巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

典礼という汲み尽くし得ない神秘ーーヨーゼフ・ラッツィンガーの幼少期の思ひ出

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ヨーゼフが7才の時に、幼子イエスさまに書いた手紙(1934年)。「しんあいなる幼子イエスさま。いそいで地上におりてきてください。あなたは子どもたちに喜びを運んできてくれます。ぼくにも喜びを運んできてください。ぼくはショットのミサのご本と、ミサに行くときのためのみどり色の服と、それからイエスさまの心がほしいです。いつも良い子でいます。ごきげんよう。ヨーゼフ・ラッツィンガーより。」出典

 

 

ベネディクト16世ヨーゼフ・ラッツィンガー著(里野泰昭訳)『新ローマ教皇ーーわが信仰の歩み』(春秋社)より一部抜粋

 

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教会の暦は一年の月日の時間にリズムを与えました。私は子どもの時から、大いなる感謝と喜びをもってそれを受け入れておりました。

 

待降節には、早朝のまだ暗いうちから、ろうそくの火で明るく灯された教会の中で、グレゴリオ聖歌によるミサが盛大に祝われました。クリスマスの喜びの先どりともいうべき、この待降節の喜びは、当時の陰鬱な日々に、その特別な刻印を与えたのでした。

 

私たちの家の厩の飾りつけは、毎年その人物の数を増していきました。また父と一緒に森に行き、苔、ねずやもみの枝を持ってくるのは特別の喜びでした。

 

四旬節には毎木曜日にオリーヴ山の礼拝が行われました。その張りつめた真剣さとすべてを神に委ねる信頼は、私の心に深く沁みとおったのでした。

 

特に印象深いのは、復活祭の典礼でした。聖週間のあいだ、黒いカーテンが教会の窓を覆っており、教会は日中も神秘的な暗闇に覆われていました。

 

司祭の歌う「♪キリストは復活された」の歌声とともに、カーテンは一度に落とされ、輝く光が教会のなかにあふれるのでした。これは考えられるかぎり、もっとも印象的な主の復活の表現でした。(中略)

 

私の両親は早くから、私たちに典礼への道を見いだすように助けてくれました。はじめは、ミサ典書に準拠した、子どものためのお祈りの本が与えられました。そこにはミサにおける司祭の仕草が絵で示されており、ミサの最中に何が行なわれているかを理解しながらついていくことができました。さらに、典礼の個々の部分について本質的なものを含んでいる祈りの言葉がとりあげられ、子どもにわかりやすいように説明してありました。

 

次の段階では、私は子どものためのショット〔管理人注:教会のミサ典書をドイツ語に翻訳したボイ論のベネディクト会士アンセルㇺ・ショットの訳を含む典書のこと。〕を与えられました。そこには典礼の中心的なテキストが、そのまま印刷されていました。

 

その次は日曜日のショットで、そこにはすべての日曜日と祝日の典礼が、完全なかたちで提示されていました。最後には、年間のすべての日のミサのテキストの載っている完全なミサ典書でした。

 

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ショットのミサ典書(出典

 

典礼に近づいていくひとつひとつの段階が、私にとっては大きな経験でした。そのたびごとに与えられた新しい祈祷書は、私にとって、それ以上美しいものは夢見ることもできないような宝物でした。

 

私たちの前で、私たちのために、いま、ここ、祭壇の上で行なわれている典礼の神秘的な世界に徐々に入っていくことは、魅惑的な冒険でした。

 

St Michaelâs Mount, Cornwall #StainedGlassCathedral

出典

 

私はそこにおいて、誰かが考え出したのでも、教会当局がつくりだしたのでも、ひとりの偉大な個人がつくりだしたのでもない、神から与えられたひとつの現実に出会っているのだという意識を、ますますはっきりと持つようになりました。

 

ミサの言葉と行為の織りなすこの神秘的な織物は、世紀を通じて教会の信仰のなかから生まれ、成長してきたのでした。それははじめから現在にいたる歴史という船荷を、みずからのうちに包んで私たちに届けてくれるものであり、それにも拘らず、単なる人間の歴史の産物以上のものです。

 

すべての世紀がそれぞれの跡をそこに刻みつけてきました。導入部は、何が初期の教会から、何が中世から、何が近世からのものであるかを示してくれます。

 

すべてが論理的に組み立てられているのではなく、各部分はたがいに入り組んでおり、道筋を見いだすことは、しばしば容易ではありません。しかしまさにそのゆえにこそ、この建築物はすばらしく、ひとつの心の故郷となっているのです。

 

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出典

 

もちろん子どもの頃に、これらすべてのことを理解したのではありません。しかし、典礼とともに私が歩んだ道は、すべての個人と世代を超える偉大な現実、常に新たな驚きと発見へと導く偉大な現実のなかへ、徐々に成長していくプロセスでした。

 

カトリック教会の典礼という現実の、汲み尽くし得ない神秘は、私の人生のすべての道程において、私につき添ってくれました。

 

ー終わりー