巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

真理を語れ。(by ジョーダン・ピーターソン、トロント大学)

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How to gain self-respect and confidence- Jordan Peterson, Jun, 2018(抄訳)

 

自分自身を概念化する一つの方法として、「自分は何億人という人口の中における、ちりの一粒に過ぎない。」というものがあります。そして人がこのように自分自身を捉える時、「それなら、自分がなす行為や言明に何の意味があろう?たいした意味はない。」と考えるかもしれません。

 

実際、それは私たちにとって都合の良い解釈です。なぜなら、その時、私たちは自分の取る言動に対し、何一つ責任を負う必要がなく、何でも好きなようにできるからです。

 

これに伴いあなたが払わなければならない代価は幾分かのニヒリズムであるかもしれませんが、責任を引き受けたくないのなら小さなその代価はやはり払わなければなりませんし、それが虚無主義の深層に潜む隠れた動機です。〔中略〕

 

あなたの言明力(the power of speech)を過小評価してはなりません。西洋文化は〔フェミニスト理論家たちが批判するところの〕いわゆる ‟男根ロゴス主義”(phallogocentrism)*1です。そのように表現したい人はご自由にどうぞ。実際西洋文化はロゴスがその神聖なる要素であるという思想を前提としています。つまり、発話におけるあなたの能力は神聖であり、それは混沌から秩序を生成させ、必要とあれば時には病理学的秩序を混沌に変性させます。

 

真理の力を過小評価してはなりません。あなたが真理だと認識している内容を言明する際、あなたは自分のその言明により引き起こされるかもしれない困難やトラブルを甘受する覚悟ができていなければなりません。

 

「僕はこれから自分の考えている事を言明する。僕は決して賢くはないし、偏見だらけで、無知だ。だが今、僕は自分が真だと信じているものを、できるだけ明確に言明する。そしてたといそこからいかなる困難が自分の人生に舞い込んでくることになったとしても、僕はそれらを甘受しよう」と。

 

それが信仰の要素である理由は、言明された真理(stated truth)にもまして、この世界を改善するものは他に皆無だからです。もちろんそれに伴う犠牲や代価はあるでしょう。しかしだからどうだというのでしょう。結局、人間は、自らの為す、あるいは為さない、血なまぐさい事柄に対しことごとく代価を払います。つまりどのみち代価を払わないという選択肢はないわけです。ただあなたはどちらの毒をあおるかを選ぶのみです。

 

ですから何かのために立ち上がろうとするのなら、真理のために立ちなさい。それはあなたを鍛錬し成形するでしょう。なぜでしょうか。さあ、真理のために立ち上がってみなさい。そうすると人々は応答し、あなたがいかに馬鹿で、偏見まみれの能無しで、無知の固まりであるかと息巻いてきます。あなたはそれらを聞きます。すると次回、言明する際、あなたは前よりもずっとましになっています。それを5年続けてごらんなさい。あなたは重圧にも屈しないタフで弁論に長けた強靭な男になっていることでしょう。

 

またあなたはその実践を後延ばしする必要もありません。大学人たちの多くは私に言います。「自分が大学での終身地位保証を取得した暁には、、」「自分が助教授になった暁には、、」「私が教授になった暁には、、」。あなたが今、大学職に就いているのなら、あなたはすでに非常に保護された環境にあります。それほど保護された地位は歴史上例をみないと言っていいほどです。そういった環境にありながらあなたは自分が真理を言明するにはまださらなる安全保護が必要であると思っています。

 

言明する行為自体、‟安全”ではなく、これからも決して‟安全”ではありません。しかし覚えておかねばならないのは、言明しない行為の方がよっぽど危険だということです。それはリスクの均衡です。あなたが自分のあり方、そしてこの世におけるあなたの存在様式を言明することに伴う代価を払うか、もしくは血にまみれた残忍な奴隷であることに伴う代価を払うかーー、そのどちらを望んでいるかです。後者の隷属の道を選び取った場合、20年後、あなたは、自尊心も、力も、言明力にも欠け、ただ「皆が自分に敵対している」と憤慨することしか知らない惨めな自分を見い出すでしょう。

 

よくよく吟味しながら自分の考えを言明し、その際、自分の言う言葉に注視してください。もしも、「真理こそが社会の礎石である」ということをあなたが信じているのなら、その時あなたは何があってもその代価を払おうとするでしょう。

 

真理を語り、その結果何が起こるのかを見てみなさい。あなたにとってこれ以上ない最善が起こるでしょう。もちろん浮き沈みがあり、抵抗に遭い、論争の渦の中に投げ入れられるかもしれません。しかしひるむ必要はありません。実にこの世界を地獄から贖うものこそ真理なのです。

 

私たちはここ数百年、数多くの生き地獄を目撃してきました。あれだけの血が流されたのに私たちはまだそこから教訓を得ていないのでしょうか。さあ、目を覚まし、真理を語りなさい。

 

ー終わりー

*1:訳注:カリフォルニア大バークレー校のフェミニズム/クイア・スタディーズ (queer studies)における代表的な理論家の一人であるジュディス・バトラーは、‟男根ロゴス主義”について次のように述べています。

Philosopher Judith Butler

ジュディス・バトラー女史

「あまねく浸透している男性中心主義の言語 一一男根ロゴス中心主義の言語ーの内部では,女は表象不可能なものを構成する。換言すれば,女は思考されえないセックス、つまりは言語上の不在や不透明性を表象している。……中略……。女は「他者」と名付げられていると主張するボーヴォワールとは逆に、イリガライは、主体も「他者」も両方共、男社会を支える大黒柱であって、女性的なるものを完壁に排除することによって全体化という目的を達成する、閉鎖的で男根ロゴス中心主義な意味付けの機構を支えるものであった。ボーヴォワールにとって、女は男の否定形であり、男のアイデンティティがそれに照らして自らを差異化する欠如であった。だが、イリガライにとってみれば,この特定の弁証法は、それとは全く異なっている意味付けの機構を完全に排除してしまうようなシステムを創り出しているのである。」『批判・系譜学・普遍性一ージュディス・ P・バトラーの思想を通して見えてくるもの一一』 2.「男根ロゴス中心主義」への批判〔北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル〕の中の引用文〔出典〕。ジュディス・P・バトラーの文献:ジュディス・パトラー(竹村和子訳) 『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの撹乱』 (青土社1999年) /ジュディス・バトラーほか・共著(竹村和子、村山敏勝共訳)『偶発性・ヘゲモニー・普遍性:新しい対抗政治への対話』 (青土社・2002年)/ジュディス・バトラー(クレア・マリィ訳+解題) 『批評的にクィア』現代思想 5月 臨時増刊総特集 レズビアン/ゲイ・スタディーズ』第25巻第6号(1997年). 関連記事: