巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

自然 and 恩寵/自然 or 恩寵(by ケヴィン・ヴァン・フーザー、トリニティー神学校)

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出典

 

目次

 

Kevin, J. Vanhoozer, Biblical Authority After Babel, Retrieving the Solas in the Spirit of Mere Protestant Christianity, 2016, chapter 1. Grace Alone.(抄訳)

 

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ケヴィン・ヴァン・フーザー(Ph.D.ケンブリッジ大)トリニティー神学校組織神学。主著に、Is There a Meaning in This Text? The Bible, the Reader, and the Morality of Literary Knowledge (Zondervan, 1998), The Drama of Doctrine: A Canonical-Linguistic Approach to Christian Theology (Westminster John Knox) and Remythologizing Theology: Divine Action, Passion, and Authorship (Cambridge University Press, 2010) 等がある。

 

自然 and 恩寵/自然 or 恩寵

 

序論で書いたように、宗教改革に対する最も驚愕すべく且つ深刻にダメージの大きい批判は、おそらく「宗教改革が、意図せずして、世俗化を生み出した」というものだと思います。*1

 

何人かの批評家たちは、宗教改革者たちが教会の教導権の権威を拒絶し、(それに付随するところの)礼典的・階層的世界像を否定した時点で、世俗化への流れは、実質的に"宿命化(foreordained)"されたと言っています。*2

 

もしそれが本当なら、それは痛々しく皮肉にそうであったと言わなければならないでしょう。なぜなら、神の恩寵ーー人間の意義ある行ない全てに先立つ、神の自己犠牲的イニシアティブへの絶対的優先ーーを回復したその同じ運動が、究極的にそれを失ったということになるからです。それに、そもそも、世俗化というのは、世界の脱神聖化(desacralization)に他ならないのですから!*3

 

しかしながら、すべては、「恩寵 grace」というのが何を意味しているのか、そしてそれがどのように「自然」に関係しているのかにかかっています。これは、ハンス・ウルス・フォン・バルタサルが「カトリシズムとプロテスタンティズムの間の『最後の本質的相違』と呼んでいるものに関連した、重大なる問いです。*4

 

中世スコラ学:恩寵は自然を完成する(制度的調停)

 

自然と恩寵の関係は、何と言っても、ローマ・カトリック神学における中心課題の一つです。トマス・アクィナスは中世スコラ哲学的見解を次のように見事に定義しています。「恩寵は自然を破壊せず、かえって自然を完成させる」*5

 

いかなる被造物も、その自然の制限を超えたところで行動することはできませんが、(恩寵が「その他の自然を凌駕するところの、神的自然の中におけるある種の参入」である限りにおいて)それは、被造物である人間がその被造能力を凌駕することを許容する賜物です。*6

 

そのため、アクィナスにとっては、自然は恩寵を運び(channel)、恩寵はーー神との合一という私たちにとってのまことの目的達成を許容しつつーー罪深い人間本性を癒し高めるものです。そしてこれが、少なくとも、15世紀から17世紀にかけてのアクィナス注解者たちの読みであり見解でした。例えば、トマス・カエタヌスは、アクィナス思想における恩寵の贈与性および超自然の思想を保持すべく、純粋自然(natura pura)という推論的概念ーー自律性およびそれ自身の統合性を持っていた堕落以前の自然の状態ーーを導入しました。*7

 

カエタヌスの解釈は、(それ自身の内在的力や目的を持つものとしての)アリストテレスの自然観に対するアクィナスの恩義を誇張したものであり、それゆえに、「恩寵」を、被造秩序にとって外的なもの、そして人間をして彼らが創造された目的を達成することを許容する「自然」に対する付加物(a donum superadditum)としました。

 

ローマ・カトリック教会を通してのみ有効であるサクラメントは、自然を完成する「恩寵」を付与する手段として捉えられていました。そして宗教改革者たちは、こういったサクラメント主義ーー特に免罪符によって得られる恩寵への近道切符ーーのことを、(恩寵が需給の法則に従属しているものであるかのように描き出す)救済の疑似商品だと考えたのです。

 

「純粋自然」:恩寵なしの自然

 

中世ローマ・カトリックとプロテスタントの間の主要な不同意点は、堕落した〔人間〕本性の能力に関することでした。*8

 

スコラ学者たちは、プロテスタントの「全的堕落説」に対抗すべく、純粋自然という概念を展開していきました。後期中世/初期近代スコラ主義者たちのアクィナス注解は概してカエタヌスに倣っており、「堕落した人間本性には少なくとも恩寵を受け入れ、恩寵と協働する能力が失われず保持されている」と主張していました。それに対し、宗教改革者たちは、「いや、それは違う。罪の中に死んでいる者たちは、『私は、より一層の恩寵を必要としています。』ということすらできない」と対抗しました。

 

するとカトリック者たちは、「あなたがたは、『恩寵のみ』という教理を主張することにより、自然(および人間媒介)に対する正当な見方から外れてしまっている」と難じました。しかし今、この議論にまつわる複雑な詳細に立ち入ることはできません。

 

顕著な点は、そういったカトリック注解者たちの何人かは、恩寵の贈与性(gratuity)を保持するべく、「純粋自然の範囲は、恩寵なしにもそれ自体として存在し得る」と主張していたことでした。「中世スコラ学者たち及び彼らの注解者たちは、自然の全き自律及び自然秩序を強調する傾向にありました。」*9

 

しかし自然に一歩譲ると、それは一里を取るようになるでしょう。興味深いことに「純粋なる自己包含した自然から近代世俗化へと導く軌道」のことに人々の注目を向けさせたのが他ならぬあのアンリ・ドゥ・リュバックだったのです *10 。リュバックは第2バチカン公会議に影響を与えた重鎮です。

 

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アンリ・ドゥ・リュバック(Henri de Lubac, 1896 - 1991)フランスのカトリック教会の枢機卿であり神学者。1913年にイエズス会に入会し、1917年には第一次世界大戦に従軍、第二次世界大戦の際には対独抵抗運動に参加した。仏教にも強い関心を示し、自らの神学書にその影響を反映させた。第2バチカン公会議にも参加し、「古代教会の復活こそ現代教会の活性化に一役買う」と主張した。1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に任命された。(参照写真

 

そしてこの事実は、ーー世俗化の責めを宗教改革に負わせるーーブラッド・グレゴリーの言述を困難なものにしています。第2バチカン公会議に関わった指導的ローマ・カトリック神学者たちの何人かは、スコラ学者および新スコラ学者たちのアクィナス解釈に、少なくともいくらかの責めがあるということを認めています。*11

 

自然が純粋もしくは自律的なものと捉えられる時、恩寵は本体論的に「二次的秩序」となり、その結果は、カール・バルトが正当にも指摘したように、現代神学の「世俗的悲惨」となります。*12

 

ー終わりー

*1:〔訳者注〕関連資料 

*2:Some commentators acknowledge that the unraveling of the sacramental tapestry began in the nominalism of the late medieval period but nevertheless fault the Reformers for not doing enough to halt or reverse the process (see, e.g., Boersma, Heavenly Participation, chap. 5).

*3:See further Charles Taylor, A Secular Age (Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press, 2007);

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↓チャールズ・テイラー氏へのインタビュー

↓デューク大学での特別講義「自己の起源と世俗の時代」

↓カリフォルニア大バークレー校での特別講義「モダニティーに関する支配的な物語(マスター・ナラティブ)」(7:00~講義スタート)

and James K. A. Smith, How (Not) to Be Secular: Reading Charles Taylor (Grand Rapids: Eerdmans, 2014). 

*4:The phrase comes from D. Stephen Long’s Saving Karl Barth: Hans Urs von Balthasar’s Preoccupation (Minneapolis: Fortress, 2014), 54. In context, the difference pertains to whether theology works according to an analogy of being (analogia entis) or an analogy of faith (analogia fidei). What is at stake is the way in which theologians speak of the relationship between Creator and creation. 

*5:Thomas Aquinas, Summa Theologiae I, q. 1, a. 8, ad 2. Translations of the Summa are from Summa theologica, trans. Fathers of the English Dominican Province, 5 vols. (Westminster, MD: Christian Classics, 1981).

*6:Aquinas, Summa Theologiae I.II, q. 112, a. 1.

*7:See Cajetan’s Commentary on Saint Thomas’ “Summa theologiae” (1540). 

*8:See further Gregg R. Allison, Roman Catholic Theology and Practice: An Evangelical Assessment (Wheaton: Crossway, 2014), 46–55. 

*9:Edward T. Oakes, foreword to Nature and Grace: A New Approach to Thomistic Ressourcement, by Andrew Dean Stafford (Eugene, OR: Pickwick, 2014), ix. 

*10:“De Lubac saw that such an emphasis upon an autonomous natural order found a natural home in secularism” (ibid.).

*11:Not all contemporary Roman Catholics would agree. Steven A. Long criticizes de Lubac and von Balthasar for abandoning Aquinas’s hypothesis that human beings could have been created without supernatural grace or supernatural end. See Long, Natura Pura: On the Recovery of Nature in the Doctrine of Grace (New York: Fordham University Press, 2010). 

*12:Karl Barth, Church Dogmatics I/1, ed. G. W. Bromiley and T. F. Torrance, trans. G. W. Bromiley (Edinburgh: T&T Clark, 1975), xiii. In context, the secular misery that Barth has in mind is that form of the knowledge of God associated with the analogy of being (analogia entis), according to which we may know God by inferring what he is like from his pale reflection in the entities of creation.