巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神の世界内在と恩恵―トマス・アクィナス恩恵論の全体像―(桑原 直巳氏)

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「哲学・思想論集」44巻158(1)-142(17) 引用元

 

目次

 

【1】 はじめに


代表的なスコラ神学者と言われるトマス・アクィナスは、キリスト教神学の歴史上、恩
恵論をアリストテレス的な「性向 hexis = habitus」概念の枠組みのもとに展開したことで知られている*1

 

注意すべきなのは「性向」とは人間の霊魂の「性質」(属性)であり、一種の被造物である点である。つまり、性向概念の枠組みのもとに展開されているいわゆる「トマスの恩恵論」と呼ばれているものは、後世のスコラ学者たちが「創造された恩恵 gratia creata」と呼ぶものを指している。


他方、現代カトリック神学の恩恵論では、いわゆる「創造されざる恩恵 gratia
increata」、つまり恩恵を与える神そのものについての言及、たとえば霊魂における神(聖霊、三位一体)の「内住」といったトピックに関心が寄せられている。


しかしながら、トマスの恩恵論は性向概念の枠組みのもとに展開した「恩恵」に尽きる
ものではない。トマスの恩恵論は今日の神学者たちが「創造されざる恩恵」と呼んでいるものをも内に含んでおり、キリスト論的・教会論的な文脈をも含めた人類の普遍的救済への視点を射程に入れる大きな広がりを有している。本稿では、トマスと現代神学との対話を試みるための前提として、トマスの恩恵論を以上の両面に目配りする形で、その広がりの全体構造を概観することとしたい。


【2】 トマスにおける「恩恵 gratia」


『神学大全』における恩恵論の冒頭にあたる S.T.Ⅰ-Ⅱ q.110 a.1 において、トマスは「恩恵」を意味する「gratia」という語について、(1)「或る者の愛 dilectio」、(2)「無償でgratis 与えられた賜物 donum」、(3)「与えられた恩恵への感謝」という三つの用法を区別する。


このうちの(1)、すなわち「愛」との関連で、愛する神そのもの、つまり「創造されざ る恩恵」が語られることになる。人間における愛とは区別された「神の愛 dilectio Dei」は被造物のうちに何らかの善をもたらす。まず、神は「共通的な愛 dilectio communis」にもとづいて、あらゆる被造物に自然本性的存在 esse naturale を与える。他方、神は「特別の愛 dilectio specialis」によって、理性的被造物をその自然本性的条件の限界を超えて神的善の分有へと引きよせる、と言う。


こうした(1)の「神の愛」としての「恩恵」について、トマスは後述するように「神
の世界内在」ないしは「神のペルソナの派遣」という形で論じており、そこでは霊魂に内住するとされる「聖霊」ないしは「三位一体」そのものについても論究されている。他方、性向概念の枠組みのもとに捉えられる「恩恵」とは、このうちの(2)の一部ということになる。続く S.T.Ⅰ-Ⅱ q.110 a.2 において、トマスはこの(2)、すなわち霊魂における「神の恩恵的意志の結果」としての「神の扶助」をさらに二通りに区別する。

 

第一は、「人間の霊魂が行為へと動かされる」という意味であり、この意味においては「恩恵」は霊魂の性質ではなく運動であるとされる。裏を返して言えば、ここに霊魂を直接外部から動かす神そのものの働き、つまり「創造されざる恩恵」が示唆される。

 

第二は、「何らかの性向的賜物が神によって霊魂に注賦される」かぎりにおいて、人間が神の恩恵的意志によって扶助される場合である。人間はそれらの賜物に即して永遠的善に到達するよう神によって動かされることになる。この意味で恩恵の賜物は何らかの性質であるとされる。

 

ここにいわゆる「性向的賜物 donum habituale としての恩恵」を中心とする性向概念の枠組みのもとに捉えられた、いわゆる「トマスの恩恵論」が展開する本稿ではトマスの恩恵論を単に性向概念の枠組みにおける恩恵に限定することなく、「神の世界内在」ないしは「神のペルソナの派遣」をも射程に入れた形で改めてその全貌を概観することとしたい。無論、恩恵におけるこれらの両面は相互に密接に絡み合っているが、ここでは便宜的に両者を分けて概観することとしたい。

 

【3】 性向概念の枠組みにおける恩恵-霊性的倫理

(一)性向的賜物としての恩恵

 

まず、トマスが性向概念の枠組みのもとに展開した「恩恵論」について概観しておく。「性向」という概念は人間の霊魂の「性質」である。つまり、それはあくまでも「人間の在り方」を描写するための装置である。他方、性向的賜物としての恩恵そのもの、そしてそれにかかわる諸々の「性向」が前提するのは何らかの形でキリストと結びついた人間である。したがって、性向概念の枠組みのもとに展開した「恩恵」論は、具体的には「キリスト者の霊的生活」を描写していることになる。

 

まず中心となるのは「性向的賜物 donum habituale としての恩恵」である。トマスはこの性向的賜物としての恩恵を、「霊魂の本質 essentia animae を基体 subjectum とし、これを分有による高次の本性[=神的本性]に向けてこれを完成する」性向として規定している*2

 

そもそも「性向」とはこれを有する「基体」を、それが未確定な関係にあるところのより高次の現実態に向けて秩序づける*3 いわば「補助的形相」である。ここで言う「より高次の現実態」とは、「より高次な本性 natura」、もしくは「活動 operatio」である。霊魂は身体にたいしてはより高次にある「人間的本性」の「形相」として現実態にある。この身体を「基体」として霊魂に対して秩序づけるのがたとえば「健康」という性向である*4

 

他方、「霊魂の諸能力 potentiae animae」、すなわち知性、意志、感覚的欲求能力などは人間的活動という現実態に対して文字通り可能態 potentia の関係にある。これらの諸能力を「基体」とし、それらの能力の現実態である活動に向けて善く秩序づける性向(作用的性向 habitus operativus)が「徳 virtus」*5である。霊魂はそれ自体が人間的自然本性を完成する形相であるので、霊魂のうちに人間的自然本性を完成する性向は不要である。しかし、人間が分有によってより高次の自然本性、すなわち神的本性に与る場面において、霊魂の本質を基体として成立する一種の性向が恩恵、すなわち性向的賜物としての恩恵である。

 

性向的賜物としての恩恵と徳とを比較すると以下のようになる。性向的賜物としての恩恵は「霊魂の本質を基体とし、これを分有による神的本性に向けて秩序づける」性向であるのに対し、徳は「霊魂の能力を基体とし、これを活動に向けて秩序づける」性向である。

 

ここで「霊魂の本質を基体とする」とはいかなる意味であろうか。「霊魂の本質」とはこれをもつ者が生きること、すなわち存在することの根源であり*6、霊魂の能力は活動することの根源である*7。徳が「霊魂の能力を基体とする」とは、徳が霊魂の活動において発動することを意味するのに対して、性向的賜物としての恩恵が「霊魂の本質を基体とする」とは、活動の面においてではなくその存在そのものにおいて霊魂を高める、という意味である。他方、霊魂の諸能力は霊魂の本質を根拠とし、これから流れ出る*8。このことに対応して、注賦的な徳もまた性向的賜物としての恩恵に淵源する*9

 

性向的賜物としての恩恵と徳との間には「性向的賜物としての恩恵は、人間の霊魂を、一切の働きに先立ってその存在において高めるものであるが、働きとの連関で見るかぎりは徳の背後に隠れる」という関係がある。

 

(二)注賦的諸性向の理論

 

さらに、トマスは徳についても「注賦的な徳 virtutes infusae」と「獲得的な徳 virtutes acquisitae」との区別を設けている。トマスはアリストテレスに起源を有する「性向 hexis⦁ habitus」という概念に大幅な拡張を加えている。アリストテレスにあって「性向」、特に本性適合的な「善き性向」である「徳」とは、人間が自ら身につけるもの、すなわち「自らの努力によって変わる」場面を描くための概念であった。これに対して、「注賦的な性向」とは、人間の霊魂が神によって「変えられる」という事態を描くものであった。

 

「獲得的徳」とはアリストテレス的な徳論の構造をそのまま取り入れたものと言ってよい。「徳」は何らかの自然本性への適合性を意味する性向であるが、人間が自らの努力によって獲得する「獲得的徳」はアリストテレス倫理学の射程である「人間的自然本性」を基準とするのに対して、人間的自然本性より高次の本性、すなわち「分有による神的本性」を基準とするのが「注賦的徳」である。

 

獲得的徳は理性の「自然本性的な光のもとで歩むべく」人間を完成するのに対して、注賦的徳は人間が恩恵の光のもとで、いわゆる「神化」 に向けて歩むべく人間を完成する*10。つまり注賦的徳は、具体的にはキリスト者の霊的生活において機能するものである。

 

注賦的徳には「信仰 fides」「希望 spes」「神愛 caritas」といういわゆる「対神徳 virtutes theologicae」、アリストテレス的な獲得的徳である「正義 justitia」「剛毅 fortitudo」「節制temperantia」といった倫理徳と同じ名称の徳が、神的本性の分有というより高い目的と基準のもとに改めて注がれるとされる「注賦的な倫理徳 virtutes morales infusae」がある。

 

これら一連の注賦的徳が、人間が神的本性に与るための道行きを導くこととなる。注賦的徳は、アリストテレス的な獲得的徳とは異なり、人間的な努力により獲得されるのではなく、神から注賦されることにより成立する。

 

さらにトマスの性向論では、「聖霊の賜物 donum Spiritus Sancti」という特殊な性向が示唆されている*11。徳はそれが聖霊の恩恵によって注賦されたものであったとしても、これにもとづく人間的な活動はその当人の活動である。つまり、注賦的徳とは神と人とが協働する場面を描くための概念装置であった。これに対して、「聖霊の賜物」とは「人間が神的霊感によって迅速に動かされるように状態づける」性向、すなわち、人間を動かす外的な根源としての神に霊魂が「自己を明け渡す」ための性向である。

 

以上、その輪郭を描くだけでも一見複雑な構造を持つように見えるトマスによる注賦的諸性向の理論において、トマスは『ローマ書簡』(5:5)においてパウロが「聖霊によって神の愛が注がれる」と述べた使徒的原体験をもとに、聖霊が働いた霊魂の変容の諸相を描写している*12

 

すなわち、聖霊が働くことにより、人間はまずその存在そのものが高められ(性向的賜物としての恩恵)、その結果霊魂の諸能力が人間的自然本性の枠を超えた次元で働くべく強められ(対神徳、注賦的倫理徳)、ついには霊魂が自らを全面的に神(聖霊)に明け渡すところにまで至る(聖霊の賜物)。このようにして、性向的賜物としての恩恵を中心とする注賦的な性向の理論の全体は、トマスがキリスト者の霊的生活の構造を描写するための概念装置なのであった。


【4】 恩恵の結果

 

トマスは恩恵が個人にもたらす結果として、「作働的恩恵 gratia operans」の結果としての「不敬虔な者の義化(justificatio impii「罪人の成義」とも訳される)」と「協働的恩恵 gratia cooperans」の結果としての「功績 meritum」との二つを挙げている*13

 

性向的賜物としての恩恵は、それが霊魂の「存在 esse」に働きかけるかぎりにおいて、つまり、それが霊魂を癒し、あるいは義たらしめ、あるいは神によみされたものたらしめるかぎりにおいて「作働的恩恵」と呼ばれる。そして、それが「協働的恩恵」と呼ばれるのは、それが人間の自由意思から発出する「功績的な業 opus meritorium」の根源として、人間の自由意思と共に働くかぎりにおいてである*14という。


これら二つのことがらは、一人一人の個人がその生活史において神の恩恵と出会う霊的生活の出発点となる「回心」の場面(「作働的恩恵」による「不敬虔な者の義化」)、そして人間が神の恩恵に応答する形で神と共に歩む霊的な生活の場面(「協働的恩恵」による「功績」)とに対応している。


(一)「不敬虔な者の義化」の意義

 

(1)「不敬虔な者の義化」とは何か

 

『ローマ書簡』の中でパウロは次のように述べている。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(『ローマ書簡』3:21-24)

 

「不敬虔な者の義化」とは、ここでパウロが「皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」いる人間が、「イエス・キリストを信じることにより」、「神の恵みにより無償で義とされる」と述べている事態のことを指す。恩恵論の中心がこの「不敬虔な者の義化」に置かれているという事実は、西方キリスト教の特徴であると言える*15。西方キリスト教はここでのパウロの「人は皆、罪を犯した」という言葉に依拠して「原罪 peccatum originale」の理論を教義化し、キリストの受肉の意味、さらにはキリスト教そのものの意義を、「贖罪」、すなわち原罪からの回復という点に中心に置く形で展開してきた。*16

 

「義化 justificatio」という言葉は、「義 justitia への運動」ということを意味するが、トマスにおいては原罪によって損なわれた人間本性の回復を意味している。つまり、ここで言う「義」とは、「行為の正しさ」としての正義というよりは、人間の霊魂の内的状態における秩序、すなわち、人間における最高のものである理性が神に従属し、霊魂のより低い諸能力が理性に従属する、という形で成立する秩序を意味している。

 

原罪以前の人類創造に際して、アダムは「原初の義 justitia originalis」として霊魂におけるこうした秩序を受けていたとされる。「不敬虔な者の義化」とは、少なくとも原罪*17による不義の状態 status injustitiae に置かれた人間が前述の「義」の状態へと向かう何らかの変化 transmutatio を意味し、その意味で不敬虔な者の義化とは「罪の赦し」であることが示される。*18

 

(2)「不敬虔な者の義化」の諸要素

 

不敬虔な者の義化に際して罪の赦しが成立するのは、罪によって取り去られている恩恵が再び注賦される事により、人間に対する神の愛が回復されることによる*19。神が人間の罪を赦すのは、人間に対する神の愛 dilectio による。神の愛は、神的な働きの側から見るかぎり永遠かつ不可変であるが、それが人間の上にもたらす結果に関していえば時として中断されることがある。つまり、人間は時として神の愛から脱落し、時として再びそれを回復する。「恩恵」とは人間のうちに内在する神の愛のかかる結果であり、罪のうちにある人間からは取り去られている。したがって、罪の赦しには恩恵の注賦が不可欠である。

 

しかし、トマスによれば、その際神は「自由意思を有する」という人間の自然本性の条件を尊重する。「義化」とは不敬虔な者であった人間が「恩恵の中へ」つまり神との関係の中に立ち返ることであり、具体的には「回心」と呼ばれる事態を意味する。神は義化に際して、恩恵の注賦と同時に、その賜物を受けることへの受諾へと自由意思を動かす*20。この義化に際しての自由意思の運動は二面的であって、「神へと向かうこと」と「罪から離れること」との二つの側面の受諾を含んでいる。*21

 

不敬虔な者の義化のために自由意思の運動が必要とされるのは、人間の精神が神によって動かされるかぎりにおいてである。しかるに、神は人間の霊魂を、それを御自身へと転向させることによって動かす。そこで、不敬虔な者の義化のためには、それによって人間の精神が神へと転向せしめられるところの、精神の運動が必要とされる。

 

ところで、『ヘブライ書簡』(11:6)の権威「神に近づく者は神が存在しておられることを信じていなければならない」によると、神への第一の転向(回心)prima conversio は信仰によってなされる。したがって、不敬虔な者の義化のためには信仰の運動が必要であるとされる。*22

 

以上から、不敬虔な者の義化のためには次の四つの要素が必要であるとされる。すなわち、「恩恵の注賦」、「信仰による自由意思の神への運動」、「罪を離れる自由意思の運動」、および「罪の赦し」である*23。トマスによれば、不敬虔な者の義化を構成するこれら四つのことがらは時間的継起なしに瞬時に起こる*24

 

つまり、恩恵の注賦という神の側からの動かしと、人間の自由意思による受諾は同時的に起こる。しかし、自然本性の順序によれば、それらの間にあって第一のものは恩恵の注賦であり、第二は神へと向かう自由意思の運動、第三は罪を離れる自由意思の運動であって、第四が罪の赦しである*25という。

 

(二)「不敬虔な者の義化」における信仰の役割

 

不敬虔な者の義化は、根源的には性向的賜物としての恩恵が注賦されることであった。そのかぎりで、「義化」は人間にとっては受動的な事態である。しかし、そこには同時に人間の自由意思の運動があるとされた。それは「信仰」の働きである。そこで、時間的には同時的な「恩恵の注賦」という受動的な事態と、人間の側のいわば能動的な「信仰」の働きとが交錯することになる。両者はいかなる関係にあるのであろうか。

 

(1)「信じる」という行為

 

トマスは、信仰の行為である「信じる credere」ということの意味については、アウグスティヌスの権威に従い、これを「承認を与えつつ思いめぐらすこと cum assensione cogitare」である、と規定している *26。この規定は、一方では「知」としての明証性をもつ「知識 scientia」「知解 intellectus」と、他方では明証性を欠いた「懐疑 dubitatio」「臆見 opinio」等と境を接する「信」の中間的性格を示している。

 

すなわち「信じる者credens」は、「承認 assensio」と「思いめぐらし cogitatio」の両方を持つ。「承認」、つまり「あれかこれか」のうちの一方の側への「確固とした固着adhaesio firma」を含む点で、信じる者は、知っている者、知解する者と合致する。他方、彼の認識は明証性の点で明白な直視によって完成されていないという点で、信じる者は疑う者、臆見をもつ者と合致し、そのかぎりで彼は「思いめぐらす」。

 

彼の認識が明白な直視による「知」としての明証性を有していないにもかかわらず、「承認」がなされるのは、霊魂の全ての能力を動かす意志の働きによる。つまり、信仰における承認は、単なる知性の働きではなく、意志の強い介在による承認なのである。

 

(2)信仰における受動性と自由意思

 

トマスは「信仰」における「信ずべきことがら」に対する承認は信仰者の意志の力によるとしつつも、その承認自体信仰者自身にとってきわめて受動的な性格をもつ*27。トマスによれば、信仰には二つのことが必要とされる。その一つは人間に対して信ずべきことがら credibilia が提示されることであり、もう一つは提示されたことがらに対して信じる者が与える承認である。

 

信ずべきことがらの提示は、使徒たちや預言者たちにおけるように直接的に啓示される場合もあるが、多くの場合、信仰を説教する者たち praedicatores fidei との間接的な「出会い」によって与えられる。つまり、それはキリストを宣教する教会共同体に何らかの形で出会うことによってなされる。これはいわば当人の人生の物語において働く摂理的・運命的な導きであり、神の側からの働きかけである。

 

他方、人間が与える承認に関しては、二重の原因を考えることが可能とされる。その一つは外部から誘導する原因、たとえば目撃された奇跡、あるいは信仰へと誘導するために人間が行う説得である。先に信仰の承認は意志によると指摘したが、それは決して盲目的になされるわけではない。これらの形でそこに「神の働き」があることを示唆する「しるし」が与えられるわけである。

 

しかしトマスによれば、これら外的な誘導は、いずれも充分な原因 causa sufficiens ではない。というのも同一の奇跡を目撃し、同じ説教を聴いた人々のうち、或る者は信じるのに、或る者は信じないからである。この相違が生じる原因は、当人の内面の問題であり、外部の人間からは窺い知ることはできない。

 

そこで、信仰における承認にはもう一つの、内的な原因が求められなければならない。さしあたり、それは当人の自由意思の中にある、と考えられる。しかし、トマスによれば、承認のこの内的原因を純粋に自由意思「のみ」に求める立場(ペラギウス派)も誤りだ、という。トマスによれば、この時「承認へと傾かしめる何か或るもの、つまり人間精神に神から注がれた信仰の性向がある」という。

 

この性向は知性を通して動かすのではなく、むしろ意志を通して動かすのであり、信じられたことがらを見る(知る)ようにさせるのでもなく、また承認を強いるのでもなく、かえって、自発的に承認させるのだ、という。つまり、信仰の承認にあたっては、信仰者自身の思いをも超えた神自身に由来する「何か」が働いており、しかもそれは信仰者の自発性の根拠となっている、というわけである。それが何に由来するのかは、究極的には当人にも窺い知ることはできない。トマスによればこれこそが「聖霊の恩恵 gratia」の働きであることになる。

 

回心の場面における信仰の運動は、確かに自由意思の運動である。しかし、そこでは神の働きと当人の自由意思とが微妙に交錯しているのである。「義化」とは具体的には「回心」を意味し、「義化」によって不敬虔な者であった人間は「恩恵の中へ」つまり神との関係の中に立ち戻り、後述するように、その人はキリストと結びついて、その神秘的身体のメンバーとなる。

 

(三)功績と恩恵

 

(1)功績

 

次いで、トマスが「協働的恩恵」の結果としている、人間の自由意思から発出する「功績的な業 opus meritorium」について概観したい。

 

「功績的な業」とは、キリスト者が神の恩恵に応答する形で、神への愛にもとづいて行う業を意味し、キリスト者の霊的生活そのものを指すと言って良い。この場面において、人間は自力によって善き業をなすのではなく、常に神(恩恵)によって支えられており、そこでは神と人とが協働するがゆえに、それは「協働的恩恵」の結果であるとされる。

 

カトリックの伝統的な立場*28にあるトマスは「功績」を認めているが、それは神と人間との傾斜的関係の中に成立するきわめて限定された意味において、それが当人の自由意志にもとづく*29という理由においてのみのことであった。その上でトマスは、恩恵のうちにある人間が「永遠の生命に値する」とされる功績の可能性について論じている。*30


ここでトマスは、功績について、「等価的功績 meritum ex condigno」と「適合的功績 meritum de congruo」という、当時一般的となっていた区別にしたがっている。「等価的功績」とは、正義、すなわち均等的な関係において成立する厳密な意味における功績であり、これに対する報酬は「等価」つまり「当然のもの」として求められるところのものである。

 

これに対して、「適合的功績」においては、その報酬はこれを与える側、つまり神の寛厚 libertas に由来する。功績における「等価性」が成り立つのは、あくまでも神(聖霊の恩恵)の側からのみであり、人間の自由意思はあくまでも「適合性」にのみつながる。

 

トマスは人間における功績的な業 opus meritorium を二つの観点に分けて考察する。第一の観点から、つまりその業そのものに即して、それが自由意思から発出するかぎりにおいて考察されるならば、等価的功績は成立し得ない。それは神と人間との最大の不均等性のゆえである。この観点からは、ただ適合的功績のみがあり得る。

 

しかし、第二の観点から、つまり功績的な業を、聖霊の恩恵からして発出するかぎりにおいて考察するならば、それは永遠の生命を「等価的に」報いとして得るに値するものである、という。この場合には功績の価値 valor は、我々を永遠の生命へと動かす聖霊の能力に基づいて評価されているからである。

 

この場合の業に対する報酬は恩恵の価値 dignitas に基づいて評価される。そして、恩恵によって人は、神的本性に与る者とされ、「養嗣子」として「神の子」とされる。神の子とされた者には当の養嗣子権 jus adoptionis からして「永遠の生命」への相続権 haereditas が認められるべきものとされる。

 

(2)神愛の役割

 

恩恵が功績の根源であるのは他の徳によるよりも神愛によるのがより主要的である*31。人間的行為は二通りの根拠から功績的となる。第一には、神的な秩序づけからしてであり、第二は自由意思の側からしてである。トマスによれば、これら両者に関して、功績の主要根源 principalitas は神愛において見出される、という。

 

まず、神的な秩序づけに関して言えば、事態は次のとおりとなる。永遠の生命は神を享受すること Dei fruitio に存する。しかるに、神的善の享受へ向かう人間精神の運動は神愛の固有的働きであって、この働きによって他の諸徳のすべての働きはこの目的へと秩序づけられる。それは、他の諸徳が神愛によって命令されるかぎりにおいてである。したがって、永遠の生命の功績は第一に神愛に属するのであり、他方、第二次的に他の諸徳の働きが神愛によって命令されるかぎりにおいてそれら諸徳に属する。

 

自由意思の側からしての功績性の根拠とは、人間は意志的に働きを為す者として、他の諸々の被造物にまさって、自らによって働きを為す、という特質を有することに存する。ところで、人間は愛 amor によって為すところのことを、最も意志的に為す。それゆえ、意志性という意味においても、功績は主要的に神愛に属するものとされる。

 

先に、「性向的賜物としての恩恵は、人間の霊魂を、一切の働きに先立ってその存在において高めるものであるが、働きとの連関で見るかぎりは徳の背後に隠れる」と述べた。倫理的な場面における人間は「働き」の側から捉えられる。そこでは、むしろ徳が前面に出る、とも述べた。恩恵に導かれて人が永遠の生命に対する功績を求めて行く場面において第一次的な役割を担うのは神愛の徳である。つまり、恩恵と神愛とは表裏の関係にある。 


以上、性向概念を枠組みとした「恩恵」についての叙述は、『ローマ書簡』(5:5)においてパウロが「聖霊によって神の愛が注がれる」と述べた使徒的原体験をもとに、聖霊が働いた霊魂の変容の諸相、つまりキリスト者の霊的生活のモデルを描いたものであった。

 

【5】 神の世界内在とペルソナの派遣

 

次いで、トマスにおける「創造されざる恩恵」、すなわち先述 S.T.Ⅰ-Ⅱ q.110 a.1 において「恩恵 gratia」のもっとも基本的な意味である(1)として示された被造物に対する「神の愛」としての恩恵論について概観しよう。これは、人間に対して恩恵的に働く神そのものについてのトマスの描写であり、具体的には「神の世界内在」および「神のペルソナの派遣」の理論として展開している。


(一)神の世界内在の段階

 

トマスによれば、神は世界を愛するがゆえに世界に内在する。先述の通り、トマスはそうした意味での「恩恵」すなわち神の愛に、自然的な被造物一般に対する「共通的な愛 dilectio communis」と、理性的被造物に対する「特別の愛 dilectio specialis」という段階を区別していた*32。トマスによれば、神はあまねく世界に内在するが、神の世界内在の様態には段階が区別される*33。またトマスによれば、世界を構成するあらゆる被造物は、そうした神の世界内在の様態に応じて神との類似性*34を与えられる。

 

神の世界内在の第一の様態は、「能動因 causa agens という仕方」、つまり創造の働きによるものであり、この意味では神は非理性的被造物を含むその創造するすべてのものにおいて内在している。そこに見られる神との類似性は「神の痕跡 vestigium としての類似性」と呼ばれ、非理性的な被造物にとってもこのゆえに神が「御父」である、と言われる。この最も基本的な神の世界内在は神の「共通的な愛」によるものであり、最も広い意味における「恩恵」を示している。

 

しかし、勝義における「恩恵」とは神の「特別の愛」を意味し、理性的な被造物において語られる。神は、霊魂における特定の高次の働きに固有の仕方で、すなわち、神を認識し、愛することができる理性的被造物において、特別の仕方で内在する。こうしたところにまで理性的被造物が到りうるということは恩恵による。神がその恩恵によって「聖者たちにおいてある」と言われる場合がそれである。

 

こうした「認識と欲求における対象の主体への内在」としての神の内在は理性的な被造物に限定されていた。それは、それら理性的被造物が自由な人格的主体であるということによる。神は、かかる自由な人格的存在者に対して「特別の愛」をもって自らの本性の分有へと招く。しかし、そのことは被造物の自然本性の限界を超えているかぎりにおいて恩恵によることになる。

 

非理性的被造物は神の単なる「痕跡」であったが、理性的な被造物である人間にとっては「像 imago としての類似性」ゆえに神が「御父」である、と言われる。これはつまり「神の像 imago Dei」の成立ということである。「神の像」が成立する理性的被造物たる人間における神への類似性についてはさらに以下の段階が区別される。

 

第一に、人間が神を知性認識し愛することへの自然本性的な適性を有するかぎりにおいて、神の像は精神の自然本性自体において成立する。この意味での神の像は万人に共通である。

 

第二に、神への認識と愛とにおいて成立する神の像は、「恩恵的同形性に基づく」像と呼ばれ、【3】【4】で概観した恩恵を有する「義人」のみに認められる。かかる人々は、「恩恵の賜物により永遠の栄光の世継ぎたる養嗣子」である、とされる。

 

第三に、完全な仕方における現実的な神への認識と愛において成立する神の像は、「栄光的類似性に基づく」像と呼ばれ、すでに栄光の跡目を受け取っている至福者のみに認められる、とされる。

 

(二)神のペルソナの「派遣」と恩恵

 

神の世界内在、神と被造物との関わりは、神の側からの被造界、特に人間への何らかの顕現によって成立する。神は、時間を超越した永遠の世界における神の内的生命のうちに留まり続けるのではない。「派遣」といえば天使を思い浮かべるかもしれないが、神自身、すなわち御子ないし聖霊のペルソナ*35も、人間の救済のためにつかわされて、時間的世界に何らかの仕方で顕現する。自体的には永遠である神のペルソナ、たとえば御子のペルソナは時間的にはその「派遣」、すなわち受肉以前からこの世に存在しているが、「彼が肉をとりこの世に可視的に存在し始めた」という新しい存在様態をとる限りにおいて「御子は御父によりこの世に遣わされた」と言われる。*36

 

この神のペルソナの派遣という場面において、「恩恵」は主要的な役割を演じている。神のペルソナの派遣は「可視的な仕方」もしくは「不可視的な仕方」で行なわれる。前者はペルソナが何らかの仕方で目に見えるすがたをとる場合であり、後者はペルソナが目に見えない純粋に霊的な仕方で霊魂に内在する場合である。

 

御子のペルソナの「不可視的派遣」は、時間的にはキリストの受肉以前の歴史においてもなされているとされるので、例えば旧約の父祖たちも「神の恩恵に与る者」であった、と認められている*37。神のペルソナの不可視的な派遣はもっぱら性向的賜物としての恩恵(「神意に適せしめる恩恵 gratia gratum faciens」の賜物)による。*38

 

既述のごとく、神の「特別の愛」の結果としての内在、すなわち、「認識されるものが認識するものにおいてあるといわれ、愛されるものが愛するものにおいてある」と言われる意味における内在は、自由な人格的主体、すなわち理性的被造物に適合するものであった。理性的被造物は認識と愛という自らの主体としての働きによって神そのものに触れる。この場合、神は単に「理性的被造物に内在する」と言われるのみでなく、「このもののうちに住まう habitare」とも言われる。それはちょうど、神が自らの神殿のうちに住まうと言われるような意味においてである。

 

トマスによれば、このように神のペルソナが新たな仕方で理性的被造物において存在するにいたる所以でありうるごとき果 effectus は、神意に適せしめる恩恵に他ならない。かくして、神のペルソナの時間的な派遣は、ひとえに神意に適せしめる恩恵による。また、トマスによれば、神のペルソナの不可視的な派遣は恩恵に与るすべての者に対しておこなわれる*39

 

すなわち、「恩恵がそこに住まっていること inhabitatio gratiae」ならびに「恩恵による或る更新のおこなわれていること innovatio quaedam per gratiam」が見出だされるかぎり、そうしたすべての者に対して不可視的な派遣はおこなわれており、神はそこに現存する、とされる。【3】で概観してきたような個人に対する働きかけとしての「恩恵」とは、聖霊、ないしは御子と聖霊のペルソナの「不可視的派遣」による働きを意味していたことになる。

 

(三)受肉-キリストの派遣

 

(1)ペルソナにおける合一の恩恵

 

ペルソナの「可視的な派遣」が主要的に*40語られるのは御子のペルソナである。言うまでもなくそれは受肉、すなわち御子(御言葉 Verbum)のペルソナが人間の自然本性を摂取するという形における派遣であり、神の世界内在が最も濃密な様態をとった場面である。

 

キリストについては、「ペルソナ的合一」、すなわち受肉ということそのものが、彼一人に固有な一種の「恩恵」として語られていた。それは、人間の自然本性が「ペルソナ的存在によって」神との合一にまで高められるということである。キリストにおいて人間の本性は神の御子のペルソナに属するものとなるように摂取された。このことは、キリスト自身によるにせよ、他の人間によるにせよ、一切の先行する功績によらない、という意味で「恩恵」による、と言われる。*41

 

トマスによれば、「合一の恩恵」とは「神の恩恵により人間本性に与えられた御言葉のペルソナにおけるペルソナ的存在そのもの」である。そして、「性向的賜物としての恩恵」とは合一から帰結するもので、この人間(キリスト)に特別な聖性を付与するものであるとされる。合一の恩恵は、性向的賜物としての恩恵によって合一が媒介されるという形で成立するのではなく、むしろ逆に、この合一の恩恵によって性向的賜物としての恩恵がもたらされる*42という。

 

(2)恩恵の充溢-キリスト個人における性向的賜物としての恩恵

 

トマスは、御言葉に摂取された霊魂、すなわちキリストの霊魂において性向的賜物としての恩恵が存在する理由の一つとして「人間の種に対するキリスト自身の関係」を挙げている*43。人間であるかぎりでのキリストは「神と人との仲介者」であるがゆえに、「彼の充溢から、私たち全ては恩恵に次ぐ恩恵を受け取った」といわれているごとく、他のものへと満ちあふれる程までに恩恵を有しているのでなければならなかった。

 

第一に、キリストが神と人間との仲介者であるのは、彼の人間性によるからである。性向的賜物としての恩恵は、人間の自然本性と共に通常の人間とも共有される「人間本性と共に摂取されたも⦁ coassumpta」なのである。そして第二には、人間が実際に救済されてゆくのは、その人がキリストと結びつくことによって性向的賜物としての恩恵に与る者となることによるからである。そして、キリストが人間たちに性向的賜物としての恩恵を分与する媒介となる所以は、彼における「恩恵の充溢 plenitudo」である。

 

トマスによれば、キリストが有する恩恵の「充溢」とは「全面性」と「完全性」の両面に及ぶ*44。「完全性」とはその「強さ」の程度に関する視点であり、例えば、「ひとが充溢した白さを有している」ということは「白さが本来有されるかぎりの程度において有される」という意味である。「全面性」とは「能力」の広がりに関する視点による。例えば「生命の充溢」とは「生命の全ての効果および活動」を意味であり、この意味において人間は「生命の充溢」を有するが、動物や植物はこれを有していない。キリストは上記両方の意味において「恩恵の充溢を有していた」とされる。

 

そのことの理由をトマスは次のように説明する。キリストに恩恵が与えられたのは、あたかも恩恵を有するものの類における何らかの普遍的な原理に対するようにであった。そして、何らかの類において、第一原理の能力は、その類における全ての働きへと普遍的な仕方で及んでいる。トマスはディオニュシオスの『神名論』に従って太陽を例にとる。太陽は、生成の普遍的な原因であって、その力は生成するかぎりのもの全てのものの上に及ぶ。それと同様に、恩恵も恩恵の全ての結果、すなわち、徳および賜物その他同様のものへと及ぶ。そして、キリストにはこの意味での恩恵の充溢も存するのである。

 

恩恵の充溢に基づいて、キリストは最も完全な仕方で恩恵と徳を有していたとされる*45。彼は何らかの不完全性を含意する「信仰」および一部の「希望」の徳を除く*46すべての徳を有していた。また、キリストはすべての「聖霊の賜物」をも卓越した仕方で有していた。キリストの霊魂は最も完全な仕方で聖霊によって動かされていたからである。*47

 

しかし、キリストは単に「恩恵の充溢を有する人間」に尽きるのでもない。トマスは「神は人間である」という命題において「真の神」を認めない立場(フォティヌスの異端)に言及する。この説によれば、神人キリストは、自然本性的にではなく、分有的に神であることになる。それは恩恵によるのであり、他の聖者たちが「神々」と呼ばれるのと同様だが、キリストは他に優って恩恵の充溢を有するというわけである。しかし、この立場では「神は人間である」の「神」は真実の本性的な神ではない、という形でトマスは批判する。*48

 

つまり、人間キリストは単なる「聖者」と同列にある者として「性向的賜物としての恩恵」を有するのではなく、あくまでも「ペルソナ的合一の恩恵」に基づいて、より根源的な仕方で恩恵を有しているとされている。

 

(3)教会の頭としてのキリストの恩恵

 

キリストの使命は「神と人との仲介者」として我々のもとに派遣され、「彼の充溢から、私たち全ては恩恵に次ぐ恩恵を受け取った」と言われるごとく、人類に恩恵を分与することにあった。その「分与」を可能とするキリストと我々との結びつきを保証するものは、教会共同体である。

 

教会はパウロ以来の伝統に基づいて「キリストを頭とする神秘的身体」として表象されてきた。そしてキリストが「教会の頭」であるのは彼が人間である限りにおいてのことであった*49。キリストが教会の頭である根拠となる恩恵は、彼の個人としての恩恵と同一のものである。*50

 

S.T. Ⅲ q.8 a.3 c. において、「キリストはすべての人間の頭である」というテーゼが肯定的に示されている。これは、神の普遍的救済意志を示しているもの、と言える。ただし、トマスは自然的な人間の身体と教会の神秘的身体との相違点を指摘する。すなわち、人間の自然的身体においては、すべての肢体が同時的に存在するのに対して、教会の神秘的身体においては、すべての肢体が同時的には存在しない。教会の身体は世界の始まりから世界の終末までの人々からなるからである。

 

また、彼らは恩恵という点においても同一ではない。つまり、ある時点で恩恵を持たず後に持つにいたる人もあれば、既に恩恵を有する人もいる。それゆえ、トマスによれば、教会の神秘的身体の肢体であることは、現実態におけるのみならず、可能態においても有り得ることになる。

 

トマスは、人々が教会の肢体であることに関しての様々な可能性について考察する。まず、(1)実際には現実態に達することのない可能態にある人と、(2)実際に現実態に達する人とが区別される。(2)はさらに、(a)信仰によって現実態における教会の肢体となる人、(b)神愛によって現実態における肢体となる人、(c)天国の享受によって現実態における肢体となる人、とに区別される。

 

そして、「世界のすべての時間を見た場合」、キリストはすべての人間の頭であることが肯定される。ただし、無論そこには段階の区別がある。キリストは、(2c)第一かつ主要的には、彼と栄光において合一している人々の頭である。(2b)第二に、彼と神愛によって合一している人々の頭である。(2c)第三に、彼と信仰によって結ばれている人々の頭である。さらに、(1a)第四に、まだ彼と現実的に合一してはいないが、予定によって現実態にもたらされる人々の頭である。そして(1b)第五に、可能的には彼と合一しているが、現実態にもたらされることのない人々の頭である。しかし、これらの人々はつまりは「予定されていない人々」であって、現世を去ればキリストの肢体であることを完全に止める、とされる。

 

教会の神秘的身体はすべての肢体が同時的に存在しない。その外延は、歴史的展開の中で変動する。つまり、その「身体」は、歴史の、そして個人の生活史の中において、人がキリストと出会い、その恩恵に捉えられてゆく「ドラマ」によって形成されてゆく。

 

(4)秘跡と恩恵

 

キリストの恩恵に個人が結びついてゆくのは、その人が「キリストの神秘的身体」の肢体となること、つまり、教会共同体に参与することによる。恩恵論は、同時に実質的には教会論につながる*51。教会共同体の具体的な働きは、「秘跡 sacramentum」という形をとる。「秘跡」とは、言葉としるしにより、キリストの救いの恩恵を具体的に実現するものと認められる教会の諸活動のことであり、西方教会においては、中世期までに洗礼 baptisma、堅信 confirmatio、改悛 poenitentia、聖餐 Eucharistia、叙階 ordo、婚姻matrimonium、終油(病者の塗油)extrema unctio という七つの秘跡が定着していた。

 

秘跡は恩恵をもたらすとされるが、トマスは、秘跡の恩恵に対する原因性を「用具的 instrumentalis な能動因」として規定している*52。そのために、まず「能動因」の概念を「主要的能動因」と「用具的能動因」とに区別する。

 

主要的能動因は、自己の形相により働く。この意味では神以外に恩恵の原因たりうるものはない。恩恵とは、神の本性への何らかの分有された類似だからである。

用具的能動因は、自己の形相によるのではなく、主要的能動者に動かされるかぎりにおいての運動によって働く。そして、結果は用具ではなく、主要的能動者に類似する。この用具的能動因としての意味で、新法*53の秘跡は恩恵の原因なのである。それは、恩恵の原因となるよう神に定められていることに基づく。

 

トマスによれば、秘跡の内的効果のために主要的能動者の様態において働き得るのは神のみである*54。他方、秘跡の内的効果のために用具の様態において働くことは人間にも可能とされ、奉仕者も用具も共に、主要的能動者の力によって秘跡の内的効果をもたらすとされている。キリストは「真の神」であると共に「真の人間」でもある、というテーゼはカルケドン公会議以来の教義である。トマスによれば、キリストは神としても人間としても秘跡の内的効果に対して働いている*55

 

神としてのキリストは、秘跡において権威者の様態で働いており、それゆえ権威者としての権能をもつ。これに対して、人間としてのキリストは、秘跡の内的効果に対して功績的に、また起動因として働くが、用具的様態においてである。ただし、神性とペルソナにおいて結合した用具として、外的な用具、すなわち教会の奉仕と秘跡そのものに対して優先的地位と原因性を有している。それゆえ、人間としてのキリストは「主要的奉仕者」としての「卓越的」権能を有するとされる。

 

現代の秘跡論においても、キリストは秘跡の創始者であるのみならず、キリスト自身が秘跡の真実の執行者である、と考えられている。その意味で「原秘跡」という表現が用いられている*56。トマスにあっても、キリスト自身が、秘跡を通してキリスト者の共同体である教会に恩恵を伝える根源的秘跡であった、と言うことができよう。

 

【6】 結語

 

以上で、トマスの恩恵論をその全体構造において概観できたと考える。すなわち、従来「トマスの恩恵論」として知られていた性向概念にもとづく恩恵論は、いわば恩恵を受ける人間の側における神の痕跡、すなわち当人の内面において働く恩恵の諸相を描いていた。これに対し、今日の神学者たちが関心を寄せ「創造されざる恩恵」と呼ぶ神そのものの働きの諸相については、神の世界内在、ペルソナの派遣、特に御子のペルソナの受肉、そして教会と秘跡という形で描かれていたことが明らかになったと思われる。

 

 ー終ー

 

*1:1 P・ネメシェギ『神の恵みの神学』、南窓社、1967 年、pp.164-165.

*2:S.T. I-II q.50 a.2 c.

*3:S.T. I-II q.49 a.3, a.4

*4:S.T. I-II q.50 a.1 c.

*5:S.T. I-II q.55 a.2, a.3

*6:S.T. I-II q.56 a.1 ad.1

*7:S.T. I-II q.56 a.1 c.

*8:S.T. I q.77 a.6, I-II q.37 a.1

*9:S.T. III q.7 a.2 c.

*10:S.T. I-II q.110 a.3 c.

*11:S.T. I-II q.68 a.1 c.

*12:S.T. II-II q.24 a.2 sc. 拙著『トマス・アクィナスにおける「愛」と「正義」』、知泉書館、2005 年は、全体としてトマスの注賦的性向理論全体が『ローマ書簡』(5:5)でパウロが示唆している原場面を展開したものであることを示したものであると言える。

*13:S.T. I-II q.113 pr.

*14:4 S.T. I-II q.111 a.3 c.

*15:東方キリスト教は原罪論を展開するよりは、人間が神の本性へと引き上げられる「神化」を主題としている、とされる。ただし、本稿【3】(二)で示したように、一般には西方神学の代表者と目されているトマスも、キリスト者の霊的生活のうちに「神的本性への参与」という形で「神化」への射程を見ている。

*16:さらに、ここでの「義とされる」ということの解釈が宗教改革における争点となり、一般にプロテスタント神学ではこの「justificatio」とは神による無罪宣告(その意味合いを込めて「義認」「宣義」と訳す)と解釈し、霊魂に何らかの変化が生じると見る「義化」「成義」という訳語はとらない傾向がある。

*17:無論、「罪」には当の人間自身による「自罪」もありうる。

*18:S.T. I-II q.113 a.1 c.

*19:S.T. I-II q.113 a.2 c.

*20:S.T. I-II q.113 a.3 c.

*21:S.T. I-II q.113 a.5 c.

*22:S.T. I-II q.113 a.4 c.

*23:S.T. I-II q.113 a.6 c.

*24:S.T. I-II q.113 a.7 c.

*25:S.T. I-II q.113 a.8 c.

*26:S.T. II-II q.2 a.1 c.

*27:S.T. II-II q.6 a.1 c.

*28:人間的自然本性の全面的堕落を主張する神学的な立場からは、そもそも「功績」ということ、さらには「人間が神と協働すること」自体を認めない主張もある。

*29:S.T. I-II q.114 a.1 c.

*30:S.T. I-II q.114 a.3 c.

*31:S.T. I-II q.114 a.4 c.

*32:S.T. I-II q.110 a.1 c.

*33:S.T. I q.8 a.3 c.

*34:S.T. I q.93 a.4 c.

*35:ただし、起源の点で「他に由来しない」御父のペルソナは派遣されない。S.T.I q.43 a.4 c. 参照。

*36:S.T. I q.43 a.1 c.

*37:S.T. I q.43 a.6 ad.1

*38:S.T. I q.43 a.3 c.

*39:S.T. I q.43 a.6 c.

*40:ただし、『マタイ福音書』(3:16)の記述にあるとおり、聖霊も「鳩のかたち」をとって可視的に派遣されている(S.T. I q.43 a.7 c.)。他方、御子も不可視的にも派遣される、という(S.T.I q.43 a.5 c.)。御子についての事情は、三位一体内部における永遠の発出も含めて、次のように整理することができる。「御子が神たるべく発出したのは永遠よりしてのことであるが、彼が、可視的な派遣に関するかぎり、人間たるべく発出し、また不可視的な派遣に関するかぎり、人間において存在すべく発出するのは、時間的な仕方による。」S.T. I q.43 a.2 c. 参照。

*41:S.T. III q.2 a.10 c.

*42:S.T. III q.2 a.11 c.

*43:S.T. III q.7 a.1 c.

*44:S.T. III q.7 a.9 c.

*45:S.T. III q.7 a.2 c., q.15 a.2 c.

*46:S.T. III q.7 a.3 a.4 c.

*47:S.T. III q.7 a.5 c.

*48:S.T. III q.16 a.1 c.

*49:S.T. III q.8 a.1 c.

*50:S.T. III q.8 a.5 c.

*51:しばしば、トマスにはまとまった教会論はなく、彼の教会についての見解は、恩恵論、キリスト論、秘跡論の中に散見される、という指摘がされる。思うに、宗教改革以前のトマスにあってそれは当然のことである。「教会論」が今日的な意味で神学の一分野となったのは、教会共同体のあり方そのものが神学者の主題的な反省の対象となってからのことである。しかし、我々は逆に、トマスの恩恵論、キリスト論、秘跡論の中から「教会論」を抽出し、彼にとって当然のものとして前提されていた教会共同体についての了解を明らかにすることができよう。

*52:S.T. III q.62 a.1 c.

*53:新約における啓示を「法」として捉えた表現。

*54:S.T. III q.64 a.1 c.

*55:S.T. III q.64 a.3 c.

*56:例えばゼンメルロートは、個別的な秘跡という「指」をもって個人を掴もうとするキリストの神秘的身体としての教会共同体そのものを「原秘跡」と見る、という形で、秘跡論、教会論を展開している。オットー・ゼンメルロート著、石橋泰助訳『原サクラメントである教会』(南山大学学術叢書)、エンデルレ書店、1996 年。