巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会分裂(schism)を分裂として直視する(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

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出典

 

Bryan Cross, Seeing Schism as Schism(拙訳)



ある罪が浸透し、それがもはや「当たり前」のことになる時、私たちはその実態をあるがままに見る能力を喪失しがちです。その罪はもうすでに、「みんながやってる」フツーのものとしてしか認識されなくなっています。そして私たちはその悪を見失い、それを当然のものとみなすようになります。

 

それは私たちの日常生活の中に溶け込んでいます。そしてもはやそれを悪として見なくなる時、私たちは、それを取り除こう、除去しようとする努力もしなくなります。

 

私たちはこの分裂状況を、堕落した ‟人間本性” ゆえのものであるとした上で、「唯一の治癒はキリストの再臨なんです」と言います。それだけでなく、分裂あるところに一致と和解をもたらそうとしている人々を、愚鈍な理想主義者として侮蔑する人さえいます。

 

罪一般に当てはまることは教会分裂(シスマ;schism)についても同様に当てはまります。教会分裂の事実はあまりにも当たり前のことになってしまっているため、今日、それをあるがままの姿において直視している人はほとんどいません。ーーあたかも、昔々の悪の一つであった分裂というのはすでに消滅し、今日の私たちにはなんら関連性がないとでもいうかのように。

 

そう、それは、遍在し、日常化したことによって、‟姿を消した” のです。私たちは多様性という美名の下に、schismを一掃し、分裂という事実を ‟新しい一致” とみなそうとしています。

 

同じ市内に、カトリック教会があり、正教会があり、バプテスト、メソディスト、長老派、ルーテル派、改革派、聖公会、ペンテコステ、単立教会、セブンスデー・アドベンチスト教会等、、、の建物が並存しているという事態に私たちはもう慣れっこになっており、もはや何とも思わなくなっています。

 

こういった各教会の建物をながめ、私たちの多くは、「まぁ、こんなもんなんだろうね」と受け流しています。「ああ、私たちはなんと痛ましく分裂していることだろう。なんたる惨状だろう。」と嘆く人はどこにいるでしょうか。

 

教会分裂はあまりにも当り前のことになっているため、私たちはもはやそれを分裂として見ることができなくなっています。

悪を克服するための最初のステップは、それを悪として認識することです。そして教会分裂を克服するための最初のステップは、それそのものの姿を直視し、私たちの間に存在する分裂を分裂として認めることです。主よ、私たちにそれを見る〈目〉を与えてください。

 

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