巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

救い主の母の道(by マザー・バジレア)

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出典

 

救い主の母の道(マザー・バジレア)

 

M・バジレア・シュリンク著『救い主の母の道——キリストとともに、キリストのために』第1章一部抜粋

 

マリアは、まだ今まで一度も起こったことのないことを信じなければなりませんでした。それは、聖なる永遠の神ご自身が人である彼女の中にお宿りになるという信仰でした。この信仰こそは、完全にすべての理性に反するものでした。

 

マリアに要求されたものは、比類なき信仰でした。一つの教義を信じることなら、まだそんなに困難なことではなかったでしょう。聖書を通して神が私たちに教えているすべてのことは、信じるべき真理であり、また何千年ものあいだ聖書の数えられるほどの裁きと恵みについての他の預言が成就されたにもかかわらず、今日なお、多くの人々にとって、告知された「処女受胎」の出来事は、しばしば信じ難いものです。

 

しかし、マリアは、自分の身に起こる、また自分を通して起こる一度限りの奇跡を信じなければなりませんでした。そして、必然的に伴うすべてのことを引き受け、その道に身をゆだねなければならなかったのです。それこそが最も困難なことであったに違いありません。

 

彼女は実に、誰も歩んだことのない暗い道を歩まなければなりませんでした。この信仰が、彼女にどんな犠牲を払わせたかを私たちはおそらく予感できないでしょう。・・この信仰の道は、特別の勇気と決断をマリアに求めたのです。彼女は、それについて誰にも話せず、誰からも助言を受けることができませんでした。

 

マリアは、あらゆる人間的体験から除外されていました。そのために彼女は、全面的に神に依存する以外になかったのです。神が人の子として彼女の内にお生まれになるため、おそらくマリアは、神においてのみ自分の心を満たし、助言者として聖霊のみを避け所にする以外ありませんでした。

 

神に対する従順は、彼女にとって受難の道を意味していました。それ以外に道がなかったのです。なぜなら、エバの堕落以来、私たちは皆、まさに神が私たちを愛しておられるがゆえに、目的に達するために、多くの試練と苦しみを通らなければならないからです。

 

しかしながら、マリアは、それゆよりもずっと厳しい道を歩まなければなりませんでした。すなわち彼女は、私たちのために受難の道を歩むべく、受難の人キリストを生むように選ばれたからです。

 

マリアは、主の母として、主の受難の道に与る以外になかったのです。こうしてマリアは、恥辱、軽蔑、孤独、屈辱の道へと召命されました。彼女はこの道を受け入れるでしょうか。未婚の女に子供ができた、すなわち姦淫を犯した女は、石打ちの刑におうことを(レビ20:10、ヨハネ8:5参)、彼女は知っていました。

 

また、ヨセフは、たとえどんなに理解しようとしても、もはや彼女を理解することはできないでしょう。そして彼女は、ヨセフの愛を失うであろうと知っていました。そのような道のために、彼女は「はい」と返事をするでしょうか。

 

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』と」(ルカ1:38)。

 

世界にとってこの決定的な聖なる返事を、母なるマリアはしたのです。この彼女の返事は、全天をこだましたことでしょう。この返事を通して、彼女は神のはしため、神の僕として神が望まれ、また語られるすべてのことに対して完全に身をゆだねる意志を示したのです。

 

「はい」という同意は、人間の意志と願望がまったく神の意志と一致した時のみ発せられる返事です。これは愛の返事です。神を愛する魂は、神のどんな願いも申し出も拒絶することはできません。この返事には、死ぬ覚悟があります。

 

その時マリアは、自己の名誉と人生の希望、そして結婚の幸福を葬り、故郷とすべての安全を失うことを恐れなかっただけでなく、日々召命の道を歩み続け、自己と地上におけるすべての幸福を死にゆだねました。

 

「この身に成りますように」。それは信仰の全き従順でした。私たちは皆、再三再四、わが身を救おうとします。というのも、私たちはつまずきや妨げとなるものを避け、人から軽蔑されないようにしているからです。しかし、母マリアは、人々にどう思われようとかまわず、人々を恐れなかったのです。そして彼女は、多くの人々にとってつまずきとなる道を選びました。

 

神の愛は、初めから信頼と従順の中に示される愛の答えを求めていました。そして神は、この答えを最初の人間〔=エバ〕から見い出すことができませんでした。マリアは、神の愛を不信に思いませんでした。それゆえにマリアは、「はい」という返事をすることができたのです。マリアは、心の隅々まで神に捕えられていたので、彼女にはもはや何一つの質問もありませんでした。

 

マリアはへりくだったはしためとして、従順にこの一度限りの道を歩みました。へりくだった者は信じることができます。なぜなら、その人は、みずからを信頼せず、みずからを重んじることなく、すべてを神に期待するからです。

 

私たちは、神が、エバの不従順を取り除かれるために、マリアの同意を活用することがおできになったことを、マリアに感謝しなければなりません。なぜなら、マリアによって、救い主が私たちにお生まれになったからです。この完全な献身と愛の同意が、十字架と死の犠牲に至る、イエスとその「父への同意」の中で、成就された人類の救いのための路程を築きました。なんという喜びが天に湧き起ったことでしょう。

 

「慈しみ深く、憐れみに満ちた」(ヤコブ5:11)主は、召命により、私たちに十字架をになわせ、犠牲と暗闇の中で私たちを導かれるとき、私たちとともに苦しんでくださいます。私たちは、特にそのような道で、御父の愛を体験できるのです。そしてこの神の愛こそ、召命に同意させ、後に最後までそれを貫徹させてくれる唯一のものです。

 

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出典

 

聖霊がマリアに降り、いと高き方の力がマリアを包みました。(ルカ1:35参)。それはすべての人間の認識を超える聖なる神秘でした。なぜなら、そのような恵み、すなわち神の霊に包まれ、その結果、神の子である聖なる方が人間として彼女から生まれるということは、一人の人間の身の上に起こることのないことだったからです。

 

神的なヴェールがこの聖なる出来事を覆っていました。私たちはそのとき、ただ神のあふれるばかりの恵みが、マリアに注がれたのだと予想するだけです。なぜなら、三位一体の神の聖霊が彼女の身にふりかかり、たぶんそれは、かつて天地の創造のとき、神の霊が水の面を動いていたように彼女を包んだと思われるからです。

 

マリアが、もっとも聖なるものと、もっとも親密な関係に入ったとき、それは言葉につくせないほどのことです。聖なるもの、神の子がマリアに宿ったとき、マリアの身に何が起きたのかを誰が言えるでしょう。

 

モーセが、シナイ山で神と対面するにふさわしいとみなされたとき、すでにモーセの顔は光り輝いていました。神ご自身がマリアの内に住まわれたときは、どんな神の輝きがマリアを包んだことでしょうか。そしてどんな変化が彼女に起こったのでしょうか。

 

「聖霊がマリアに降り、いと高き方の力が彼女を包んだ」というこの出来事が、彼女の全存在——肉体、霊、魂——に大きな影響を及ぼしたに違いありません。このことを私たちはただかすかに感じることができるだけです。

 

旧約聖書は、聖なる奉仕のために選ばれた「神に聖別された」人間や、祭司について述べています。彼らは、世の罪と汚れから身を聖く守らねばなりませんでした。なぜなら、彼らは、聖なる領域に入れられ、主は、彼らを絶えず新たに「選ばれた者」と呼んでおられるからです。

 

聖なるものとかかわる人々は、特別なしるしをもっていました。彼らは汚れたものに触れたり、みずからを汚してはなりませんでした。さもないと、彼らは、死に至ったのです(レビ記21章参照)。大祭司の額当てに彫られている「主の聖なる者」という言葉は、神の高い要求を示し、彼らの崇高で聖なる召命に相当していました。

 

しかし、母マリアの場合は、慣習的な典礼や捧げ物をするといった、聖なるものとのかかわりにとどまりませんでした。マリアは、みずからの内にイエスご自身を宿すことが許されたのです。

 

こうしてマリアは、もっとも聖なるものに満たされた後、霊的な意味で身を聖く保ち、聖なる静けさの中に閉じこもり、神のご臨在の中に生きたのでしょう。

 

マリアの霊は、特別に準備されたへりくだった魂であったに違いありません。神の子、聖なるものが、彼女のうちに住まわれ得るために大きな恵みが、マリアの生命の中で働いていたのです。

 

ー終わりー

 

グレゴリオ聖歌「サルヴェ・レジナ Salve Regina(元后あわれみの母)」

 

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〔ラテン語、日本カトリック教会公式訳の順〕

Salve Regina, Mater misericordiae:

元后あわれみの母

Vita, dulcedo et spes nostra, salve.

われらのいのち、喜び、希望。

Ad te clamamus exsules filii Hevae.

旅路からあなたに叫ぶエバの子。

Ad te suspiramus, gementes et flentes in hac lacrimarum valle.

嘆きながら泣きながらも涙の谷にあなたを慕う。

Eia ergo, advocata nostra,

われらのために執り成す方。

illos tuos misericordes oculos ad nos converte,

あわれみの目をわれらに注ぎ、

Et Iesum, benedictum fructum ventris tui, mobis,

とうといあなたの子イエスを

post hoc exsilium ostende.

旅路の果てに示してください。

 

O clemens:

おお、いつくしみ、

O pia:

恵みあふれる

O dulcis Virgo Maria.

喜びのおとめマリア