巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(by ブライアン・クロス&ニール・ジュディッシュ)【その6:派生的権威という誤想】

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本稿内の小見出し

 

執筆者

 

bryan

ブライアン・クロス(Bryan Cross)。敬虔なペンテコステ派の家庭に生まれる。医療宣教師を目ざし、医学部に進学するも、信仰と科学との両立問題で葛藤を覚え、医学の道を断念。大学卒業後、改革派(長老派)の信者になる。カベナント神学校卒業(M.Div.)。2003年、聖公会に移る。さらに2006年10月、妻と二人の娘と共にカトリック教会とのフル・コミュニオンに入る。セント・ルイス大学にて哲学博士号。現在、マウント・マースィー大学哲学科助教授。(testimony

 

Neal Judisch

ニール・ジュディッシュ(Neal Judisch)。メインラインの福音主義家庭に生まれ育つ。10代後半に、改革派信仰を受け入れる。米国長老教会(PCA)、正統長老教会(OPC)で信仰生活を送りつつ、真理の探究を続ける。2008年、妻と6人の子供と共にカトリック教会とのフル・コミュニオンに入る。テキサス大学(Ph.D.)。現在、オクラホマ大学哲学部助教授。専門は形而上学、宗教哲学。

 

第4章.なぜソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違がないのかについて

 

C.派生的権威(derivative authority)という誤想

 

「ソラ」と「ソロ」を区別したい

 

キース・マティソンは、「諸信条、伝統、全地公会議、教父は、派生的権威を持つ真正なる二次的諸権威である」と主張しています。

 

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キース・マティソン(Keith A. Mathison;1967~) *1

 

彼のこのような主張の背後にあるのは、「ソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラを区別したい」という彼の願望です。それゆえに彼は、上記のものの真正さを認めながらもそれと同時に、それらが「二次的」権威であると言っているわけです。

 

それではマティソンの言う「二次的」とか「派生的」とかいうのはどういう意味なのでしょうか。彼は次のように説明しています。

 

「伝統、教父、そして教会(Church)は皆、生来的に誤りを免れ得ない諸基準です。つまり、こういった誤りを免れ得ない諸伝統、教父、教会は、一つの無謬にして完璧なる基準によって査定されなければならないということです。」*2

 

そして彼は教会の権威について次のように書いています。

 

 「教会の権威は以下の事実によって構成されています。--教会は聖書と共に信託されている(ローマ3:2)、教会は聖書の宣言者であり擁護者である(1テモテ3:15)、教会はコミュニオン(交わり)のために教理的諸裁定をしなければならない(使徒15:6-35)。

 

 こういった諸裁定は通常、教会の諸信条や信仰告白における公的表現の内に見い出されます。しかしこういった権威的諸裁定は聖書の最終的権威と混同されてはなりません。前者の権威は、生来的に権威的『神の御言葉』との整合から引き出され、またそれに依拠しています。」*3

 

前項で見てきましたように、マティソンは「ソロ・スクリプトゥーラの支持者たちは教会および諸信条という二次的(派生的)権威を認めていない」と主張しています。

 

でも結局、両者の間に本質的違いはない

 

しかしここで私たちが論証したいのは、結局のところ、マティソン自身の立場も本質的に、二次的権威の否定に相当するものであるという事です。マティソンは、諸信条やその他の教会諸裁定の権威は「生来的に権威的『神の御言葉』との整合から引き出され、またそれに依拠している」と言っています。しかし、思い出してください。マティソンによれば、聖書に対するあらゆる訴えは、聖書の諸解釈に対する訴えです。*4

  

それゆえに、諸信条やその他の教会諸裁定の権威は「生来的に権威的『神の御言葉』との整合から引き出され、またそれに依拠している」という考えは、ーー諸信条やその他の教会諸裁定の権威は、個々人の聖書解釈との十分なる整合にかかっているという事を内含しています。

 

換言すると、マティソンの立場は、諸信条やその他の教会諸裁定の権威は、それらが個々人の聖書解釈とマッチしている限りにおいてのみ ‟権威的” であるということです。しかし、そういった派生的権威の概念は、ーーマティソンがソロ・スクリプトゥーラだとしてあれほど拒絶しているーーレイモンド、ファッジ、スティーブンズなど*5のそれと結局何ら変わらないということになってしまいます。

 

マティソンの立場と、レイモンド/ファッジ/スティーブンズの立場の間の唯一の相違は、単なる偶発的相違に過ぎません。

 

マティソンの聖書解釈によれば、the eternal generation of the Son霊魂消滅説、ハイパー過去主義(hyperpreterism)などに対する教会の伝統的立場は偶発的に正しいのです。つまり、それらはマティソン自身の聖書解釈にマッチしているのです。他方、レイモンド/ファッジ/スティーブンズの聖書解釈によれば、教会の伝統的立場は正しくありません。

 

またマティソン自身、トレント公会議の教えを拒絶しています。なぜならそれらは彼自身の聖書解釈にマッチしていないからです。ですから、レイモンド/ファッジ/スティーブンズ陣営に対するマティソンの批判は次のようになるでしょう。

 

マティソン:「君たちは、私の聖書解釈に自らを適合させていない。」

 

そしてそれに対するレイモンド/ファッジ/スティーブンズ陣営の妥当な回答は、次のようになるでしょう。

 

「それが何だって言うのさ?何を根拠に僕らは自分の聖書解釈を君のそれに一致させなければならないのか。僕ら以上に君の方により高次の権威があるとでもいうのだろうか。そんな事はない。それにだ。君だって自分の聖書解釈に合わせ、公会議の中で賛成できる部分/賛成できない部分を選り好みしているじゃないか。だから、君が実際やっている事と、僕らのやっている事との間に、原則的相違はないってことさ。」*6

 

マティソンは、ソロ・スクリプトゥーラがーー個人を究極的な解釈権威者として取り扱うことによりーー、いかに教会的権威をむしばんでいるのかという問題の核心部分に触れ、次のように述べています。

 

 「ソロ・スクリプトゥーラはまた、キリストによって確立された合法的な教会的権威をむしばんでいます。ソロ・スクリプトゥーラは私たちの上に立てられている指導者たちに対する恭順の責務を無効にしています。なぜならそれは教会における権威的教導職の可能性を除去しているからです。いかなる種類であれ、長老や教師にリアルな解釈的権威を置くことはソロ・スクリプトゥーラの教理を弱体化させることになります。

 

 牧師や教師を自分の指導者として立てているソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちが牧師たちのリーダーシップを受け入れるのは、『各人がまず、その指導者の教えを御言葉によって評価する』ということを前提条件にしてのことです。これが実際、意味しているのは、『各個人が、自分自身の聖書解釈でもって自分の教師の聖書解釈を査定しなければならない』ということです。

 

 全地公会議や教会が、個人の信者と同様の権威しか持っていないとされる時、競技場は平らにされます。しかしキリストは ‟フラットな競技場” をお建てにはなりませんでした。主は民主主義をお建てになったわけではありません。

 

 キリストは教会をお建てになりましたが、その中において、男性や女性はそれぞれ異なる賜物を与えられており、その中のいくつかには教え導くという特別な賜物も包含されています。こういった長老たちには群れを牧する責務があり、彼らは群れを治めるある種の権威を持っています。聖書は、私たちの上に真の権威を持っていない誰かに従うようにとは言っていません。ヘブル13:17、使徒20:28」*7

 

ここでマティソンは「ソロ・スクリプトゥーラが、キリストによって確立された合法的な教会的権威をむしばんでいる」と論じています。そしてそれは教会の「権威的教導職」およびその聖職の有する「解釈的権威」を否定することによって起されます。

 

どのようにしてでしょうか?この点に関し、マティソンは明快に次のように言っています。ーー各個人が、自分自身の聖書解釈でもって自分の教師の聖書解釈を査定することによってである、と。

 

マティソンによると、神は民主主義としての教会をお建てになったのではなく、御自身の教会を教え統治するべく人々に特別な賜物を授けました。

 

アイロニー

 

しかしながらここでのアイロニーは、プロテスタンティズムの存在基盤それ自体、そしてプロテスタント信者をカトリック教会から分離させている基盤自体がまさに、〔マティソンの批判している〕内容そのものであるという点にあります。各個人が、自分自身の聖書解釈でもって彼の教会の教師の聖書解釈を査定し、そうすることによって、彼らは遂行的に、カトリック教会の教導職の権威を否定したのです。

 

マティソンは、(各個人が従う必要のある)二次的権威としての真正なる教会的権威を是認したいと欲しているのですが、彼の立場は次の二つの点で矛盾しています。まず第一に、プロテスタンティズムの存在は、各個人が自分自身の解釈をベースに、確立された教会的権威を拒絶することの合法性を基盤にしています。*8

 

ですから、マティソンはプロテスタンティズムの歴史的土台と互に相いれない体系を提示しようとしており、それゆえに、それはプロテスタンティズムと本質的に矛盾しています。

 

二番目に、マティソンは使徒継承を否定していますので、各個人が一体どの教会権威に従わなければならないのかという点に関し、彼はいかなる教会権威に対しても原則立った訴えをすることができません。有していないものを与えることはどだい無理な話です。しかしながらマティソンの基礎的出発点には使徒継承が包含されておらず、それゆえ、事実上、それは各個人を自身の至高の解釈的・教導的権威とするところからスタートしています。

 

ゆえに、「自分と充分に同意している人の承認」から引き出される教導的・解釈的権威以上に質的に高い教会的権威は、マティソンには入手不可能です。そしてあらゆる二次的権威は、個人のための権威として機能すべくーー個人から ‟二次的権威” にまで引き伸ばされたーー承認であるにすぎません。

 

信条権威(creedal authority)

 

尚、マティソンは正しくも、信条権威(creedal authority)を否定することに付随する問題点を次のように指摘しています。

 

「現代福音主義の、信条権威の否定は不可避的に、聖書の命題的内容を権威的かつ客観的に規定することを不可能にせしめています。というのも、聖書の命題的教義内容を権威を持って規定するという行為自体が、ある信条の創造をもたらし、ーーそれは、ソロ・スクリプトゥーラの枠組み内では受容不可なものとみなされているからです。それゆえ、聖書の教義的内容の規定に関する責任は各個人に帰されることになります。言い換えますと、現代福音主義による、真正なる信条権威の否定は、キリスト教の教義的内容を単なる主観主義の次元におとしめる結果を生じさせているのです。」*9

 

「もしも全地公会議での諸信条に何も権威がないのだとしたら、キリスト教信仰における必要不可欠もしくは必要な諸教理は存在しないということになるという点を現代福音主義教会はしかと自覚すべきです。そうです、もしもそれらに何も権威がないのだとしたら、後に残るのはただ、『何がキリスト教信仰における‟必要不可欠な諸真理”なのか』に関する主観的な個人の諸意見のみということになるのです。」*10

 

ーーーーー

「ソロ・スクリプトゥーラは聖書の命題的教義内容を権威的に規定する可能性をむしばんでいる」というマティソンの指摘は正当なものです。また、諸信条の権威を軽んじることにより実質上、「キリスト教信仰における必要不可欠もしくは必要な諸教理は存在しないということになる」という彼の指摘もまた正当です。しかし皮肉なことに、マティソンの立場自体、それとそっくり同じことをしています。なぜなら使徒継承を否定することにより、彼は一つの信条が個々人の主観的意見よりもより権威を持っているという可能性をむしばんでいるからです。

 

使徒継承を除くと、ある信条の ‟権威” のための唯一の究極的基盤は、それが彼個人の聖書解釈とマッチしている、もしくは彼個人の聖書解釈と ‟それなりに十分にマッチしている解釈を持つ人々” によってそれが形成されているーーとなります。

 

しかし両者共に、結局は、「(私が同意する限りにおいて)自分が誰かに従う際、私が従う人というのは自分のことである」ということに帰着してしまい、これはーーマティソンが拒絶しているところのーーソロ・スクリプトゥーラの特質そのものに他なりません。

 

マティソン、聖書の明瞭性(perspicuity)に訴える

 

それではマティソンは自らの立場をこういった種類の批判から擁護すべくどのような試みをしているのでしょうか。彼は、「全地公会議での諸信条の権威は、聖書の明瞭性(perspicuity)から得られる」と論じ、次のように言っています。

 

「興味深いことに、こういった全地公会議での諸信条は必ず、聖書自身の根本的諸資質の一つーーつまり、その明瞭性ーーから導き出されています。聖書自身が、基本的にして不可欠なる事柄に関するその基幹的明瞭性ないしは明白性を示しているのです。」*11

 

「私たちが聖書の明瞭性を告白するのなら、全地公会議での諸信条の告白が不可避的にそれに続きます。公会議での諸信条は普遍的教会の信仰にかんする成文化された告白に他ならないからです。それらは全体としての教会が聖書の中に何を読み取ってきたかの告白です。」*12

 

「こういった信仰のコンセンサスに対する否定は、聖書の明瞭性に対する否定であるにとどまらず、それは事実上、聖書それ自体の否定にもなります。なぜでしょうか。ーーもしも聖書の肝要な諸教理が明確(明瞭)であるなら、そして聖霊が教会を聖書に関する真理の知識へと導くと約束してくださっているのなら、そして何千年に渡り、教会全体が聖霊に教えられつつ、聖書における同一の肝要諸真理を告白しているのなら、そこから結論されるのは、それらの諸真理は聖書が言っていることであるという事です。」*13

 

しかし上記のような言明により、かえってマティソンの立場は悪化しています。というのも、もしも公会議の諸信条の権威が聖書の明瞭性からのみ導き出されるのだとしたら、そもそも諸信条が作成される必要性がありません。なぜなら、その場合、諸信条というのはすでに聖書の中にはっきりと明示されているものを再表明しているに過ぎないということになるからです。

 

そうなりますと、諸信条に反対してきた人たちは盲目であり、耳しいであり、単なる馬鹿であったということになります。しかしながら歴史はそれとは異なる事実を証言しています。

 

例えば、アリウス主義者たちのことを考えてみてください。彼らは決して知性の低い人たちではありませんでした。彼らはキリストが神の被造物の初穂であり、より低い神性を持つ、あらゆる被造物の中の最も偉大なる存在であるということを御言葉から論じていました。

 

ネストリウス主義者、サベリウス主義者等、、、彼らは皆、それぞれの異端見解を御言葉から論じていました。そしてこういった論争に解決をもたらすことがまさに、全地公会議開催の主要目的だったのです。

 

ですから全地公会議の目的は、神学的論争の解決のためには聖書のみだけでは不十分であったという事実を表示しています。そして公会議の諸信条は聖書の再言明ではなく(それでは論争は未解決のままになってしまいます)、また一般的知性を持つ万人によって聖書から、単純かつ明白に演繹できる諸言明に限定されているわけでもありません。

 

公会議での諸信条は聖書の中で明白かつ明確には述べられていない教義的諸問題のことを言及しています。それゆえに公会議諸信条の権威は、聖書の明瞭性からは来得えないのです。

 

マティソンの立場は岩と堅い地の間で身動きがとれない状態に陥っています。一方において彼にはソロ・スクリプトゥーラを避けるために、諸信条および教会(Church)を二次的権威にしておきたいという願望があります。しかし他方、使徒継承を拒絶してしまっているために、(個人の聖書解釈との同意を除いては)いかなる二次的権威もその基盤を持ち得ないという、にっちもさっちもいかない状態に彼は置かれています。*14

 

もう一つのジレンマ

 

彼の立場は次に挙げる別のジレンマにも直面しています。彼は「聖書の正しい解釈を知るために私たちは教会に赴く必要がある。なぜなら、福音が見い出されるのは教会(Church)の中においてであるから」と論じています*15。しかしそれと同時に彼は、「正道から逸脱しやすい教会の傾向ゆえに、教会は一貫性があり確実なる真理の基準が必要であり、その基準は教会自身ではあり得ません。そう、それは霊感された無謬の聖書でしかあり得ないのです。*16」と言っています。

 

そうなると、どうでしょう。マティソンによれば、「聖書に対するあらゆる訴えは、聖書の諸解釈に対する訴え」です。そのため、彼が主張するごとく、教会が正道から逸脱する際、一体誰の聖書解釈が教会を ‟正す” のでしょうか。もしもそれを正すのが個人の聖書解釈であるならば、「聖書の正しい解釈を知るために私たちは教会に赴く必要がある」という、先ほどの彼の言明は虚偽であるということになります。

 

各個人に「教会は、私の個人的聖書解釈をベースにした矯正処置を受けるべく、切迫した必要性に迫られている」と信じる根拠がないのと同様、彼にはまた「教会の現在の聖書解釈は正しい」とアプリオリに信じる理由もありません。

 

他方、仮に教会が「正道から逸脱した」際、教会を ‟正す” のが個々人の役目ではないのだとしたら、教会を矯正するのは他ならぬ教会に属する事項であるということになります。

 

そうなると ‟逸脱した” 教会は、教会自身の誤った聖書解釈によって正されるということになります。これは信憑性に欠けるだけでなく、(仮にプロテスタントが真にこれを信じていたのだとしたら)彼らは分離などせずカトリック教会にとどまり続けていたでしょう。--‟逸脱した” 教会が、それ自身の誤った聖書解釈を基盤に真理へと引き戻されることを待ち望みながら。。。

 

しかしプロテスタントはカトリック教会にとどまりませんでした。そしてこれは、プロテスタントが過去においても現在においても、「教会が正道から逸脱した際には聖書が教会を正す」ということを信じていないという事実を示唆しています。

 

こういったジレンマを抱えるマティソンの立場における、問題ある前提は、教会が「正道から逸脱する」という彼の考え方自体にあり、これは彼が自身プロテスタントであることを正当化すべく、どうしても保持しなければならない主張点なのです。*17

 

 ー4章終わりー

*1:キース・マティソン(Keith A. Mathison;1967~):フロリダ州にあるリフォメーション聖書大学教授(組織神学)。ホワイトフィールド神学校(Ph.D.)、R・C・スプロール(編集主幹)、J・I・パッカー等と共に、『リフォメーション・スタディー・バイブル』の共同編集者を務める。主著:Dispensationalism: Rightly Dividing the People of God? (1995), Postmillennialism: An Eschatology of Hope (1999), The Shape of Sola Scriptura (2001), Given for You: Reclaiming Calvin's Doctrine of the Lord's Supper (2002), A Reformed Approach to Science and Scripture (2013), From Age to Age: The Unfolding of Biblical Eschatology (2014).

*2:Keith Mathison, The Shape of Sola Scriptura, Canon Press, 2001, p. 261.

*3:Keith Mathison, The Shape of Sola Scriptura, Canon Press, 2001, p. 270.

*4:“Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”.

*5:レイモンド、ファッジ、スティーブンズの「ソロ・スクリプトゥーラ」の立場についての詳細は以下の記事をご参照ください。

*6:John Calvin similarly says: 

In this way, we willingly embrace and reverence as holy the early councils, such as those of Nicaea, Constantinople, Ephesus I, Chalcedon, and the like, which were concerned with refuting errors – in so far as they relate to the teachings of faith. For they contain nothing but the pure and genuine exposition of Scripture, which the holy fathers applied with spiritual prudence to crush the enemies of religion who had then arisen. Institutes, IV.9.8.

The reason Calvin accepts the first four ecumenical councils, but not the following councils, is because the first four, but not the later ones, sufficiently agree with his interpretation of Scripture. This shows again the same problem described above: “when I submit (so long as I agree), the one to whom I submit is me.” In other words, Calvin does not in fact recognize the authority of the first four councils. Rather, he merely ascribes authority to them on the ground that these four councils agree with his own interpretation.

*7:Shape, pp. 251-252.

*8:In June of 1520 Pope Leo issued the papal bull titled Exsurge Domine in which he warned Luther that he faced excommunication from the Church unless he recanted 41 sentences contained in his writings. Luther responded by publicly burning a copy of this Church document in December of that year. As a result, on January 3, 1521, he was excommunicated. In the Spring of that year, Luther appeared before the Diet of Worms. He was asked by Johann Eck, an official of the Archbishop of Trier, whether he rejected any part of his writings. At first he said, “If I am shown my error, I will be the first to throw my books into the fire.” Eck replied, “Martin, …Your plea to be heard from the Scripture is the one always made by heretics. You do nothing be renew the errors of Wyclif and Hus. . . . Martin, how can you assume that you are the only one to understand the sense of Scripture? Would you put your judgment above that of so many famous men and claim that you know more than they all? You have no right to call into question the most holy orthodox faith, instituted by Christ the perfect lawgiver, proclaimed throughout the world by the apostles, sealed by the red blood of the martyrs, confirmed by the sacred councils, defined by the Church in which all our fathers believed until death and gave to us as an inheritance, and which now we are forbidden by the pope and the emperor to [debate] lest there be no end of debate. I ask you, Martin — . . . do you or do you not repudiate your books and the errors which they contain?” Luther replied, ” . . . Unless I am convicted by Scripture and plain reason — I do not accept the authority of popes and councils, for they have contradicted each other — my conscience is captive to the Word of God.” Roland Bainton, Here I Stand: A Life of Martin Luther, pp. 143-144 (Mentor, 1950).

*9:Shape, p. 278. 

*10:Shape, p. 278.

*11:Shape, p. 279. 

*12:Shape, p. 279.

*13:Shape, p. 280.

*14:This same problem faces Kevin Vanhoozer’s attempt to distinguish between magisterial authority and ministerial authority. See his The Drama of Doctrine: A Canonical-linguistic Approach to Christian Theology (Westminster John Knox, 2005).

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ケヴィン・ヴァンフーザー(トリニティー神学校).

*15:Shape, p. 270.

*16:Shape, p. 264.

*17:See our previous article, “Ecclesial Deism.”