志を強くしなければなりません」と説くことは事態をより悪化させることに他ならなかったのです。「霊の戦い」の世界観により、その時私はすでに、道をかなり踏み外してしまっていたため、御言葉の最もシンプルな言明が見えなくなっていました。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように・・・人間に信頼する者は、、のろわれよ。」(エレミヤ17:5、7参)。

 

私が当時教えていた理論では、この宇宙を支配している「霊的法則」において、受動的意志の持ち主は(たといその人がクリスチャンであっても)悪霊の支配下に置かれる可能性がありました。ですから解放され続けるために、その人は強い意志を獲得しなければなりません。そしてその人が十分に強い意志を獲得しない限り、彼は自由と解放を得るべく神に信頼することができません。実に、彼に十分に強い意志がなければ、神の御手は、ご自身の造られた霊的法則によって縛られているからです。*10

 

ボブ・ローソンは言います。「被害者の『意志』こそ、エクソシズムの戦いがなされる霊的戦場です。それに対するほんの少しの躊躇心でさえも敗北につながる恐れがあります。」*11

 

それでは、私たちの希望はどこにあるのでしょう?私たち自身の意志にあるのでしょうか?ローソンは自分の担当したクライアントの一人について次のように言っています。「何が起こったかという事を認めようとしなかった最初のあの意志により、悪霊たちは彼女の内にとどまり続ける法的地盤を得たのです。」*12

 

そうなると当然のことながら、この宇宙における霊的諸協定(*悪霊たちはその協定下に立ち働いているとされています)および適用される諸法則が何であるかを探り当ててくれる霊的「弁護士」の存在が必要となってきます。

 

「霊の戦い」の世界観の中では、戦いは「人間たち」VS「悪しき諸霊」の間で繰り広げられています。そしてこの戦いにおいて人間側はかなり不利な立場に置かれています。なぜなら、悪霊たちは何千年もの間、この霊界を舵取りしてきたのであり、しかも、(私たち人間ではなく)彼らだけがすべての「諸法則」を知っているからです。

 

ですから、エクソシスト(祓魔師)は、必要な情報を得、悪霊自身の諸法則に従って彼らを打倒すべく、悪霊たちに直接尋ねなければなりません。ボブ・ローソンは、「告白しないのなら、御使いたちによって懲罰を受け、地獄に送られるぞ」と悪霊たちに脅しをかけながら、彼らに強いて真実を言わせようとしました。(私自身は当時でさえも、こういう戦略のことは考えてみたことがありませんでした。)

 

とにかく、そうした上で、ローソンは、クライアントを解放に至らせるために彼が知る必要のある情報を悪霊から聞き出します。そして同じく悪霊追い出しのミニストリーをしている同労者たちに次のような助言をしています。

 

「悪霊たちに訊問をかけている間に引き出した情報を記録する人を指名すべきです。そして、被害者の中にあるデモニックな体系の内的構造が明らかにされる際には、各種悪霊をそのランクごとに記載し、彼らが侵入した時の権利と状況について記載し、彼らがとどまり続けている法的地盤について書き記しなさい。」*13

 

それでは、訊問によって悪霊たちから引き出した情報が信憑性に足りる情報であるのか否かを、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか?ーーローソンはこう言います。「悪霊たちはやむを得ずこれらの情報を私たちに提供せざるを得ないのです。なぜなら、彼らはイエスの御名および主の権威に従わなければならないからです。」*14

 

「霊の戦い」の世界観を信じていた時分、私は自分のやっている事は正しいと信じていました。なぜなら、自らを顕現させる悪霊のリアリティーは実に生々しいものであり、人々は実際、イエスの御名によって解放されていたからです。またセッション受講後、かなり状況が改善され、また状態が良くなった方々が大勢いました。私たちの所に来た当初、本当に悲惨な状態であった方々が、セッション受講を終え、愛と自由のうちに家路に着いていきました。ですから、私は心底、これらの人々が私たちのミニストリーによって助けを受けていると信じていたのです。また私はボブ・ローソンや彼に類似する人々の誠実さを疑っていませんし、そこで証されている事のリアリティーを疑ってもおりません。

 

私がここで問うているのは、彼らの行なっているミニストリーの根底に横たわっている世界観がはたして聖書的なのかそうではないのか、ということです。

 

悪霊およびサタンのヒエラルキーの各レベルを統治する、目に見えない法的世界が存在し、そしてサタンに打ち勝つべく、私たちはそれらの階層構造を是が非でも発見し、その情報を引き出さなければならない、というのは本当でしょうか?悪霊の捕囚になっている人々を解放に導くべく、私たちにはこういった知識を持つ、特別に訓練されたエクソシストが必要であるというのは本当でしょうか?

 

私はその後、自分がやっていた事の基盤を提供していた諸前提それ自体に疑問を抱くようになり、そこから自分のミニストリーに根本的な変化が訪れたのですが、そのことについてはまた後ほどお話したいと思います。

 

秘密の知識と解放

 

「霊の戦い」の世界観を持つ人々は、サタンおよびサタンの使節、そして彼らの階層構造についての知識は、戦いに勝利する上で肝要であると言っています。彼らによると、これは、国々の上に君臨している暗闇の主権者たちとの戦いに始まり、個々人の中から悪霊を追い出すことに至るまで、あらゆる次元において真だとされています。

 

例えば、私がこの運動に関わっていた時のことですが、私たちはミネソタ州のある郊外の場所に教会用の建物を購入しようとしていました。しかし購入に当たっていろいろと困難があり、そのため、私たちはある晩、徹夜でのとりなし祈祷会を開くことにしました。深夜、ある人に啓示が与えられ、それによると、「マニトゥー」という名の霊の支配者が、この都市を支配しており、そのために私たちの購入プロセスが妨害されているのだと聞かされました。

 

(啓示を受けたこの兄弟によると)「マニトゥー」という支配者がこの都市を支配するようになったのは、かつてある時期に、この地域で、アメリカ先住民たちが宗教儀式を執り行っていたからだということでした。そこで、祈祷会を導いていたリーダーたちの指導により、私たちは、この都市の上空に君臨しているマニトゥーの霊を投げ落とす必要があり、そうした上で私たちは神に建物購入のことを求めることができると言われました。

 

その後、実際、私たちは無事にその建物を購入することができたのですが、その購入は、私たちの祈りの有効性の何よりの「裏づけ」とみなされました。そしてそれにより、ますます「都市の上に君臨している霊の支配者たちを投げ落とすべく、自分たちは特別な啓示を必要としているのだ」という考えが私たちの中で強化されていきました。

 

 

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ピーター・ワグナー著『地域を支配する霊』

 

ある人が「霊の戦い」の世界観を持つようになると、こういった実践がますます理に適ったものであると本人の内での認識が進んでいくようになります。私たちが成し遂げたいと願っているものは全て、さまざまな呪い、悪霊、支配者たち、そして霊界を支配している法的見地との複雑な相互作用に関連しているのです。

 

実際、この領域内で機能していない事象など私たちの生活に一つもないのです。個人的エクソシズムは戦いのミクロレベルに属するものであり、都市や国々の霊的奪回はマクロレベルのものです。

 

そして、各レベルにおいて、あなたが戦いに勝利したいのなら、知識を獲得することが必須となります。ここで必要とされる知識は大概の場合、悪霊や支配者たちの名前や、具体的な呪いの種類・その性質、またサタンの王国における霊的ヒエラルキー構造などです。ボブ・ローソンは、悪霊の一つが他のミッションで留守にしていて、クライアントへのセッション中、(その悪霊が)不在だった時にエクソシズムを実行したことを述べています。*15

 

ローソンは、こういった悪霊たちを「締め出す」方法を体得していきました。彼は言います。「もしもセッションを時期尚早に止めていたら、私はこの霊について決して知ることはなかっただろうし、彼は後に戻ってきていたに違いありません。」*16

 

「それでは、この『霊の戦い』の世界観の中で、神は一体どんな役割をはたしておられるのでしょうか?」とお尋ねになる方がいるかもしれません。この世界観の中では、神は戦うよう私たちを任命し、戦いのために装備をさせ、戦いに必要な道具を私たちに提供されます。そして神はエクソシストに、戦いのための知識と力を与えられます。

 

しかし、悪霊を追い出すための道具箱を使うか否かはエクソシスト次第です。エクソシストは道具を適切に使うことができなければならず、そうでなければ、悪霊たちはとどまり続けます。「なぜ悪霊たちが繰り返しクライアントの元に戻ってき続けるのでしょうか?」という牧師の質問に答え、ローソンは次のように説明しています。

 

「あなたは未だ、門番の悪霊を突き止めたことがないのでしょう。これまであなたがどれだけ多くの悪霊を追い出したのかは関係ありません。なぜなら、(あなたの知らない)門番の悪霊が、追い出された悪霊たちが再び戻ってこられるように門を開けたままにしているからです。」*17

 

ですから、悪霊たちの配置や位置は、エクソシストの持つ知識や能力いかんにかかっているわけです。そしてもしもエクソシストが万事を適切に執り行えたら、彼らは悪霊たちに穴(地獄)に行くよう命じる権利を主張できるとローソンは述べています。

 

ここで覚えておかねばならないことがあります。「霊の戦い」の世界観によると、効果的な霊的戦いをするために必要とされる情報は、明かされていないのです。つまり、それは神の特別啓示(聖書)に見い出されず、一般啓示(私たちの自然的感覚や理性を使い、被造物について正当に知り得ること)の内にも見い出されない種類の情報だということです。*18

 

ピーター・ワグナー著『天の女王との戦い』

 

ここで必要とされているのは、隠された秘密の知識(ギ:gnosis)です。神は、国々や諸都市、あるいは悪霊に憑かれた個々人を支配している悪霊の名前を明かしてはおられません。

 

そういった情報を手に入れることができる唯一の情報源は、特別啓示・一般啓示以外のタイプの啓示(聖書的啓示以外の啓示、もしくは悪霊たち自身から引き出した啓示)ということになります。

 

この世界観をもつ人々は、この知識を獲得し、それを戦いの中で用いるのが自分たちの役割であると信じています。この知識は「隠された秘密」のものですから、それはオカルトの領域に属します。ですから彼らは、悪霊に憑かれた犠牲者を助けるという大義名分の下に、このように禁じられた知識を得ていることを正当化しなければならない必要に迫られます。

 

 

霊的「専門部隊」

 

地元の町に、「専門部隊」という名の会社があります。この会社は、コンピューターの故障を取り扱う業務をしており、社員を家庭やビジネスの場に派遣しています。彼らはコンピューター知識に非常にたけており、ソフトウェアであれハードウェアであれ迅速に問題解決に取り組んでくれます。

 

なぜ彼らはこうも有能なのでしょうか?それは人間がコンピューターを造り出したからです。それで詳細マニュアルも可能となります。換言しますと、コンピューターは人間の創作であるがゆえに、コンピューターについての完全な知識習得は可能なのです。

 

「霊の戦い」の世界観の抱える問題は、この世界観が、魂のための「専門部隊」の必要性を生み出してしまったことにあります。個人に影響を及ぼしている悪霊や呪いについての詳細理解が必須とされるだけではなく、人間の魂についての詳細理解も必須とされます。

 

こうして、個人の魂に影響を及ぼしている各種霊的要素と、その人の魂の性質・性向との間に存在する複雑な関係が、適切な「修理」を施すことのできる熟練した霊的「テクニシャン(専門家)」によって識別され、この専門家によって診断が下されなければならなくなりました。コンピューターも複雑ですが、人間の魂や霊的世界のことに比べると、それらは指数関数的にずっと単純です。

 

例えば、ボブ・ローソンは、霊的束縛の下にあるBさんについて次のように説明しています。それによると、Bさんには、悪魔による束縛だけでなく、数多くの「多重人格(“alters”)」があります。解離性同一性障害を持つこの方には、「門番」と呼ばれる悪霊が憑いており、この門番は、追い出された他の悪霊たちがまた戻ってこられるよう門を開けたままにしています。*19

 

ローソンはさらに、そういった同一性障害の諸原因について述べつつ、いかにして、自分がこの人の中にいる異なる人格それぞれに話しかける方法を体得していったのかについて語っています。*20 また、彼は「進行役」「取締役」と呼ばれている別人格たちのことについても述べ、この人の中で、悪霊たちは「複数人格」を取得することができたと言い、次のように説明しています。*21

 

「多重人格という領域においては、そこに良い人格たちと悪い人格たちがいます。良い人格たちとは、その人の良心の一部であり、キリストを救い主として受け入れています。他方、悪い人格たちは、そういった霊的明け渡しを拒んでいるのです。」*22

 

こういった複雑な状況により、このタスクは霊的テクニシャンの手に委託されます。「私たちのタスクは、良い人格たちの援助を得るべく、この迷路をかき分け調べることです。そうした後、私たちは悪い人格たちを神の元に勝ち取ることができるようになるのです。」*23

 

その後、ローソンは多重人格者のクライアントの別人格に話しかけ、「彼」の助けにより、「暗闇の人々」の正体を突き止め、この人の内部にいる各種悪霊と、複数の「人格たち」とをより分け分類するという途方もなく煩雑なタスクに進んでいきました。彼はついに「進行役」をキリストの元に導くことさえしたのです!*24

 

ローソンは、悪霊たちの握っていた法的地盤であった「隠された記憶」も明らかにし、目立たない悪霊たちの名前も突き止めました。*25

 

以下が、被害者が解放を得るために彼が唱えた祈りです。「神の御使いたちが痛みの霊を探り出し、これに拷問を加えることを命じる。私は『苦痛』を悪霊『取締役』と共に縛り、その両者共々、彼らがランダルに加えた苦悶を味わうよう命じる。そして私はこの苦悶を7倍にも増し加える。」*26

 

このプロセスの複雑性は気が遠くなるほどです。いったい自分が、悪霊に語りかけているのか、複数の「人格たち」に語りかけているのか、それとも本人自身に語りかけているのか、どのようにして私たちは確信を持つことができるのでしょう?ある人が一応救われはしたけれど、彼の中の別の人格たちの何人かは未だキリストを受け入れておらず、そのため、彼らも救われる必要があるということを私たちはどのように知ることができるのでしょうか?

 

私たちには本当に、(彼らを追い出すべく)悪霊たちに拷問を加えるよう、御使いたちに命令を出す権威があるのでしょうか?ここで問題とされるのは、ローソンが描写している複雑性というのが、実際にはむしろ、人間の魂の束縛という複雑性に対する彼の「過小評価」にあると私はみています。

 

究極的な意味で成功を収めている(魂のための)「専門部隊」が存在しない理由は、前述したコンピューターと人間との間の相違に見い出されます。コンピューターが人間の創作品であるのに対し、人間は神の創作品です。ただ唯一神だけが人の心のことを真にご存知であられます。そしてただ神だけが霊界の詳細および、霊界と人間の魂との相互作用についてご存知です。

 

そしてなぜ(人間の)霊的テクニシャンが、内なる人の諸問題を解決することができないのか聖書は次のように説明しています。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。主であるわたしは心を探り、思いを試みる」(エレミヤ17:9、10a)。

 

実に神のみが人の心のことをご存知であるという主張は聖書の至る所に見い出されます。*27「霊の戦い」の世界観を持っている人々は、人間の魂を複雑な霊的・心理学的苦悶状況から解き放つことのできる霊的テクニシャンの幹部候補生を訓練する差し迫った必要性を感じています。

 

こういったテクニシャンはーー彼らがどんな名称で呼ばれようともーー、聖書に啓示されていないテクニックや知識に依拠しなければなりません。さらに、彼らは人間の魂、隠れた呪いの数々、忘却の内にある記憶、悪霊、悪霊の名前、悪霊たちの相関関係、魂の内部にいる別の人格たちの相関関係、悪霊たちと別の人格たちの相関関係等についての情報を取得しなければなりません。こういった全てのことはおそらく、氷山の一角に過ぎないのでしょう。

 

魂のための「専門部隊」には、いわゆる解析調査の機能はなく、魂の生成過程を表した詳細記録もなく、魂と霊界を調査するための客観的ツールもありません。

 

それだけでなく、彼らが情報を引き出すために意思疎通している霊界実体たちは、少なくとも一つの点で、彼らの大将であるサタンと同じ属性を共有しています。ーーそれは、彼らが嘘つきだという事実です。しかしそれでも、霊の戦いの世界観にいる祭司たちは、悪霊たちから機密情報を引き出すことをやめようとはしません。例えば、ローソンは次のような話をしています。

 

「一歩一歩と私は敵を追いつめていき、ついに彼は抵抗できなくなりました。彼の破滅が宣言される寸前、この悪霊はいぶかしげに私を見、こう尋ねました。『誰がお前に諸法則を教えたのか?』『どういう意味だ?』私は問い返しました。『われわれができる事とできない事を制定している霊的法則のことだ。きっと、われわれの仲間の誰かがお前に機密情報を漏らしたはずだ。お前のようにこれらの法則に通じた人は今まで会ったことがないからだ。』」*28

 

もしもこの世界観が正しく、こういったテクニカルな「祭司職」の言う主張が正しいのなら、私たちは皆、一人として例外なく、明確な出口のない八方塞がりの深刻な状況に陥ってしまうことになります。

 

私たちは何年越しで、こういった悪霊たちにインタビューし続け、隠された霊界の「法則」を発見しなければなりません。なぜなら、悪霊たちを取り扱う上で必要な情報は、聖書に啓示されておらず、一般のいかなる手段によってもアクセスできないような種類のものだからです。

 

私の場合で言いますと、この世界観を軌道に乗らせるべく、何とか詳細部分を微調整しようと努力してきましたが、ついに燃料が切れ、力尽きてしまいました。そしてその時、悟ったのです。「私に必要なのは、微調整ではなく、世界観の抜本的転換である」と。そしてこの転換により、私は霊的テクニシャンから福音伝道者へと変えられたのです。これから、その変化がどのようにして自分に訪れたのかお話したいと思います。

 

摂理的世界観への転換

 

サタンが私の事を恐れているという事実を知ってから二年後のことです。私は昼となく夜となく続くミニストリー奉仕の中でほとんど燃え尽き寸前の状態にありました。深夜にも問題を抱えた方々からの電話が続き、数多くのクライアントに対する霊的重荷(責務)も大変なものでした。また幾人かの人々は絶え間なく、私の助けを必要としていました。非常に問題を抱えた個人が、カウンセラーの精神的・霊的エネルギーを搾り取ってしまうことさえあります。当時、私は毎週、そういった人々を15人近くお世話していました。

 

その頃、その中の一人が瀬戸際まで行こうとしていました。彼女は深夜、夫と子供たちを家にほっぽり出し、一人で夜の街に駆り出し、男たちとバーで会っていたのです。彼女はこれまで私たちの提供するさまざまなミニストリーを受講してきました。彼女の夫も切羽詰まり、「あなたの助けを必要としています。このままでは妻は私と子ども達の人生を滅茶苦茶にしてしまいます」と助けを求める電話をしてこられました。

 

ある日、深夜の3時に、この女性から電話がありました。彼女は電話口で私を責め立て、「私の問題が解決されないのは、あんたが出来損ないのカウンセラーだからだ」とまくしたてました。その時、私は「ああ、もう自分には無理だ」と思いました。そして神に向かってこう叫んだのです。

 

「ああ主よ、私は本当にこの女性や他の皆さんを助けたいのです。私はこれまで彼女のために祈り、セッションをなし、彼女の家族を具体的な方法で助け、悪霊を追い出してきました。本当に自分にできる限りの最善を尽くしてきました。でももう駄目です。どうしたらよいのか、どうか私に答えをください・・もう私はこのミニストリーにこれ以上とどまることはできないように思います。」

 

その祈りに対する回答は、御言葉の形をとってやって来ました。そしてその日を境に、私の人生とミニストリーは変えられたのです。その時には分からなかったのですが、その日わが身に起こったことは、「霊の戦い」の世界観から、摂理的世界観への回心だったということが後で分かりました。*29 主が私の心に送ってくださった御言葉は次の箇所でした。

 

「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう」(2テモテ2:24-26)。

 

まず私の心に留まったのは、人々の陥っていた束縛状態に対する描写でした。「悪魔に捕えられてその欲するままになっていても。」これ以上ひどい束縛状態はないなあと私は思いました。そしてこの描写は、私を窮地に追いつめ、自分のやっている全てに問いを抱かせるきっかけとなった例の女性の束縛状態とまさに一致していました。

 

二番目に心に留まったのは、この節がどれほど自分の状況に適用可能かということでした。パウロはここで、教会内にいて深刻な問題を抱え、しかもテモテに対し問題行動を起こしている人々をいかに取り扱うべきなのかについてテモテに語っています。自分が置かれていた状況もまさにこれと同じでした。

 

後になって、「霊の戦い」の世界観に影響されることなく、もっと客観的に聖書を読めるようになった頃、私はここの箇所がサタンの束縛下にある教会内の人々についての取扱いのことを語っている鍵聖句であることに気づきました。

 

エクソシズムの働きをしていた時分、その働きをバックアップするために私が引用していた箇所のほとんどは、(イエス・キリストの十字架による死と復活、そしてペンテコステにおける聖霊降臨によって生まれた新約教会が誕生する前の)福音書からの記述か、もしくは(使徒たちが悪霊に憑かれた未信者の人々に対峙している場面である)使徒の働きからの記述でした。実際、エクソシズム(悪霊追い出し)というのは新生したクリスチャンたちのためのセラピーとして新約聖書では用いられていないことに私は気づきました。

 

三番目に私がこの節から学んだのは、脱出の方法についてでした。そしてこの事に気づかされたことにより、私はついに「霊の戦い」の世界観を離脱し、摂理的世界観へと導かれていくことになりました。サタンに束縛されている人々は、神が彼らに悔い改めの心をお与えになってはじめてそこから脱出できるのです!初めてこの節を読んだ時、私はショックを受けました。というのも、聖書に「おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて("God may perhaps grant them repentance" ESV訳)」と実際書いてあったのですから!

 

以前私が持っていた見解では、もしも人の内に変化が起こらないなら、それは、

①私が駄目なカウンセラーであるから。(だから何かもっとより良いカウンセリング手法を開発した方がいい。)

②その人が私の出す処方箋(霊的指導)に従っておらず、そのためさらに悪質な七つの霊をおびき寄せてしまったからだ、と考えていました。

 

こうして私たちは堂々巡りをしながら、一体どちらのケースがこの人の場合に当てはまるのかを模索・検討していました。しかしついに私はみたのです。ーーもしも神が彼らに悔い改めの心をお与えになるのなら、彼らは悪霊から逃れる。そしてもしも神がそうされないのなら、彼らはそこから逃れることはないということを。これが鍵でした。それではなぜ、あるケースにおいて神はそうされ、別の諸ケースにおいて神はそうされないのでしょうか。聖書には、それは私たち人間の知り得ない、神の隠れた聖意図に属する部分であることが記されています(申命記29:29)。

 

そして私という人間側からは、神がその人に悔い改めの心をお与えになるのか知り得ないのですが、それはまた言ってみれば、いかなる事例であっても、(それが聖意図なら)それは常に可能であるということを意味しているわけです。この発見は私にとっての励ましとなりました。そしてこの励ましが四番目の学びへとつながっていったのです。それは、いかにしてそういった個々人に対し、カウンセリングしていけばいいのかという事についてでした。パウロはこう書いています。「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。2テモテ2:24-25a」

 

私はかつて、他の3人の長老たちと共に、深夜の2時頃までミニストリーに尽力し、悪霊に憑かれ、金切声を上げ、身もだえする人々に対し、声の限り叫んでいました。「卑劣な霊よ。イエスの御名にとってお前に命じる。彼の元から出ていけ!」と。しかし後になって私は思ったのです。「こういった自分の行為は、『柔和に教え、正しなさい』というところからなんとかけ離れていることだろう。」

 

神が人々をサタンの束縛から解放する手段は福音そのものであり、そして福音が含意するすべてのものであることに気づかされて以来、私は忍耐をもって真理を教えることができるようになりましたーー神がその真理を用いて人々の人生を変えることができるということに信頼しつつです。そうです。実に神は、福音の力により、最も深刻な形で悪霊に憑りつかれた罪びとをも、サタンの手中から解放することがおできになるのです。(コロサイ1:13、エペソ2:1-5参照)。

 

また、自分がカウンセリングしていた方々は皆、「自分は信仰を持つクリスチャンです」と告白しており、且つ、彼らは未だに束縛の中にありました。そこから私は、次のような間違った考え方をするようになっていったのです。つまり、「何か特別なテクニックやプロセスが追加されない限り、福音というのは、ただそれだけでは人々を暗闇から解放に至らしめることはできない」と。しかし今私は、徹頭徹尾、福音の力を信じています。

 

福音真理の偉大さは、夜中の3時にクライアントの方が異常行動を起こしている時にも、それ以外の時にも、常にその真理が伝播され得るということです。こうして私は、悪霊追い出しのために、夜中であろうが深夜であろうがとにかく是が非でもクライアントの所に駈けつけなければならないという責務感から解放されました。

 

そして先述の(夜中にバーに繰り出していくようになった)女性に対する私の助言にも変化が起りました。私は彼女に、悔い改めの必要を説き、神を信頼し、主の恵みによって神に従うよう指導し始めたのです。自分の家族をほっぽり出し、酩酊の生活を送るのは罪なのです。

 

彼女は結局、夫を離縁し、その後20年間、年毎にひどい状況に陥っていきました。しかし、それは私の責任ではないということを私は知っています。彼女は福音を受容するか、あるいは束縛の中に生きるかのどちらかです。そしてそこに、人間の魂を修繕するいわゆるプラン "B" なるものは存在しないのです。彼女は今日でも悔い改め、悪魔の手中から脱出するかもしれません。しかし仮に彼女がそうするとしたにしても、それは福音を通した神の恵みによるものであって、霊的「専門部隊」を通してのものではありません。

 

 

それではこれまでの自分の経験をどのように評価すればよいのか?

 

今私は、神が、ご自身の創造された宇宙において、(あらゆる邪悪な霊的権勢をも含めた)全てを主権的に統治しておられることを信じています。サタンはただ、神が彼に許容した範囲内でしか事を行なうことができません。自由/解放と束縛、祝福と呪いの間の問題は、こういった見地からみた場合、明瞭かつシンプルです。そしてそれは、詰まるところ、福音を通した個々人の神との関係の有無に帰結します。聖書にはこう記されています。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように、、、人間に信頼する者はのろわれよ」(エレミヤ17:5-8参)。

 

霊的テクニシャンを呼んで、彼に魂および魂に影響を及ぼしている諸霊を操作してもらうというのは、たといそのプロセスにどれほどクリスチャン用語がちりばめられていたとしても、それは結局「人間に信頼する」行為に相当すると現在の私は考えています。

 

アグネス・サンフォード*30著『大地のいやし』

 

また、かつて自分が解放のミニストリーの教役者であった時にわが身に起こったことは非常にリアルだったと今でも考えています。確かにそこには疑いようのない形で諸悪霊が関与していました。

 

この記事の初めの方で、私は自分の顔を爪で引っ掻こうとした(悪霊に憑かれた)女性のことをお話しましたが、現在の私は、あの時の出来事を違った風に解釈しています。あの時、私は自分に非常な霊的権威が与えられており、サタンがそれに脅威を感じているということを知り、激励され、またそのことを喜びました。

 

そしてこう思ったのです。「痛み傷ついている多くの方々が、解放のミニストリーにおける私のこういった経験をたしかに必要としておられるのだ。」そしてその感覚に従い、次に続く数年もの間、私は昼といわず夜といわず、クリスチャンを悩まし苦しめている暗闇の勢力とひたすら戦い続けたのでした。

 

しかし今、私はその同じ出来事を全く異なる光の下に見ています。ーーあの出来事は、私を初めとする関係者たちに、福音を通し神のみに信頼を置く代わりに、人間に信頼を置かせるべくサタンが仕組んだ迫真迫るショーだったと。

 

でもあの当時、そのことを見極めるのは非常に困難でした。そして確かに、自分がやっているミニストリーのことをサタンは「怖がっているのだ」と私に信じ込ませるに当たり、サタンにはサタン側のまっとうな理由(企て)があったのです。なぜなら、そう信じることにより、私はいつの間にか、「福音ではなく、(私のような)解放のミニストリーの教役者たちが、人々を暗闇の勢力から解放しているのだ」と考えるようになってしまい、それにより、福音に対する私の信頼が弱められる結果を生じさせていたからです。

 

サタンによるゆすり行為

 

束縛と解放のプロセスは、残酷な霊的 "protection racket"(暴力団が保証金を取り立てる行為、ゆすり)に酷似しています。悪魔はゲームの両端にスタンバイしており、片方の殺し屋たちがあなたを脅迫しており、もう片方の殺し屋たちはお金欲しさに彼らからあなたを守ろうとしています。

 

サタンはありとあらゆる手段を行使しつつ、人々が、あからさまなオカルト主義やその他の方法を通し悪魔の束縛下に入るよう工作しています。そうした上で、サタンは、「霊の戦い」の世界観をもった人々の所へ行き、彼らの非聖書的な教えや実践こそが解放のための鍵であると吹き込みます。しかしゲームのどちらの端も、結局はサタンの目的行使のために一役買うことになるのです。しかもサタンは、非常に説得力のある、迫真に迫るショーを私たちの前に演出することにより、それがまさしく本当にリアルであると私たちを説得します。

 

サタンは自分の陣営にいる悪霊の一人を派遣し、「いかにして悪霊たちが被害者を悩まし苦しめているのか」ということに関する《情報(“secrets”)》をクリスチャン・カウンセラーに提供します。

 

そしてなぜ「御使いたちによって地獄の穴で苦しめられるのだぞ」という脅しに悪霊たちは反応するのでしょうか?そこにはいたってシンプルな理由が存在します。サタンは、ーー神ではなくーークリスチャン・カウンセラーたちが御使いたちや権勢に裁きを下す力を持っているのだということをクリスチャンに信じ込ませたいのです。*31

 

そしてこれにより、私たちは神のようになれるという「嘘」を促進しようとしているサタンの企図は助長されます。こうして、本来は神にしか与えられていない力をわれわれも持っているのだと私たちは考えるようになっていきます。

 

例えば、サタンが自分のことを恐れていると聞かされた時、私はそれを真に受け信じ、その結果、私はサタンの嘘を受け入れ、福音の真理に対する信頼が弱められました。ですから大切なのは、サタンが私たちの力や権威に恐れを感じているのか否かではなく、私たちが真に神を畏れ、福音を通し神の審判を逃れるか否かなのです。

 

あの女性に憑いていた悪霊は、①攻撃を仕掛けました。そしてそれに続いて彼女は、②その悪霊から解放されたわけですが、①も②も共に、サタンのゆすり行為("protection racket")における両端を示しています。

 

彼女を通して、まずサタンは攻撃を仕掛け(脅迫)、そしてその後、私の命令によって引き下がりました(保護)。その結果、私は自分の霊的パワーに、より信頼を置くようになり、福音からずれていきました。

 

「霊の戦い」の世界観は、福音を通しての私たちの希望を劇的に弱めます。この世界観が実質的に言っているのは、十字架でなされたキリストの完成された業を通し神に全き希望と信頼を置くことによってだけでは、サタンや諸悪霊からの解放はなされず、また、この世界観の元では、神が究極的に私たちをキリストのかたちに似た者に変えてくださるということに対する確信も与えてくれません。戦いをする時、もしも私たちの側に、特別な知識(ギ:gnosis)やテクニックにおける欠けがあるとしたら、私たちが為そうとしている事は何であれ、妨害され得るのです。

 

彼らは実質上、福音は潜在的にしか私たちを解放することができないと教えています。この世界観によれば、福音を信じた後、今度は私たちには、《祭司的テクニシャン》という新種階級を構成している専門家たちによる助けが必要だとされています。そうです、私たちには、さまざまな呪いを打ち壊してくれる専門家や、エクソシスト、預言的とりなし手、インナー・ヒーリングの教師、霊的・心理的カウンセラーといった人々が必要だとされています。

 

 

デリック・プリンス「家系の呪いを打ち壊す」*32

 

こういったスペシャリストたちは、魂と神との間の《中間地点》の仲立ちをしています。そして彼らは、一連の「ゆすり劇」において、悪者たちが私たちを打ちのめすのを阻止してくれている「良い」人たちです。

 

そして《中間地点》というのは、私たちの視野からは隠されている秘密の霊界のことです。彼らの見解によれば、私たちの霊的・物質的福利は、いわゆるその《中間世界》で起こっている事によって決定されます。そして彼らは、そこの事情を読み解く秘密を知っており、それによって私たちを自由と繁栄へと導くことができる、とされています。

 

ニール・アンダーソンは、「多くのクリスチャンは、霊的束縛状態に置かれています。なぜなら、彼らは、『排中原理(“excluded middle”)』を持った欠陥ある世界観を有しているからです」と述べています。*33「だから、多くのクリスチャンは、霊の戦いの必要性を見ていないのです。なぜなら、彼らは『西洋的』で、合理主義的な諸前提を持っているからです。」

 

ここでアンダーソンが理解し損なっている(あるいは著書の中で言及し損なっている)ことは何かと言いますと、キリスト教内部には、二つの異なる世界観があり、そのどちらも、諸霊のリアリティーおよびそういった霊が人々に及ぼす影響についての聖書的教えを受け入れているという事実です。アンダーソンは、「霊の戦い」の世界観を推進しており、しかもその世界観のことをただ単に「キリスト教」世界観と呼んでいるのです。*34

 

私がこの事を申し上げるのは、彼が摂理的世界観の見地についての言及をしておらず、また、彼は読者に「解放へのステップ」を提供していますが、そのステップは、聖書の中で提供されている福音および恵みの手段の範囲を超えているからです。*35

 

しかしそうだからといって、私はこういった霊的専門家たちの心の動機を疑っているわけではありません。現に、私自身かつて、こういった専門家の一人だったのです。私は誠心誠意、人々を助けたいと願っていました。昼も夜も、全くの無給で奉仕していました。私は心底、神様にフルにお仕えしたい、神の国の前進のために投身したいと願っていました。本当に当時私は、自分のやっている事の真実性を疑っていなかったのです。しかし、私は騙されていました。そして私自身が騙されていたために、(私のカウンセリングを受けていた)人々を解放するよりはむしろ、これらの方々をさらなる束縛状態に陥らせてしまっていたのです。自らの意図とは裏腹に、私は束縛メーカー("bondage maker")だったのです。

 

例えば、私はかつて、(マタイ12章の間違った解釈をベースに)次のような教えをしていました。ーーある人の中から一旦悪魔が追い出された後、その人が(悪魔再来の戸を開くきっかけを作るような)かつての罪に再び戻るなら、より邪悪な七つの悪霊がその人の内に入ってきますと。*36

 

こういった教えにより、解放を求めておられる方々は束縛の下に置かれるようになります。仮にある人が情欲の霊からの解放を求めてやって来られたとします。しかしその後、情欲の目で女の人を見てしまいました。そうすると、彼は非常にもだえ苦しみ、恐れるのです。なぜなら、今や、彼は自分の犯した行為によって、サタンが彼を苦しめるべく悪霊たちを送る権利を与えてしまったという事を(私の教えを通し)知っているからです。こうして彼はさらなる解放を求め、私たちの元に戻ってきます。

 

こういった種類の教えにより、人々は、自分たちの解放が、「ほとんど何も罪を犯さない生活を送ること」にかかっていると考えるようになります。少しでもまた失敗すると、悪霊たちが戻ってくるからです。実際この教えがいかに、神の恵みではなく人にかかっているのかを見ていただくために、ボブ・ローソンの著作から引用します。彼は次のように言っています。「(ある人々に対して)私は、サタンがもう金輪際彼らに関わりたくないという地点まで、(主の中で)成長するまでは彼らを助けることを拒むことにしています。」*37

 

そうなりますと当然のことながら、あなたが十分に立派なクリスチャンでない限り、あなたの人生には引き続き悪霊がつきまとうことになります。そしてこういった世界観により生み出されるのは、①恐れ、もしくは、②プライド、この二つのどちらかしかなくなります。

 

①恐れ⇒願うような勝利の生活が送れていない。だから私は、悪霊たちが自分の元に戻ってくるのを阻止することができないと考える場合。

②プライド⇒今や私はパワフルで聖いクリスチャンだ。だからサタンは私のことを恐れているし、もはやサタンは私に指一本触れることはできないと考える場合。

 

こういった結果(恐れ/プライド)は、神よりも人間に信頼を置くようになることから生じる実です。

 

結論

 

ここでの主要課題は、各自がそれぞれ根柢に持っている世界観に在ります。「霊の戦い」の世界観は、歴史は、悪霊の権勢と信者たちとの間で繰り広げられている戦いであると主張しています。この見解によると、神は、ーー信者たちが神に許容する範囲内においてーー信者たちを通し働かれます。より良く知識や力を得ていけばいくだけ、信者たちは暗闇の勢力を打破できるようになります。その反対に、もしも、信者たちが霊的戦いのための知識やテクニックに欠けているのなら、彼らは勝利者ではなく、被害者と化してしまいます。この戦いにおいては犠牲者が出、神は結末を保証してはいません。

 

他方、摂理的世界観は、暗闇の諸勢力の上に君臨する神の主権を信じています。暗闇の霊的勢力は、神から許可を得ない限り、決して信者たちに危害を加えることはできません。そして神が彼らに許可する場合、それは最終的に私たちの益とされます。

 

そしてこの世界観において要となるのは、悪の勢力に関する知識ではなく、福音を通した神に関する知識です。そして戦いは、①「人が神のようになれる」と囁くサタンの嘘と、②福音の真理ーーこの二者間の戦いです。

 

「霊の戦い」の世界観を促進している人々は、私たちの選べる選択肢は次の二つしかないと主張しています。

 

選択肢その1)悪霊や、呪い、リアルな悪魔的働きがあるということを信じる世界観。

選択肢その2)霊的な諸働きが存在するということを事実上否定してしまっている『西洋的』世界観。

 

しかしこれは虚偽のジレンマです。皆さん、欺かれてはなりません。事実、摂理的世界観もまた、善い御使いや聖霊の存在と共に、悪霊や堕落天使、呪い、悪の主権者たちや勢力が存在することを信じているのです。

 

ですから真の選択肢は、私たちが、そういった全ての霊的実体やリアリティーの上に君臨している神の主権を信じるのか、それとも、神は、戦いがそれ自体で進行していくことをお許しになっていると信じるのか、です。そして後者の見解を支持している人々は、私たちが適切なテクニックを見つけ、それを用いるなら神はそこにいて私たちを助けてくださるけれども、主権的に私たちを堅持し、栄光に運び入れてくださるとは考えていません。神は結末を聖定しておられるのでしょうか。それとも、結末は、人間や悪霊たちによって決定されるのでしょうか。

 

神は福音を用い、人々を敵対勢力から解放し、そして福音は、罪びとを救うべく、神が永遠の昔より御意図されてきた全てを成就すると私は信じています。実に(福音を)信じる者は「完全に救われ」(ヘブル7:25参)、よって、敵対する霊的諸勢力を恐れる必要はありません。聖書の中に提供されている恵みの手段は、主を知る知識および恵みにおける自由および成長をもたらすものとして十全なのです。

 

他方、「霊の戦い」の世界観を推進している人々はそれとは違った見方を私たちに求めてきます。彼らは、ーー数々の教えやテクニック、霊的解放のステップ等ーー20世紀になって初めて着想されたに過ぎないそういった一連のものが、サタンの束縛から自由になるために私たちに必要なものであるということを私たちに信じ込ませようとしています。

 

となると、これまで2000年余り、過去に生きた聖徒たちは、束縛からの自由なしに生きてきたということになります。なぜなら、彼らが信じていた福音は「不十分」だったからです。そして福音に欠けがあるということを私たちに説得しようとすることにより、彼らは束縛メーカー(bondage maker)になります。かつての私がそうでした。そして御言葉の真理を通し、そのような状況下にいた私を解放してくださった主に感謝を捧げます。

 

ー終わりー

 

*2019年6月27日 追記 

 

*福音主義神学の中における「霊の戦い」の位置づけと考察

霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明

 

*1:訳者注参:ミラード・J・エリクソン著『キリスト教神学』第1巻、第6章p160-161

*2:

  

*3:Greg Boyd, God at War, (Downers Grove: Intervarsity, 1997) 13. グレッグ・ボイド氏は、「霊の戦い」の世界観を次のように定義しています。「広義に言いますと、この世界観は、善/悪、幸/不幸な人生の諸側面は大部分、互いに対し戦い、あるいは私たちに対し戦いを挑んでいる善/悪、友好的/敵対する諸霊の活動の結果として解釈されるのだという確信を軸にした現実への見方だと言えます。」そしてボイド氏が拒絶している世界観のことを、彼は「摂理的青写真の世界観(“providential blueprint worldview”)」と呼んでいます(p.292)。そして悪の諸勢力が、究極的には神のより偉大な諸目的のために用いられるという考えをボイド氏ははっきりと拒絶しています。

〔訳者注〕関連記事

*4:Bob Larson, In the Name of Satan — How the forces of evil work and what you can do to defeat them (Nashville: Nelson, 1996) 109.

*5:同著. 109, 110.

*6:Critical Issues Commentary Issue 48 “The dishonoring of God in Popular Spiritual Warfare teaching”for documentation of these teachings. HTTP://WWW.CICMINISTRY.ORG/COMMENTARY/ISSUE48.HTMを参照。

*7:Watchman Nee, The Spiritual Man Vol. 3, (New York: Christian Fellowship Publishers, 1968 – first published in 1928、日本語訳、ウォッチマン・ニー全集 第1期 第12巻 霊の人) 125. ニーは、「受動性」が、悪霊がクリスチャンに影響を及ぼす鍵となる道だと見なしています。本書の中の「自由への道」という章は、今日広く伝播されている教えに非常に似ています。ニーは、今日そういった教えをしている教師たちにかなり先駆けていたということになります。尚、解放のミニストリーに従事していた時代の私に対するウォッチマン・ニーの影響は甚大なものでした。

*8:Larson, 48.

*9:同著. 80.

*10:Op. Cit. Nee 90.「すべての行動は諸法則によって統治されています・・・誰かが悪霊の働く諸条件を満たすなら(彼が霊媒や口寄せなどにより意図的にそれらの条件を満たしたにしても、クリスチャンとして意図せず満たしたにしても)、その時、彼は確実に悪霊たちが彼の上に働くようになる地盤を提供したことになります。」(p.90)この教えの現代バージョンと同様、これらの諸法則について私たちが知り得る唯一の方法は、ニーの著作の中で提供されているものを初めとする、聖典外の諸啓示を通してです。

*11:Larson 190.

*12:同上

*13:同著 208.

*14:同上

*15:同著.91.

*16:同上

*17:同著. 133.

*18:訳者注新聖書辞典の中の「啓示」に関する項(宇田進師)のまとめをお読みになりたい方はココをクリックしてください。

↓ 現代キリスト教会内の「グノーシス主義的福音」について

参考文献

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Peter Jones, The Gnostic Empire Strikes Back(「グノーシス主義帝国の反撃」), 2008

*19:同上

*20:同著.135-137.

*21:同著.138.

*22:同上

*23:同著.138, 139.

*24:同著.141.

*25:同著.142-144.

*26:同著.142.

*27:例えば、1列王記8:39を考えてみてください。「あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。」それから、詩篇44:21、使徒15:8、1ヨハネ3:20も参照。

*28:Larson, 205.

*29:このプロセスは即座に起こり、それ以後、私は人々にカウンセリングする際、この聖句の教えに倣っています。その後、1986年になり、私は自由意志に関する自分のそれまでのアルミニウス主義見解が非聖書的であったということに気づき、神の包括的主権性を受容しました。そしてこれはローマ書の詳細研究を通してもたらされました。摂理的世界観は、神が常にご自身の宇宙を統治しておられ、ご自身の聖定された目的(の完成)へと宇宙を導いておられるという見方をしています(エペソ1:11)。

*30:訳者注現代キリスト教界のインナー・ヒーリング運動を理解する上で、カール・ユングおよび、ユングの影響を受けているアグネス・サンフォードの教えを検証することは、この問題に正面から向き合う上で避けて通ることのできない事項だと思います。詳しくは以下の記事をご参照ください。

Ed Hird, Carl Jung, Neo-Gnosticism, & MBTI (カール・ユング、ネオ・グノーシス主義、そしてMBTI性格心理テストについて)。それから、こういった一連の問題に関する非常に有益な文書として、私たちの中にある間違い(西九州伝道所・佐々木正明師執筆)を挙げておきます。

*31:福音書の中の出来事が示しているのは、イエスが神であり、最後の審判を行なう方であるということです。「すると突然、彼らは叫んで言った、『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか』」(マタイ8:29)。このような事を行なう力があると主張する人間の教師は誰であれ、神的権限である何かを主張しており、それは「神のようになろう」としていることです。

*32:訳者注「家系の呪い」というこの教えは、教理史的にみますと、1970年代に、主としてカリスマ派内で普及し始め、その後、他の諸教派にも影響が及びました。*「家系の呪い」の教えに関する検証記事:Generational Curses また、ウィリアム・ウッド、パスカル・ズィヴィー著『霊の戦いー虚構と真実』の第2章でも、「家系の呪い」の教えの問題点が取り扱われています。

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*33:Neil T. Anderson, The Bondage Breaker; (Eugene: Harvest House, 2000、日本語訳『鎖を解き放つ主』) 30-33.

*34:同著. 33.

*35:同著. 199-252. こういったステップは、規定の祈り、告白、拒絶、チェックリスト、打ち破られるべき先祖の呪い等を含んでいます。ここでの含意は、ある種のテクニックが適用されない限り、福音は、呪いや悪霊、その他の霊的疾患から私たちを解放できないということになります。

*36:この聖句については次のMP3の中で説明しています。

*37:Op. Cit. Larson, 191.