巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

改宗という文脈の中における「信仰」と「理性」ーー元無神論者デヴィン・ローズ師の証し

Related image

ローズ家の人々(出典

 

目次

 

Devin Rose, Faith and Reason in the Context of Conversion, 2010, Devin Rose - Former Baptist & atheist, 2014.(拙訳)

 

キリスト教棄教者の家庭に生まれる

 

私の両親は、学生時代にキリスト教を棄教した無神論者であり、私は無神論的環境の中で生育しました。

 

小学校低学年の時から、教会学校に通うクラスメートの子たちに「知ってる?神様ってね、本当は、いないんだよ。」と熱心に説いていましたので、自分はちょっとした子供版 ‟リチャード・ドーキンズ” だったのかもしれません。

 

無神論からキリストに向かおうとした最初の動機は全くの絶望からの救いを求めてでした。大学在学中に私は臨床的鬱病を患い、パニック発作および広場恐怖症を伴う不安障害に苦しみました。自分の無神論は真っ暗な絶望以外なにも提供していないように思われました。

 

そんな中、キリスト教はなにかもっとましなものを提供しているように思われ、一か八かそれを「試してみよう」と考えたのです。私は一種の科学主義を信仰する家庭環境で育ちました(つまり、人の世界観を形成するに当たり、自然科学だけが唯一の権威ある源泉であるという信奉)ので、神を信じるという思想、ましてや神が人になったというような考えは、不合理なものに思われました。

 

しかし、神信仰というのをトライしてみたところで何も損はない。それに結局、今のところ何をしてもパニック発作はおさまらないのだからと思いました。「仮に神がリアルなのだとしたら、その神は私を助けるはずだ。そして神が存在しないのなら、架空のその神を信じようとしてみたトライ行為は単なる無為だったということにはなるけれど、それは少なくとも今ある自分のどん底状態をより悪化させることにはならないだろう」と。

 

神を信じようと ‟トライ” してみる

 

そこで私は自分が真だと認識していた数多くの無神論的信条をあえて抑圧しつつ、なんとか神を信じようとしてみました。また次のような単純な祈りを唱え始めました。「神よ、私は一度もあなたの実在を信じたことがありませんが、今私はどん底におり、助けを必要としています。仮にあなたが実在しているのなら、私を助けてください。」

 

また、10歳の時にいとこからもらった古い欽定訳聖書が今も本棚に眠っているのを思い出し、それを読み始めました。すると驚くことに、その後数か月の間に、不安障害がやや快方に向かい始め、もっと聖書を読もう、もっと祈ろう、もっと信じてみようと自分を誘うなにかを感じ始めました。

 

福音主義プロテスタントの友人たちに質問する

 

私には福音主義プロテスタントの良い友人たちが何人かいました。キリスト教信仰に関し私には山ほど質問がありました(特に、いかにキリスト教徒が自らの信仰を進化論と和解させているのかに関する問題)が、友人たちはそれらに対する回答を持っていました。

 

バプテスト信者になる

 

こうして私は友人たちのバプテスト教会に通い始め、さらにキリスト教信仰について学んでいきました。数か月後、私は洗礼を受け、たちまちの内に熱烈な福音主義者になりました。かつて徹底した無神論者であったように、今度は徹底したプロテスタント信者になったのです。

 

教会の方が私にNIVスタディー・バイブルというものをプレゼントしてくれ、私は聖書本文およびそこに書いてある註解を隅から隅まで熟読していきました。聖書の学び会、分かち合いの会、プレイズ&ワーシップ、貧しい人々への奉仕ーー私はキリストにある新しい人生を歩み始めていました。

 

その時はよく分からなかったのですが、私はキリスト教信仰の中でも、「福音主義プロテスタント的理解」に基づく教えを吸収していました。それは純然たる改革派でもなく、アングリカンでもなく、ルター派でも、メソディストでも、アナバプテストでもなく、それら全ての中のそれぞれ幾つかの部分を混ぜ合わせミックスさせたようなバージョンの信仰でした。

 

この分裂状況をどのように考えればいいのだろう?

 

しかしながら、クリスチャンになって6カ月後、私は、自分たちの周りには他にもたくさんの諸教会があり、そういった教団教派の信条にはかなり違いがあることに気づくようになりました。

 

無神論者だった時にも一応、キリスト教内にそういった相違があるに違いないだろうことは知っていましたが、キリスト教の各種バージョンは皆、当時自分のいた立場から余りにも隔絶した所に位置していたために、それらの内輪的相違は言ってみれば、自分にとって ‟どうでもいいこと”でした。しかしクリスチャンになった今、そういった違いが重要性を帯びるようになってきました。

 

イエス・キリストは神であり、聖書66巻が誤りなき神の言葉であるということを教わり、私はそれを心から信じました。またその他の標準的プロテスタント諸教理も受け入れました。

 

しかし、その同じ聖書を用い、且つ、ソラ・スクリプトゥーラ(聖書のみ)、ソラ・フィデ(信仰のみ)といった根本的教理を共通の土台としている私たちプロテスタント信者は、多くの重要な事柄においてかなり意見が食い違っており、その結果、絶え間ない分裂に次ぐ分裂により、プロテスタンティズムは何千何万という断片に細裂していました。

 

なにかがひどく間違っているように思われました。特に、イエス御自身がヨハネ17章の中で、御父と御子が一つであるように、私たちもまた一つであるということを明確に述べておられる事実を鑑みても、その疑問は自分の心から消えませんでした。

 

聖書正典は66巻か、それとも73巻か?

 

またこの時期、私は、カトリック教徒の使っている聖書は73巻であることを知りました。カトリックは、神の言葉に人間の造り出した伝統を付け足し、多くの点で聖書に相反することを教えていると聞いていましたので、正典に関しても例によって彼らは、正統聖書にいくつかの書をつけ足したのだろうと思いました。

 

「だが、それにしても。。」私は自問しました。「聖書が確実に66巻で構成されているということを自分はいかにして正確に知ることができるのだろう?」

 

私は正典に関する問題提起(canon question)をし、もちろん、プロテスタントの友人たちから、骨のあるしっかりした回答を得ることができるとかなり自信を持っていました。しかし予想に反し、彼らの回答は説得力に欠けていました。ーーいや、実のところ、彼らのほとんどはこの問題について考えてみたことさえない状態でした。

 

それで今度は私はインターネットに向かい、正典66巻の正当性を強固に擁護するプロテスタント論証を探し始めました。しかし癪に障ることに、そこで見つけた諸回答もまた脆弱なものでした。「これは一体どういうことだろう?」不安が募ってきました。

 

プロテスタント弁証家たちが提示している「諸回答」はしばし、プロテスタント正典に有利な歴史的証言を指摘することにフォーカスが置かれていました。確かにそういった歴史的証言があることは事実なのですが、問題は、カトリック側にもまた、有利な歴史的証言が数多く存在するということでした。(東方正教会もまた第二正典を受け入れていることは言うに及びません。)

 

仮に正典が初期2世紀の教会によって普遍的に合意されていたのだとしたら、おそらく、特定のカノンが明確に真の書であるという一つの確実性が与えられていたかもしれません。

 

しかしながらそういう事は起こりませんでした。実際には、最初の300年余りの間に、異なる正典リストが提案され、初代教会は紆余曲折を経つつ、長い間議論しながら、正典を識別していったのです。

 

正典形成に関する不明瞭な歴史的証言は、主要なキリスト教宗派によって今日受容されているいかなるバージョンにも、良心を拘束するに足る確実性を提供していません。

 

そうなると、プロテスタント正典に関する自分の信仰は、①神はーーどの書が正典に属するのかを教会が決定する過程でーー教会を誤りから守ってくださった。②しかし、教会が決定したその他の事項に関しては、神は教会を誤りから守ってくださらなかった、というアドホックな主張を繰り広げない限り、どうにも採算が合わなくなります*1

 

しかしながら私はすでに、「神は聖書正典66巻を通し、私たちに誤りなく伝達してくださった」という教理を受け入れた上で神に信仰を置いていました。そうなると、私はどうすればいいのでしょう。

 

一つの解決策として考えられたのは、プロテスタント正典が真であるということにとにかく‟信仰” を持ち、そうした上で、それを、自分の神学的前提の出発点として用いるというやり方でした。実際、私の福音主義の友人たちの何人かはこの経路を選び取っていました。そしてこのようなやり方で、アドホックな論理的誤謬を避けようとしていました。

 

前提主義(presuppositionalism)

 

しかしこの立場を救出しようとするこういった試みは、理性に反目するさらに悪い攻撃と化してしまっていました。つまり、前提主義(presuppositionalism)*2の誤りです。

 

前提主義というのは、「あらゆる世界観、あらゆる立場は、神学的諸前提を基盤にしており、真理を見い出す唯一の方法は正しい前提を選び取ることによってである」という考え方のことをいいます。これは真理を確定するための人間知性の持つ能力を疑う、一種の哲学的懐疑主義の一形態です。

 

仮に前提主義を受け入れたとすると、その暁には、自分は、自らの出発点を聖書73巻もしくは無謬の教会だと主張するカトリックに対しても、モルモン経典を自らの神学的前提として主張するモルモン教徒に対しても反駁する議論を持ち得ないということになってしまいます。

 

それなら、いっそのこと聖書の無謬性という信条自体を放棄してみる?!

 

その時点において私は、プロテスタント正典及びその66巻の無謬性を合理的に信じるための方法を見い出すことができずにいました。「それなら、いっそのこと、『無謬性』という信条自体を放棄してみたらどうだろう?」私は考えました。

 

そうすると、私は最初の立場の持つ誤謬を完全に避け、且つ、無謬性をベースにしたカトリックの正典議論をも回避することができるのではないでしょうか。

 

「おそらく、‟無謬の聖書”という概念ではなく、『神はクリスチャンに、指針および試金石としてのゆるい一群の書物を与えてくださった。それらの書物は、共同体の中で議論されるべく授けられた。これはどんな教理であれそれが真であるとの確実性を与えることはできないが、御霊の助けにより、神を喜ばせる生を生きることができるよう、私たちをそれなりに ‟十分に近く” 真理に接近させることはできる。』と信じるのが合理的なのではないだろうか。」と思いました。

 

またまた行き詰り

 

この立場にはアドホックな誤謬もしくは前提主義的スタンスはありません。なぜなら、この立場は、「神は誤りを免れ得ない人間を通して誤りなく事を為すことがおできになり、実際にそうされた」という信仰を欠いているからです。にも拘らず、これには問題がありました。まず第一に、御自身の啓示に関し、神が私たちをそのような暗闇の状態に放置しておかれたというのは理に適っていません。

 

もしも神がいかなる誤りからも人間を守られなかったのだとすると、キリストが使徒たちにお与えになった信仰内容は、すぐさま堕落していた可能性が考えられます。実際、これが、ジーザス・セミナーやバート・D・アーマン*のような学者たちの採っている立場であり、彼らは自らが権威的だと判断する歴史的著述群のサブセットに適合させるべく、「イエスが本当に教えていたこと」という独自の諸理論を造り出しています。

 

仮に人が、誤りから真理を守った神の守りを否定するなら、伝承された神的啓示の可能性は完全に喪失してしまいます。そうなると、信用おける権威としての生ける教会に寄り頼む代わりに、「アカデミック界のどの界隈の人々に信頼して追従していくべきなのか」私たちはそれを選ばなければならなくなり、自分の選択した学者たちが信頼のおける人たちであることを望むより他に道がなくなります。

 

さて、どうしようか。ーー十字路に立つ。

 

自分はその時、十字路にいました。自分の信仰を放棄するか、あるいは信仰のためのより合理的土台を見い出すか。。二つの選択肢だけが自分に残されているように思われました。①神は一つのキリスト教教派の教えを誤りから守ってくださった。もしくは、②神はそうなさらなかった、です。

 

しかし未だ、新たに見い出した自分のキリスト教信仰を放棄する気にはなれませんでした。「キリスト初臨後2000年以上経った今も、私たちが真理を知ることができるよう神はなんらかの形で確証してはおられないのだろうか?」そこで私は、神がある種の教会を誤りから守ってくださったという一番目の選択肢の方を探求してみることにしました。

 

調べてみると、「自分たちの教会はそういった誤りから守られている」と自己主張している尊大な教派が二つありました。一つはモルモン教。そしてもう一つはカトリックでした*3 。そしてモルモン教は、無神論者の視点からも、福音主義プロテスタントの視点からも、信憑性に欠けていましたので、私は自分がすでに恐れ、且つ疑念を持っていた機関である、カトリック教会について詳しく調べていくことにしました。

 

教父文書を読み始める

 

教父文書を読み始めると、さらに不吉な予感が高まっていきました。教父たちの教えがカトリック教会の教えときっかり一致しているのかどうかについてはその時点でまだ確証はできませんでしたが、一つ確かだったのは、教父たちの信仰内容は自分のバプテスト信仰とはかなり異なっているということでした。

 

例えば、洗礼による再生に対する教父たちの一致した見解は否定しようがなく、私の心は動揺しました。というのも、もしそうなら、その教理が正しい(そして象徴オンリーの自分のバプテスマ見解は間違っているということになります)か、もしくは教会がまたたく間に深刻な教義的誤りに陥ったか*4、ということになるからです。

 

カトリックとプロテスタントを分け隔てている諸教理をさらに検証していく中で分かってきたのは、教父たちの著述は強固にカトリック側の立場を後押ししているということでした。一カ所、プロテスタント独自の教えをサポートしているように受け取れる箇所があったとしたら、他の20カ所以上は、プロテスタンティズムとは全く不調和、という有様でした。

 

二重の改宗プロセスを経てーー豊満性の中にある真理

 

その後、集中的な学びと祈りの時期を経た後、私はカトリックになりました。なぜでしょうか?なぜなら、私はすでにキリストに信仰を置き、主は(当時自分が受け入れていた聖書の66巻において)誤りを免れ得ない人間を通して誤りなく御業を為すことができるという信仰を持っていたからです。

 

「それでは、信仰におけるその他の事柄においても神は、誤りを免れ得ない人間を通し誤りなく御業を為すことができるはずではないだろうか。そしておそらくは信仰に関するすべての事柄においてでさえも!」

 

そこに不合理性は見い出されず、さらに、無謬性に関するカトリック教会の主張を受け入れることにより、プロテスタントとしての自分がそれまで受容していたーー神は66という特定の事例においては誤りなく働かれたが、その他のケースにおいてはそうではなかったというーーアドホックな論拠に解決がもたらされます。

 

私は、無神論⇒プロテスタンティズム⇒カトリシズムと、二重の改宗のプロセスを辿りました。私はカトリック教会とのフル・コミュニオンの外側でイエス・キリストに信仰を持つに至りましたが、それが可能だったのはひとえに神の恵みによります。主は実に慈悲深いゆえに分離(schisms)の状態にあってさえも、すべての人が神を知るようにとの主の御思いを阻止することはできません。

 

祈りと学びを通し、自分のプロテスタント信仰を支えていた論拠には欠陥があることを認識するようになりました。神は、理性と矛盾するようななにかを信じるよう私に要求はなさらないということを知っています。

 

またヨハネ17章からも、私は、神が私たちの間の一致を望んでおられることを知りました。しかし、ソラ・スクリプトゥーラの原則はプロテスタントがその一致を達成することを不可能にしています*

 

ですからやはり何かがおかしいわけです。①ソラ・スクリプトゥーラが間違っているか、もしくは、②真理の豊満性の中における一致に達する上で神は私たちに不十分な手段しかお与えにならなかったか、どちらかです。

 

主を知る以前にさえ、主は、神なしの私の人生は空虚で無益であるということを悟る理性を与えてくださっていました。そして主は私を絶望という場に導き、それによって謙遜にさせられた私は自分が神の助けを必要としていることを認識できるようになりました。

 

クリスチャンになった後、主は再び、さまざまな理由を通し、カトリック教会がその主張しているところのものであるという事を示してくださいました。もちろん、これらは何一つとして驚くべき恵みの注ぎなしには起こり得ませんでした。

 

神はご自身の教会にすばらしい贈物をくださいました。それは美しく信仰に富んでいると同時にまた、大いに合理的でもあるのです。もしもそのどちらかが欠けていたら、私たちが教会を発見するのは計り知れないほど困難なものになっていたことでしょう。

 

しかし神はご自身の知恵の中で、ーー恩寵が自然を礎にしているように、信仰は理性を礎にしており、信仰は理性を根絶やしにしたり、それを不必要なものとはしないーーということを私たちに示してくださっています。

 

ベネディクト教皇は最近、トマス・アクィナスについて語り、「認識に至るリ両方の道ーー信仰と理性ーーに対し聖トマスが置いていた信頼は、両者共に全ての真理(「神的ロゴス」)という単一の泉から由来しているという彼の核心に辿ることができ、それは創造の領域においても贖罪の領域においても働いているのです」と述べています。*5

 

豊満性の内にある真理は教会の中に見い出すことができ、すばらしいことに、その真理は、最も秀逸なる哲学者によっても、最もシンプルな労働者によっても同様に知られ得るのです!私たちが真理の中で一致し、一致の方に向かっていくことができるよう心を合わせ共に祈り続けていきましょう。

 

ー終わりー

*1:訳注:

Called to Communion - Episode 11 - The Canon Question.mp3

*2:

Faith and Reason (Podcast mp3). To gain a better understanding of the error of presuppositionalism, see Bryan Cross’ helpful blog post or this Called to Communion article

*3:My understanding of the Orthodox was that they claimed to be the true Church but only claimed infallibility of the first seven ecumenical councils. At the time of my conversion, I only examined the Orthodox claims in a cursory way, but having done more in-depth study over the past ten years, I remain convinced that the Catholic Church is the Church Christ founded.

*4:Interestingly, Protestant apologist William Webster also concedes that the Church went off the rails on baptism early on, in his book, The Church of Rome at the Bar of History

*5:Papal Audience on 6/16/2010.関連論文: 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 「信仰と理性」 

http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/