巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「われ」と孤独ーー孤独と社会性(by ニコライ・ベルジャーエフ)

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出典

 

ベルジャーエフ(氷上英廣訳)『孤独と愛と社会』(白水社)p.129-135一部抜粋

 

私はわが身のもとに落ちつくことができない。私自身の実存の世界に安んじることができない。私は人間たちを、他の、縁のない世界のものと見、私の世界のものではないと感じる。

 

周辺と人間たちは、私にとって客体であって、私が結ばれているというよりも、むしろ縛り付けられているところの、客体的な世界の所属である。

 

客体的な世界は決して私を孤独から連れ出さない。そして神が客体となるならば、神もまた私を孤独から連れ出さない。いかに客体と切っても切れぬ関係にあっても、「われ」は客体の前では常に孤独である。

 

私の孤独の中で、私の実存の中で、私自身の中で、私はきわめて強く私の人格を、私の独自性、特殊性を体験するだけではない。そうしたものを意識するだけではない。進んで私は孤独からの出口をあこがれ求める。客体としてではなく、他者との、「なんじ」との、「われわれ」との共同体をあこがれ求める。「われ」はその隔絶された状態から歩み出て、他の「われ」に到達しようと渇望する。

 

しかしその歩み出は慎重に行われなければならない。「われ」は出会を警戒する。その出会が客体との出会であるかもしれないことをおそれるのである。人間はおのれの内密な生を護ることに対してと同様に、孤独に対して神聖な権利を有する。孤独が独我主義(solipsismus)を意味するという見解は誤りである。その反対なのである。

 

孤独は不可避的に他者の実存、疎遠な客体化された世界の実存を前提とする。「われ」はそれ自身の実存においてよりも、むしろ他者に対し、他者の中で、疎遠な世界の中で孤独である。

 

絶対的な孤独というものはない。孤独は相対的である。孤独は他者の実存と相関関係にある。絶対的孤独はいわば地獄であり、非有(nichtsein)である。それはたんに消極的に考えられるにすぎない。相対的孤独は、無力と否定を意味するが、それにとどまらず、また肯定的な面をも持っている。一般的客体的な世界を抜け出した「われ」のいっそう高い状態を、それは意味する。

 

孤独は、それ自身堕ちた世界である社会的日常性からの脱落なのであっても、神と神の世界からの脱落ではない。それは霊魂の成長を意味しうる。「われ」は社会的日常性から離落して、より深い、真の実存に到達しようとする。しかしいくたびとなく「われ」は社会的習慣にたちもどり、またあらたに孤独に沈んでいく。、、

 

与えられた時間空間から歩み出ることは、固定し静止した意味の孤独から歩み出ることを意味する。しかしながら、孤独は常に共同体への欲求、あこがれを前提とする。私が自己を人格として認識し、みずからこの人格を実現しようと欲するならば、私はまた、自己自身の中に閉じ込められていることの不可能を認識する。しかし同時に、自己から他者の中へ歩み出ることの至難にも直面するのである。

 

ある意味では、孤独は社会的現象である。孤独は常に他者についての、他者の存在についての知識を与件とする。そして最も痛切な孤独は、利益社会の中での孤独である。そのような社会的孤独こそ、ほんとうの孤独である。世界と社会の中にあればこそ、孤独はある。

 

しかし「われならぬもの」(非我)への、世界への、客体への歩み出は、決して孤独の克服を意味しない。孤独者は絶えずそのような客体への歩み出を行なう。日ごとに彼はそのようなことを試みる。

 

しかしそれによって孤独は減少せず、かえって強められるのである。いかなる客体も孤独を弱めることはできない。これは根本真理である。孤独はただ実存の象面でのみ克服されうるのである。「われならぬもの」(非我)との出会においてではなく、「なんじ」との出会において克服されるのである。客体との出会においてではなく、主体との出会において克服されるのである。

 

「われ」が元来の集団的存在から離落し、意識と分裂と孤独の苦痛を体験したのち、それがまた客体化された集団的存在に還ることによっては決して全体や調和や他者との共同体を見い出すことはできない。人は客体の世界から歩み出なければならぬ。客体へのいかなる関係も、共同性や共同体を生み出さない。

 

「われ」は孤独を幾多の仕方で克服しようと試みる。認識の道によって、性生活や恋愛生活によって、交友によって、社会生活によって、道徳的行為によって、また芸術の道によって等々。孤独がこれらの道によっては克服されないと主張するのは正しくないであろう。しかし孤独がかくして終局的に克服されるということもできない。なぜなら、すべてこれらの道では客体化が起こり、「われ」は「われ」に、出会わない。内的な共同体における「なんじ」に出会わない。むしろ客体に、利益社会に出会う。

 

孤独はなんら一様な、つねに同質の現象ではない。孤独のさまざまな形式と段階があるのである。争い、闘い、そして憎悪までが、しばしば孤独を忘れさせ、孤独感を弱めるところの社会現象であることは、注目すべきことである。しかしそのあとでは孤独はいっそう強く感ぜられる。

 

孤独はまた、ひとに理解されないこととして、他人に誤って映ることとして体験される。「われ」は、自己を正しく他者の中に反映させたい。他者において自己の「われ」の確認と裏付けを得たいという深い欲求を持っている。それは開かれ、見られることを渇求する。

 

ナルシズムは、人が思うよりも深い現象である。それは「われ」の本質と関連する。「われ」は鏡に見入る。おそれの映像を水の中に見たいと思う。かれ自身の実存を他者において確認するためである。本当は「われ」は、鏡の中、水の中ではなくて、他の「われ」、「なんじ」の中に、共同体の中に自己を反映したいのである。

 

「われ」は、この世の中のいずれかの他の「われ」、いずれかの友人(客体ではない)がおのれを最後的に承認し、確かめ、その美しさにおいて捉え、聞き、反映することを願望する。そこに愛の深い意味が横たわっている。

 

ナルシズムは愛の破綻である。それは客体における反映であって、そこでは主体は自己自身の中にとどまり、自己自身から歩み出ない。奇妙なことは、ほかならぬ客体が、主体を主体自身の中にとどまらせて、他者の中へ連れ出さないことである。それゆえに、客体性がまた主体性の極限的な形式をなすのである。

 

認識への願望は、孤独克服への願望である。認識は自己自身から歩み出て、他者の中へ入ることであって、「われ」とその意識の異常な拡大であり、時間空間による分離に対する勝利である。これに反して客体化された認識は、なんら孤独からの真の歩み出ではない。なぜなら孤独から連れ出すいかなる客体もないから。客体はつねに「われ」に対して疎遠なものである。

 

客体を前にしては、「われ」は自己自身の中にとどまる。いかなる客体化、いかなる客体化された認識、いかなる客体化された自然、ないしいかなる客体化された利益社会によっても、「われ」の悲劇的矛盾は克服されることがない。

 

利益社会ではなく共同体の視角において形成された認識、それのみが真に孤独を克服する。利益社会の視角においては、認識は社会化され、その一般拘束性は社会的性格を持ち、「一般者の獲得」ではあっても、共同性の獲得ではない。

 

存在論的に見るならば、孤独は神へのあこがれの表現である。その神は主体としての神であって、客体としてではなく、「なんじ」(Du)としてであって「それ」(Es)としてではない。神はまさに孤独の克服であり、親しく近きもの、わが実存によって測りうべき意味の発見である。私が所属し、私が絶対的に信頼し、おのれを残りなく捧げ得る唯一のものは神であり、神のみである。

 

ー終わりー

 

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