正統性(正説)がオプショナルなものとなる時(by フランシス・J. ベックウィズ、ベイラー大学)
フランシス・J・ベックウィズ(元福音主義神学会会長、現ベイラー大学宗教学教授)testimony
Francis J. Beckwith, Neuhaus’ Law and Beckwith’s Law(拙訳)
キリスト教誌 First Things の創刊者である故リチャード・ノイハウスが次のような金言を遺しています。
リチャード・ジョン・ノイハウス(Richard John Neuhaus, 1936 – 2009)
「正統性(正説)がオプショナルなものとなる時、遅かれ早かれ正統性は追放・排斥されていくようになるだろう。」*1
ノイハウス神父によれば、神学的に言って、正統性(正説)には、「〔この世界には〕正しい教えがあり、間違った教えがある。そしてある教えは、神学的伝統が許容する範囲〈内〉にあり、別の教えは許容範囲の〈外〉にある」という内容が付随しています。
ですから、カトリシズム内では、「神の摂理と人間の自由〔意志〕」というテーマに関し、人はモリニズム(Molinism)やトミズム(Thomism)を受容することはできますが*2、オープン神論(Open Theism)*3を受容することはできません。
カトリック神学は、多くの神学的テーマに関し、多様な選択肢を許容していますが、それらの選択肢はいずれも、聖書および聖伝の枠内にとどまっていなければなりません。
しかし正説(orthodoxy)を受容するという要求がオプショナルなものとなる時、そこから必然的に生じてくるのは、教会員たちが「正統教理が存在し、虚偽の教理もまた存在する」と信じることを教会が信徒に要求することは間違っているという観念です。
その結果、ノイハウス神父が言うように、「正統性/正説がオプショナルなものになる時、そこからーーリベラルな〈寛容〉という規則の下ーー、一体何が正しく何が間違っており、何が真で何が偽であるのかを語ることに対する〈非寛容〉が不可避的に生じてくるようになります。」*4
それゆえに、新しい‟正統性”が勃興してくる時、そこに付随しているのは、教会があたかもそこに正しい神学的教理および虚偽の神学的教理が存在しているかのように振る舞うことは実際、間違っているという観念です。*5
ゆえに、異端教理を受容している疑いのある人物に対し、教会的な審問を提案する聖職者は今後、彼の為したその提案行為ゆえに、周縁化され、さらに、より高位の聖職者たちによって処罰されるようになっていくでしょう。
ー終わりー