巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

意識的に、もしくは知らずに犯してしまったわが罪をお赦しください。


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聖マカリオスの祈りの中に次のような箇所があります。「わが罪をお赦しください、おお、ただ一人罪なき御方よ。今日というこの日に汝に対して犯した罪――意識的に、もしくは知らずに――言葉において、行ないにおいて、思いにおいて、自分の感覚すべてにおいて犯してしまった罪をお赦しください。」(私訳)*1

 
私はこの「意識的に、もしくは知らずに(known or unknown)」という部分の祈りに慰めを感じます。というのも、明らかに知られ得、特定され得る罪はもとより、われ知らず、自分でも気づかないままに犯してしまっている罪もきっとあるはずだからです。個々の人間および不完全な人間の集まりである共同体の性質をことごとく見通しておられる神は、旧約聖書レビ記の中でその部分にも配慮をされ、聖書記者を通し、次のように記しておられます。


「また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。」(レビ記4章13-14節)


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著名な福音派のジョン・マッカーサー師は『Journal for Biblical Manhood and Womanhood』第六号の中で、これまで自分が信じ、注解書や説教などを通じ宣布してきた「受肉的御子性(incarnational sonship)」の教理が誤りであったことを認め、次のように告白しておられます。


「以下のことを公に告白したいと思います。私は『受肉的御子性』の教理を破棄致しました。研究と省察を深めていく中、(これまでの自見解に反し)確かに聖書は、父なる神と御子であるキリストの関係を永続的な父子関係として提示していることに理解が及んだのです。それゆえ現在の私はもう、キリストの御子性を、彼が受肉においてのみ担った役割としては捉えていません。」(出典


ご自身の誤解や誤りをこのように正直かつ謙遜に告白されたマッカーサー師に私は深く敬意を表します。ただ私は思うのです。そういった事情を今も知らず、御子の属性に関する彼の間違った旧見解が記されてある『ガラテヤ書注解書』の旧版を使い続けている人々は一体どうなるのだろうかと。

 

マッカーサー師のこの見解修正には故R・C・スプロール師の友誼と尽力があったといわれています。故スプロール師は生前、マッカーサー師のディスペンセーション主義諸見解をも何とかしようと彼に働きかけておられたようですが、こちらの部分は残念ながら今に至るまで修正には至っておらず、現在も『マッカーサー・スタディー・バイブル』等を通し、彼のそういった諸見解は福音派・聖霊派の一般読者に広く影響を及ぼし続けています。


規模こそ大分違えど、同じことが私自身のブログや信仰告白においても言えると思いました。これまで何度となく過去の記事を見直し、削除・訂正・加筆を重ね、場合によっては「私は~~の見解において誤っていました。以下が自分の修正見解です」とそのことを記事にしてきました。私の旧見解に影響されてきたかもしれない方々に是非そのことを知っていただきたかったからです。

 

しかしながら、マッカーサー師の『ガラテヤ書注解』旧版と同じで、今ももしかしたら何らかの形でかつての私の誤った諸見解は流布され、あるいは誰かの思考や考え方や信仰の中に今も存在の跡を残しているかもしれません。かつて対等主義教会で成人男性信者の指導にあたっていた昔の自分の姿をみた訪問者や信者の方はそれがキリスト教の正しい職制のあり方なのだと思い、現在に至っているかもしれません。私のリーダーシップの下に置かれていた当時の男性たちは現在どうなっているのでしょう。私は気づかず多くの人を傷つけてきたのかもしれません。その傷によって今も苦しんでおられる方がいるのなら、私にできることは、主が彼を癒してくださるよう祈り、赦しを請うことのみです。

 

過去の過ちから生み出される負の結果や影響はどんなに努力して消そうとしても、消しきれるものではありません。ただ自分にできることは、キリストの十字架を見上げ、彼が自分のその罪のために苦しみ、死んでくださったこと、三日目によみがえられたこと、洗礼の秘跡により恵みによってそれらの罪が赦されたことを信じ告白することです。そして神の前に人々の前に、自分の諸見解や信条およびそこから導き出される諸言動が具体的にどのように誤っていたのかを告白し、赦しを請うことです。

 

「意識的に、もしくは知らずに犯してしまったわが罪をお赦しください。」日々の夕べの祈りの中に収められている聖マカリオスのこの祈りを生涯の祈りとして、主の憐れみにすがりながら生きてゆきたい――、それが2020年を終えるにあたっての私の願いです。

 

 ーおわりー

*1:John (Ellsworth) Hutchison-Hall, Daily Prayers for Orthodox Christians (English Edition) Kindle Edition, 2012.