巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教皇が異端者になった場合、歴代のクリスチャンたちはどのようにそれに対処してきたのだろう?

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出典

 

ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。

彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」

「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」

「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。

「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」*1

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目次

 

シュナイダー司教の論文「いかに教会は異端的教皇を取り扱うべきか」

 

先週、アタナシウス・シュナイダー司教が、「いかに教会は異端的教皇を取り扱うべきか」というテーマに関する論考を発表し、信者たちを激励しています。

 

この論文の主旨は次のようなものです。ーーすなわち、確かに歴史が示すように異端的教皇というものは存在し得、またこれまでも存在してきた。けれども、2000年の教会史全体を通し、存命中の教皇に対する教会的退位(ecclesiastical deposition)という措置はこれまで全く先例がなく、それを強いて執行させようとする試みは『革命的新規性』となり、それゆえ、有益になるどころかむしろ害となるだろうと。

 

シュナイダー司教は続けてこう言っています。

 

 「たとい教皇が教会法に則った形で退位処分を受けた場合にあってさえも、(二人もしくはそれ以上の教皇座への詐称者たちを伴う)公的シスマがその後必然的に起こってくるでしょう。そしてそれは、ーー教皇が教義的誤謬や異端教説を広めるという比較的短期間にして稀有な時期よりもーー、かえってより深刻なるダメージを教会に与えることになります。

 教会の2000年余の歴史スパンで考えた時、異端的教皇という状況は常に比較的短期なるものでした。それゆえ、こういった稀にして微妙な状況下に置かれている場合、私たちはそれを神の摂理による御介入に委ねなければなりません。」

 

死後破門された教皇ホノリウス一世

 

例えば、7世紀の教皇ホノリウス一世(625-638)は、三つの全地公会議により、死後、破門されました。(三つの全地公会議⇒①681年の第三コンスタンティノポリス公会議*、②787年の第二ニカイア公会議*、③870年の第四コンスタンティノポリス公会議*

 

Pope Honorius I - Apse mosaic - Sant'Agnese fuori le mura - Rome 2016.jpg

教皇ホノリウス一世(出典

 

ホノリウス一世が死後破門された理由は、彼が、単意論*を促進していた人々の異端的教理を支持し、この異端を広めることを介助していたからです。

 

第三コンスタンティノポリス公会議の法令を確証しつつ、教皇聖レオ二世(682-683)は書簡の中で、教皇ホノリウスに対しアナテマを宣言しています*2。そして、「ホノリウスは、使徒教会を清めず、逆に汚れなき信仰が冒涜的背信により汚染されるがままにした」と述べています。*3

 

いくつかの聖務日課書では16世紀もしくは18世紀に到るまで、(聖レオ二世の記念日である)6月28日の朝課の中で、教皇ホノリウスのことが異端者として次のように言及されてありました。

 

“In synodo Constantinopolitano condemnati sunt Sergius, Cyrus, Honorius, Pyrrhus, Paulus et Petrus, nec non et Macarius, cum discipulo suo Stephano, sed et Polychronius et Simon, qui unam voluntatem et operationem in Domnino Jesu Christo dixerunt vel praedicaverunt.”

 

「何世紀にも渡り、このように聖務日課書の中でホノリウスの異端罪が読み上げられていたという事実から示されるのは、(非常に稀なケースにおいて)ある特定の教皇が異端罪/異端普及罪に定められるというのは、歴代のカトリック教徒たちにとってスキャンダラスなこととして捉えられてはいなかったということです。」と1P5の編集者は述べ、次のような省察をしています。

 

「過去において、忠実な信者および教会ヒエラルキーは、ペトロの聖座における教導権に神的に保証されている『カトリック信仰の不滅性』と、(教えの行使における)『具体的教皇の不義や背信』との間を明確に区別できていたのです。」*4

 

さらにシュナイダー司教は、異端的教皇を退位させようとする試みは余りにも人間的な行為であるとし、次のように述べています。

 

 「是が非でも異端的教皇を退位させようとする人々の試みは余りにも人間的な行為の表れと言わねばなりません。こういった試みには究極的に言って、異端的教皇という私たちに課せられた一時的十字架を忍耐することへの不本意が反映されています。またそれは『怒り』というむき出しの人間的感情を映し出しているのかもしれません。

 いずれにしてもそれは、〔神の方法ではなく〕余りにも人間的な解決を提供していくでしょうし、それはある意味、政治の世界における人々の言動に類似しているかもしれません。

 教会および教皇制は単に人間によるものではなく神的なものでもあります。そしてーーたといそれが限られた期間に過ぎないとしてもーー異端的教皇という十字架は、教会全体にとって、考えられ得る限り最も重い十字架です。」

 

「教会全体の信仰は、一人の異端的教皇の誤りよりも偉大であり強靭なものです。そしてこの信仰は、異端的教皇によって打ち負かされることはありません。」*5

 

【追記】「ある教皇が異端者であること」と「教皇不可謬説」は果して調和し得るのだろうか?ーー私の問いと探求

 

皆さんはどうか分かりませんが、私にとってこの問いは決定的な重みを持っていました。「教皇不可謬説」というのはローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない*6」という教義のことを指しています。

 

私はこれまでプロテスタントや東方正教会の立場から、この教義は、1870年の第1バチカン公会議にて決定された一種の「イノベーション教理である」という批判を多く聞いてきました。(そして大体において私もそちら側の見解に同意していました。)しかしこの教理の形成過程を調べていったところ、自分の予想に反し、この思想自体には何世紀にも渡る長い教会的伝統の積み重ねがあり、また、教皇不可謬が成り立つためには相当厳しい条件が課せられているということを知り驚きました。(「教皇不可謬が成り立つ条件」)。

 

というのも、「教皇不可謬説」という言葉から私がこれまでイメージしていたのは、教皇が言うことは何でもかんでも無謬で間違いがあり得ないーーというものだったからです。そうしますと、勿論、教皇ホノリウス一世やその他の教皇たちの異端的言明はそれ自体、「教皇不可謬説」のドグマに対する説得力ある反証であるように思われました。

 

しかしとりあえず現時点において自分の中で明らかになったのは、「教皇不可謬説」の内実は私が考えていたようなものではなかったということ、それゆえに、「『ある教皇が異端者であること』と『教皇不可謬説』は果して調和し得るのだろうか?」という私の問い自体がもしかしたら的を外したものであったかもしれないと再考しています。

 

そしてそこから別の問いが起されてきました。それは何かというと、「それではなぜ1870年の第1バチカン公会議で教皇不可謬が教義として正式に宣言されるに至ったのだろう?」という教義発展の経緯にかかわる問いです。今後この領域を掘り下げていくことができたらと思っています。

 

ー終わりー

 

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