巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

どんなカテゴリー/カテゴリー体系も私たちに究極的リアリティーは提供していない(by ヴェルン・ポイスレス、ウェストミンスター神学校)

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Vern Sheridan Poythress, Symphonic Theology: The Validity of Multiple Perspectives in Theology, chap.7(抄訳)

 

どんなカテゴリー(範疇)を用いても、私たち人間は、形而上学的に究極的な「世界分析」を行なうことはできません。また、なにをもってしても、私たちが、有限なる知識と多様な視点(遠近法)を持つ被造物であるという事実を変えることはできません。

 

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引用元

 カテゴリーや主題と言う時、私の念頭にあるのは、「契約」「啓示」「預言者」「王」「祭司」といった聖書の主題だけでなく、その他の諸源泉から来るさまざまな用語、これらも含まれます。例えば、倫理に関する、規範的、状況的、個的遠近法や、「存在」「無限」「必然」「論理的」「理性」「現存」「精神」等の哲学的用語などもそれに該当します。

 

繰り返しますが、いかなるカテゴリー、主題、概念、そしてカテゴリー体系を用いたとしても、私たちには無限に深い世界分析を行なうことはできません。またどんなカテゴリーと言えども、その他のカテゴリーが為し得るものより先天的・本質的に透徹した分析は提供していません。

 

さらに、どんなカテゴリーを用いたにしても、私たち人間は、(剰余や残留物、or可能性としてあり得る中間的諸事例に関する不同意などの余地を全く残さず)世界もしくは世界のある側面を小ぎれい、さっぱりに二分することはできません。いかなるカテゴリーも(それが哲学、神学、自然科学、その他どんな学から来るとしても)、事象に関するある特定集団の本質を完璧に捉えることはできません。

 

この原則の真理を立証するには何通りかの方法があります。一つの方法としてですが、例えば、三位一体についてご一緒に黙想してみることにしましょう。まず、(「位格」「本質」というようなカテゴリーを含め)どのようなカテゴリーも、被造物としての私たち人間が、三位一体の神を理解する上での奥義(神秘:mystery)を解くことを可能ならしめていません。

 

確かに私たちは神が一であり、そして三位格の方であることを信じています。しかしながら実際、いかにして神が一(いつ)でありつつ同時に三(み)であることが可能なのかーーそのことを余すところなく網羅的・包括的に分析することはできません。

 

また、義や自己存在といった幾つかの属性だけをもって、神の本質に仕立て上げることもできません。(もしもその言明によって、「ただ一つの属性だけを、その他の諸属性の源泉として捉えることができるのであって、その逆はあり得ない」ということを私たちたちが意味しているのならの話です。)

 

さらに、神の諸属性は、三位一体としての神の御性質よりも「深い」ということはありません。つまり、どの属性も、--その他すべての属性がそこから派生するところのーー「最後のもの」ではないのです。

 

そうではなく、属性というのはその他の属性につながり、関連を持っているものとして見ることができるでしょう。人間の次元で言いますと、私たちはどんな属性をもその他の属性から引き出すことができると思います。開始する時の最初の属性に関するみなさんの観念をぐいと拡げ、伸ばしてみてください。そうすると、それは、それが引き出された属性に関連(ないしは包含)していることが分かるでしょう。

 

そして、今度は、唯一の神、三位格の交わり、そして幾つかの属性をもつものとしての、神存在の十全性・豊かさから考察を始めてみてください。そうすると、どんなカテゴリーも結局、神ご自身の奥義を解明するには十分でないことが分かるでしょう。

 

それでは神の被造物はどうでしょうか。神がお造りになったものは独立的に存在しているのではなく、絶えず神に依存しています(使17:28)。キリスト教世界観においては、神ご自身が、万事に対する唯一の真正なる究極的説明であられます。

 

もしも究極的分析を取得する上で、ある一つのカテゴリーがツールとして役割を果たし得るのだとしたら、それはいわゆる、神の「カテゴリー」、それ以外にあり得ません。そしてこれまで見てきましたように、神は常に私たちにとってはmysterious(奥義をもった、神秘的な)要素を残しておられます。

 

こういった議論はかなり抽象的だと感じる方がおられるかもしれません。では少し異なる種類の議論に進み、それもまた同じ原則の確証に至るということをみていきたいと思います。それでは、イエス・キリストにある神の啓示の究極性・最終性のことを考えてみましょう。神に関するこれ以上の究極的啓示はもう存在しません。

 

それゆえ、人間としての私たちの価値および、私たちの人生・世界に関する価値に関し、聖書にあるイエス・キリストに関する啓示以上の究極的啓示は存在しません。しかし私たちの内のある人々は、なにがしかのカテゴリーを、「これこそ、より深遠にしてより究極的であり、それゆえに聖書啓示の諸制限を決定づけている」と考えているかもしれません。

 

しかし、本稿で扱っているこの原則はそういった種類のカテゴリー手段によって聖書を「超え」、聖書の「上を行こう」とするいかなる試みをも禁じているのです。

 

企てられたそのような諸制限や歪曲には実例が豊富にあります。例えば、ある人々は聖書を「宗教」言語として分類し、そうした上で、「だから、聖書は時間と空間における出来事に関しては何ら意味ある主張をしておらず、それが主張しているのはただ単に、いくつかの『本体的(物自体の, "noumenal")*11』領域についてだけである」と論じているかもしれません。

 

こういった主張が理に適うものとされるのは、上述のような方法で用いられている「宗教的」「本体的」といった言葉が、世界に対しなにか深遠なる洞察を提供している場合に限ります。そういったキーワードは、世界観の重要な側面です。そしてこの世界観は、聖書それ自体の世界観とは異なっています

 

聖書の中には、神が、時間と空間の中で事を為し、予測することに関する数多くの言明や主張があります。ですから、聖書的世界観のにある「宗教的」「本体的」等のカテゴリーを分析すると、たちまちの内にそういった議論の中に虚偽の諸前提があることが明らかになります。

 

しかし、より一般的に言って、哲学やノンクリスチャンの諸宗教は往々にして、本格的諸世界観の顕れであることが少なくありません。こういった世界観においては、キーワードもしくは鍵となる概念として現れているある種のカテゴリーが、世界を解釈するための究極的枠組みを形成しています。

 

私たちキリスト者の理解が純化され、前進していく上で不可欠なことは、そういったカテゴリーをよくよく警戒して見ることです。

 

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例:フロイト精神分析理論におけるキーワードの一つである「無意識」(引用元

 

哲学や宗教は元来、深い献身やコミットメントを含むものであり、先行するそういったコミットメントが、組織的思想や鍵となるカテゴリーの構築に影響を与えています。それゆえ、私たちは、そこで用いられているカテゴリーに注意を払い、また、キリスト教世界観にとって有害となるような事柄をもしや彼らは前提しているのではないかと警戒する必要があります*2

 

神学の歴史において、アリストテレスおよびカントの諸体系は、彼らの追従者たちのいろいろなバリエーションと共に、他を圧倒的に凌ぐ甚大なる影響を及ぼし続けています。

 

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イマヌエル・カント(1724-1804)

 

現代の多くの思想家たちは事実上、「ええ、もちろん、私たちは皆、カント主義者たちですよ」という所見からスタートし、一たびカントの洞察を消化した者は、もう二度と前のようなカント以前の段階に戻ることはできないと考えています。

 

しかし私たちキリスト者は、その初めの段階からカントの諸カテゴリーを批判的に評価していく必要があります。フェノメナル/ヌーメナル(現象的/本体的)が解析されている方法、「経験」というカテゴリーが使われている方法、人間理性が着想される方法等は、聖書の神が存在しないということをすでに前提しています。

 

その代りに、そこにはカント的な代理神がおり、この代理神は、歴史の中に顕れることができず、受肉することができず、死者を蘇らせることもできず、またあらゆる人間理性のただ中にあり、私たちと親密な交わりを持っていないとされています。

 

ここでの私の論点は何か一つの特定哲学にあるのではなく、多種多様な哲学の中から頻繁に現れてくる種々の主張にあります。諸哲学は、「自分たちのカテゴリーは深遠なる知恵である。なぜなら、それらは世界もしくは人間精神の根源にまで達しているからである」と主張しています。

 

しかし私は申し上げたい。神が私たちに仰せになっている事以上に、(万事の)根源に達し得るものは他にないと。神の最終的言葉はイエス・キリストです。そしてこのイエス・キリストは私たちの好き勝手な想像によって作り出されたキリストではなく、聖書によって示されているキリストです。

 

また遠近法(視点;perspectives)に訴えることにより、冒頭の原則を支持することもできます。哲学的カテゴリーや組織神学の術語的カテゴリーはしばし、その精密さ・正確さが重宝されています。

 

しかし遠近法を発達させていき、その技術を用いていく中で、私たちは、こういった精密さ・正確さが実は幻想であったり、あるいは、恣意的な地点に境界線を引いた結果獲得されたに過ぎない精密さ・正確さであった(つまり私たちはそのカテゴリーを拡大させることも、あるいは縮小させることもできていたはずだということです。)という事に気づきます。

 

そしてひとたびこういった限界を目の当たりにするなら、世界を見る私たちの観点の中で、カテゴリーがユニークにしてある無比なる「深み」を提供しているとう主張は説得力を失っていきます。

 

特に、哲学者や神学者が提示しているカテゴリーはそれがどんなものであれ、一つの視点(遠近法)に変換することが可能です。私たちは類比を使うことにより、それを拡大することもできれば、縮小することもできます。

 

例えば、私たちは『純粋理性批判』の最初のページで提示されているカントの「経験」というカテゴリーが実際には何を意味しているのか自問するかもしれません。

 

訳者注:詳しくは次の記事をお読みください。


また言語学的アプローチによっても冒頭の原則を支持することができます。このアプローチの中で私たちは、自然諸言語の中での言葉の用いられ方を分析します。私たちの作るカテゴリーがそうであるように、言葉もまた不明瞭でぼやけた("fuzzy")境界線を持っています。

 

そしてこういった限界が「私たちは無限に鋭利な区分という手段を行使することにより、ある無限にして深遠なる知識を獲得しているのだ」という思想に対し障壁を作っているということを前項でみてきました。私たちの知識は純正で真実なものです。しかし、それは決して私たちをして神々にせしめはしません。

 

ー終わりー

*1:ヌーメノンについて:「ヌーメノン』(希: νοούμενoν、noumenon)、あるいは、その複数形の「ヌーメナ」(希: νοούμενα、noumena)とは、ギリシャ語の「ヌース」(希: νους, nous、精神)に由来する、「考えられたもの」「仮想物」を意味する語です。「フェノメノン」(phenomenon)や「フェノメナ」(phenomena)、すなわち「現象」と対照を成す語であり、ちょうどプラトンが言うところの「イデア」に相当します。イマヌエル・カントの哲学においては、「物自体」とほぼ同義で用いられています。参照

*2:この領域において、コーネリウス・ヴァン・ティルに私は教えられてきました。ヴァン・ティルは非キリスト教哲学の中に関連し、また前提されている宗教的諸ルーツを暴露していました。そしてこういったルーツは常に決まって、人間の自律に訴えており、それゆえ、聖書の神を拒絶するに至っています。この問題に警鐘を鳴らしたことにより、ヴァン・ティルは、「前提され、もしくは明確に神学的議論の中で援用されているカテゴリー体系」の再検証および批判のための道を拓いてくれたと思います。