巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

【悩み相談】「仮に私が女性牧師/司祭職をやめたら、他にどんな奉仕の道があるのでしょうか?」

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出典
 

神様にお仕えしたい、全身全霊で教会や宣教の働きに人生を捧げたいと願っている女性たちには現在、どのような奉仕の道が開かれているのでしょうか?

 

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数日前に、難民キャンプにいる女性の誕生会に主人と共に招待していただきました。15人程の人々が集まっていましたが、その内の半分がイスラム教徒、残りの半分がキリスト教徒でした。

 

保守的なイスラム教徒の誕生会や家庭での催し物に招待されたことのある方はご存知だと思いますが、普通、男性たちは男性たちで一カ所に集まり、女性と子供たちは隣のスペースか、もしくは別室に通される場合が少なからずあります。今回もそのような感じで、長いテーブルの右側部分に男性たちが座り、左側に女性と子供たちがまとまって座っていました。

 

席につくと、隣に座っていた女性が親しげに話しかけてきました。30代半ばのアフガン女性で、元々へラット市の出身だけれども、難民の子としてイラン北東部マシュハドで生育したと語ってくれました。

 

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とても思慮深く、子供の教育のことなどにも深い関心を持っておられる、大きな美しい目の方でした。「初めてヨーロッパに足を踏み入れ、今、どんな心境ですか?良いと思う点、遺憾に思う点など、なんでも自由に感想をお聞かせください」というと、彼女は慎重に言葉を選びながら、次のように静かに語ってくれました。

 

 「ヨーロッパには自由があっていいと思います。子供たちの将来のためにもやはり人権が守られている所に移民できたらと思います。アフガニスタンはここ10年余、政情は前より良くなっていますが、タリバーンやイスラム国の勢力、そして内戦やテロが現在も続いています。イランではアフガン難民に対する基本的人権が守られておらず、私の娘は学校で首席でしたが、アフガン難民であるというただその理由だけで進学することができません。

 

 それから信仰に関してですが、、トルコにいた時までは一日に五回、アザーン(اذان adhān*1)の呼びかけがモスクから聞こえてきていました。でも今、それがなくなり、ちょっと寂しいです。

 

 それから先程話した、modesty(慎み深さ)についてですが、そうですねぇ、正直、ヨーロッパの女性たちが水着のような恰好で外を歩いているのを見るのは、大変、心苦しいものがあります。電車の中などでも男女が場所をわきまえず私的な行為をしているのを目にすることがあり、ショックを隠せません。私たちは公の場ではヒジャーブで頭を覆いますが、ベールなしでは気恥ずかしくて外に出られません。」

 

そこから私たちは、神が、人の心に「恥を知る心*2」をお与えになっており、それが集合的罪(文化的退廃)により消滅していく時、文明自体が衰退し、そこから新しい野蛮主義(barbarianism)が生まれてくる、西洋諸国で現在、新野蛮主義が勃興していることと、私たちの間に神への畏れがなくなり、キリスト信仰が形骸化していることとは無関係ではないと思う、ということなどを共に話し合いました。

 

また、「ベールを被ると、心が落ち着きますよね。私もその気持ち、すごくよく分かりますよ」と共感すると、彼女は目を丸くして驚き、嬉しそうにこちらにぐっと身を乗り出してきました。

 

そして帰り際にも、わざわざ駆け寄って来、両手を握りながら、「今晩、あなたと話せて本当に良かったです。ありがとう。」と挨拶をしてくれました。文字通り、心と心の通い合う対話をする機会が与えられ、私の心も主への感謝で満たされました。

 

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私が同胞の女性の皆さんに申しあげ、励ましたいのは、現在、私たち信徒女性が奉仕する道は、創造的に、無限に拡がっている、ということです。特に、イスラム圏にいる女性たちにリーチする働きは、クリスチャンの信徒女性の献身なしにはほぼ成り立たないと思います。

 

上の例をみてもお分かりの通り、司祭や男性伝道者の方が、彼女のようなヒジャーブ女性に単独で話しかける機会や状況はほぼ閉ざされています。また私が仮に‟女性聖職者”だったとしたら、まず間違いなく、誕生会には招待されていなかったことでしょう。

 

彼女を初めとするムスリム女性たちが私を彼女たちのinner circleに受け入れてくれる理由の一つは、まさしく私の平凡性にあると思います。どこにでもいる普通の女性だからこそ、彼女たちは心を開き、友だちとして向こうから近づいてきてくれるのだと思います。

 

また、私がロバート・バロン司教から学んでいるのは、相手との「共通の基盤を探そう!」という姿勢です。バロン司教のチャンネルにはなぜか無神論者たちが大勢集まってきています。

 

彼らはバロン司教に反発し、論駁しようと待ち構えていながらも、知らず知らずの内に、バロン司教の‟隠れファン”になってしまっている感があります。それはおそらく、司教が、無神論者の方々との対話の共通基盤を大切にし、そこから丁寧に話を進めていっているからではないかと思います。

 

私が気付いたのは、ムスリム女性たちと私たちとの間の共通基盤は、「神の前で一人の女性として生きることの意味」を探求する心にあるのではないかということでした。

 

ですから、このブログの「聖書的女性像を求めて」の証や探求記は、敬虔なムスリム女性(それからユダヤ教の女性*3)の間でも多かれ少なかれ共感を呼び、そこから意味ある対話や信仰の分かち合いが生まれてくることを私や他の姉妹たちは体験してきました。

 

神の「制限ライン」には、人知を超えた智慧が隠されていると思います。人の義を基盤にした水平主義的「平等」促進運動により、神が聖定された境界を無理やりこじ開けることもあるいは可能でしょう。

 

しかし、古の狭き門をくぐった先に、私たちは、「人の道」ではなく「神の道」、神の御思いの中で成し遂げられてゆく御心の深さ、そして美しさを目の当たりにしてゆくのではないかと思います。神の御心を祈り求めている全ての方々に主の導きがありますように。

 

ー終わりー

*1:アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのことを指します。ユダや教のラッパ、キリスト教会の鐘と同じような役割をしていますが、肉声で行われることにその特徴があります。「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まります。参照

*2:関連記事

*3:ユダヤ教の女性アンドレアさんのHead Scarf の被り方チュートリアル・ビデオ。Headcoveringは、ベールを実践している私たちクリスチャン女性と彼女たちとを結ぶ一つの架橋になっているかもしれません。どうでしょう。少なくともここから何か会話が生まれてくるかもしれません。♡

↓ユダヤ教、キリスト教それぞれのパースペクティブから見たheadcoveringについてのドキュメンタリー