巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私たちに語りかけてくる伝統とは何か?

f:id:Kinuko:20190821051854j:plain

 

目次

 

「ガダマーの解釈学についてーーディルタイとの連続性と相違性ーー 」を読んで

 

駒沢大学柴野博子教授著「ガダマーの解釈学についてーディルタイとの連続性と相違性ー」の論考を読みました。

 

この論考の中で、柴野教授は、ハンス・ゲオルク・ガダマーの哲学的解釈学が、影響作用史的にみて、(伝統的解釈学を土台にし、その頂点に立つ)ディルタイとの対決を通し生まれてきたものであることを示しつつ、ガダマーがディルタイから何を継承し、何を批判して、自らの哲学的解釈学を形成していったのかという点を考察しておられます。

 

ディルタイ

 

ディルタイが哲学的研究にとりかかった19世紀後半は、ヘーゲル哲学が崩壊し、それに代わって自然科学の方法が哲学の分野をも支配しようとする時代でした。またそれと同時に、歴史学派が台頭し、歴史の研究が一大活況を呈した時代でもありました。

 

こうした背景から、「精神科学を認識論的に基礎づけ、これを擁護することが、ディルタイの生涯の課題」となりました。初めは「心理学」によって精神科学を基礎づけようとしていたディルタイでしたが、時の経過、思想の深化と共に、「解釈学」の方に重心が移っていくようになります。

 

「解釈学的循環」

 

ディルタイは「解釈学的循環」の問題を挙げています。つまり、「部分は全体から理解されねばならなず、全体は部分から理解されねばならない」という循環のことです。解釈学に関するこうした基本的な構想は、大部分、シュライエルマッハーから継承されたものであり、そしてこれが後にガダマーによって厳しく批判されることになったと柴野教授は指摘しておられます。

 

そういえば、新約学者のグラント・R・オスボーン教授(トリニティー神学校)が、「解釈学的螺旋(らせん)」という概念を紹介していますが、これなども、シュライエルマッハーやディルタイ等によって取り上げられているこの「解釈学的循環」からの応用概念なのだろうと推測します。

 

「客観的精神」

 

それから私が興味を持ったのが、晩年のディルタイ思想の中に登場する「客観的精神」という概念です。柴野教授はこの「客観的精神」について次のように説明しておられます。

 

 「第二に、晩年のディルタイにおいては『客観的精神』という概念が登場する。これはもともとはヘーゲルの概念であるが、ディルタイによって新たな概念に作り変えられる。ディルタイの定義によれば、客観的精神とは『ひとびとの間に成立している共通性が感性界に客観化された多様な形式』である。従ってそれは、特定の時代や社会における共通の意味の地平を表わしている。

 この客観的精神の概念とともに、ディルタイの理解の概念も大きく変客する。理解は人間本性の同一性に基づくのではなくて、いまや客観的精神が理解の媒体である。はじめから客観的精神という雰囲氣の中に浸されているからこそ、私たちはすべての表現を「~として」理解することができるのである。

 こうした『理解』はもはや精神科学の方法論ではない。それは、すべての知の基盤としての、日常的な理解である。こうして晩年のディルタイの『理解』概念は、単なる方法論の域をこえて、人間の存在の仕方を解明する『存在論的契機』をすでに萌芽的に宿していたのである。」

 

「特定の時代や社会における共通の意味の地平」を表すものが「客観的精神」なんだというディルタイの発想はおもしろいなあと思いました。通常、「客観的」という言葉をきくと私たちは、「特定の時代や社会」ではなく何かもっと時代や場所を超越した普遍的なイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。

 

それから最後の部分、「こうして晩年のディルタイの『理解』概念は、単なる方法論の域をこえて、人間の存在の仕方を解明する『存在論的契機』をすでに萌芽的に宿していたのである。」を読んだ時、わくわくする気持ちを抑えることができませんでした。

 

というのもガダマーはディルタイと対決しながら、それと同時に、晩年のディルタイ思想の内にすでに萌芽していたこの「存在論的契機」を継承・発展させ、そこから解釈学の新たな地平を拓いていったと思うからです。

 

歴史的な存在としての人間

 

柴野教授によると、ガダマーがディルタイから受け継いだもっとも重要な思想は、「人間は歴史的な存在である」という考え方でした。

 

そして主著『真理と方法』の中で、ガダマーは人間存在の歴史性を徹底的に考え抜き、こうして解釈学の新しい、ダイナミックな理論を展開しています。また、ディルタイが理解を、全体と部分との循環的性格のゆえに、決して完結しない過程とみたのと同様、ガダマーも理解を、「無限の対話的過程」とみている点に両者の共通性があるとされています。

 

ですが、こういった連続性ないし共通性にもかかわらず、ハイデガーを通過しているガダマーにとって、ディルタイはやはり「乗り越えるべき対象」でした。

 

前述したように、解釈学的循環の問題においても、ディルタイの場合それは、テクストを解釈する際の、「全体と部分との循環」の問題であり、また解釈学を歴史的世界に拡大した場合でも、テクストとしての歴史的世界の「全体と部分との循環」の問題でした。それに対し、ガダマーにおいては、この循環が、単にテクスト解釈上の循環にはとどまらず、むしろ存在論的な循環に変容しているのです。

 

『真理と方法』の第二部でガダマーは、自己の中心思想を展開するに際し、ハイデガーの『存在と時間』(とりわけ「被投的企投」と「理解の先行構造」に関するハイデガーの分析)から出発しています。ーーつまり、伝統に帰属しつつ、また歴史的有限性に根本的に帰属しつつ、現存在は「理解」を行うのであり、「理解」は 今や精神科学の方法概念ではなく、「現存在の根源的な遂行形式」となったのだと。

 

先行判断

 

そしてガダマーは、理解の先行構造を取り出し、これによって理解の「循環構造」を鮮明にしたハイデガーのこうした基本的な思想を継承しながら、先ず「先行判断の擁護」という観点から哲学的解釈学の積極的な提唱に向かいます。

 

「18世紀の啓蒙主義は、理性中心の立場から、一切の先行判断の撲滅という目標を掲げた。しかし人間はさまざまな仕方で制約されており、『絶対理性』というものは、歴史的人間にはありえぬことである。あらゆる先行判断の撲滅ということ自体が一つの先行判断であり、これを修正しなければ人間の有限性はみえてこない、 とガダマーは言う 。」

 

「あらゆる先行判断の撲滅ということ自体が一つの先行判断」というガダマーの指摘はまことに正鵠を射た言明だと思います。そしてこの部分に対する気づきと自覚が、原理主義に対する解毒剤になるのではないかと思います。

 

私たちに語りかけてくる伝統

 

ガダマーによれば、啓蒙主義の批判する「権威」は、「先行判断」の源泉にもなりますが、「真理の源泉」でもありうるとされます 。名前のなくなった権威があり、それが伝統です。柴野教授はこの点に関し次のように説明しています。

 

「私たちは不断に伝統の中にあり、伝来のものの権威によって深く規定されている。しかも伝統の中にあり伝統によって規定されながら、私たちは伝統を解釈し、形成している。伝統が浮き彫りにされるためには、まず伝統が私たちに語りかけてくるということがなければならない。その際私たちは、自分の先行判断を脇へしりぞけるのではなくて、むしろこれを働かせることが必要である。伝統と競い合ってこそ、伝統の真理が明らかにされるのである。ここでは生き続ける伝統と、歴史学的探求の、両者の『影響作用』が交錯している。言い換えれば、『伝承の運動』と『解釈者の運動』とは『相互に働き合っている』のであり、これが理解ということにほかならない。」 

 

地平の融合

 

私たちに語りかけてくる伝統とは何か?ーー解釈という営為および理解において伝統がいかなる役割を果たしているのかに関するガダマーのこの論点は、聖書解釈における教会伝統の役割にも適用され得るのではないかと思われます。さらにガダマーは、こういった先行判断を、「地平」という概念と深く結びつけています。

 

 「地平とは『一点から見うるすべてのものを包括し囲み込む視界』のことである。歴史的に制約されている私たちは、現在の地平から過去を捉えるほかはない。では過去の伝承はどのように捉えられるのであろうか。まず過去の伝承(テクスト)が魅力をもって私たちに語りかけてくる、あるいは問いかけてくるということがなければならない。次に私たちは、その問を自分の問として問うことが大切である。そしてテクストをその問に対する答として理解するのである。

 こうして過去のテクストと現在の解釈者との間に『地平の融合』が生じる。過去のテクストとの思索的対話を通じて生じるこの『地平の融合』によって、テクストのより普遍的な真理が開示されるのである。だがこうした地平の融合によって、ヘーゲルの場合のように絶対知に到達しうるというわけではない。ガダマーの地平の融合は、歴史の展開のなかで、つねに新たな地平の融合に対して聞かれている。」

 

それゆえに、ガダマーによれば、解釈学的循環は、むしろ、「先行理解と解釈との循環」です。ーー歴史に帰属し歴史に制約されながら、歴史を形成してゆく人間の基本的な存在形態。こうしてディルタイと異なり、ガダマーにおいては、解釈学的循環は、存在論的な循環に変容しているのです。

 

また歴史をとらえる場合にも、ディルタイが主観・客観という近代的認識論の図式に従っていたのに対しガダマーは、まず歴史に帰属していて、その中で歴史を捉えていく有限な人間の存在構造を鮮明にしていると教授は指摘しています。

 

開かれた態度で過去のテクストとの思索的対話を続けていく

 

そしてガダマーが理解を「事象に即して合意に達すること」として捉え、理解における対話的弁証法を強調している点に、教授は読者の注意を向け、次のように言っておられます。

 

 「実際の対話においても、相手に自分の主張を押しつけたり、逆に相手の主張に服従することではなくて、意見を異にする二人が、開かれた態度で対話を重ね、それぞれの主張をこえたより高次の合意に達することこそ、生産的な対話であろう。

 これと同様に、過去のテクストとの思索的対話を通じて、テクストのより普遍的な真理に到達することにこそ理解の本質がある、というのがガダマーの主張である。『地平の融合』にはガダマーのこうした思想が込められている。、、

 最後に、ガダマーの解釈学について見落としてはならないのは、彼が理解という営みによって自己が変容することを説いていることである。これはディルタイには見られないことであった。すなわち開かれた態度でテクストと対話することに よって、自己の先入観が修正され、私たちはより高次の真理を経験するのである。」

 

生きた人間との実際の対話と同様、私たちが開かれた態度で過去のテクストと思索的対話を続けていくことで、自己の先入観が修正され、読み手の地平と作者の地平が「融合」してゆき、こうしてテクストのより普遍的な真理に到達することにこそ理解の本質があるというガダマーの語りかけは、私の心に希望の灯をともす声です。みなさんにとってはどうですか?

 

ー終わりー

 

関連記事