巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

新約聖書の啓示の構造(ゲルハルダス・ヴォスの『Biblical Theology』より)

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一つの有機体、そして全体。

 

目次

 

Geerhardus Vos, Biblical Theology: Old and New Testaments (初版1948年、新装版2014年, The New Testament, One: The Structure of New Testament Revelation, p299-304を拙訳)

 

はじめに

 

新約聖書の啓示の構造が、聖書それ自身の内より決定されうる仕方としては、次に挙げる三通りあります。

 

「聖書それ自身の内より」という部分は非常に肝要です。なぜなら、私たちは、神的プロセスおよびその所産に対し、その他どんな外部資源からも何かの企図を押し付けるようなことはしたくないからです。

 

もしも、贖罪と啓示が一つの有機体を形成するのだとしたら、その他の有機体と同様、それは、ーーそれを私たちが順守する仕方により、あるいは私たちがそこからその構成の方式を受け入れることによりーー、それ自身の明確なる表現を私たちに啓示することが許されていてしかるべきでしょう。そして、ある絶頂点において、それはその内的成長の意識に達します。

 

①旧約聖書の中での表示から

 

旧約聖書の中での表示というのは、上記した三通りの方法の内の最初のものですが、それは旧約全体を流れ、満ち満ちています。

 

旧約聖書の経綸というのは、前方に向かって伸び(forward-stretching)、前方を展望する(forward-looking)経綸です。聖書宗教の事実主義に基づく性格により、その顔は必然的に新しい事柄に向かって据えられているのです。

 

預言はそれを示す最良の指標でしょう。なぜなら予測というのは、預言の中における偶発的要素ではなく、それの持つまさに本質に他ならないからです。

 

そして特に、終末的・メシア的預言は、未来の方向を向き、未来を指し示しています。しかもそれは、ただ単に、比較的高次の状態としての未来ではなく、むしろ、現在およびその諸発展の連続と対照した上での、「絶対的に完全且つ、永続する状態」としての未来を指し示しているのです。

 

それゆえ、ここにおいて、両者共に包括的に理解された上で、〈旧い何か〉と〈新しい何か〉の区別が、原則として掌握されています。

 

旧約聖書は、--その預言的態度を通しーー新約聖書を自明のこととして前提(postulate)しています。そして「新しい」という語が半意識的様態の内に顕れている聖句があり、それらは、「今ある状態(what is)」と「後にそうなる状態(what shall be)」の間のコントラストを示しています(イザ65:17;エゼ11:19)。

 

そして「新しい」というこの専門的語用は、成就の経綸に用いられている語彙の中にさえも入ってきています(マタイ13:52;マルコ16:17;2コリ5:17;黙2:17)。

 

また、こういった思想形態が一つのフレーズの中に見事に結晶化している預言的発話があります。ーーそうです、それは「新しいべリート, New Berith」、「新しいディアセーケー, New Diatheke」です*1

 

エレミヤ31:31-34.この箇所では、関連する「古いベリート」が、「新しいベリート」の傍に明確に現れているわけではありませんが、それでも、その思想自体は、御言葉の中に明瞭に与えられています。

 

「そのベリート(契約; בְּרִית)は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだベリート(契約; בְּרִית)のようではない」(エレ31:32a)。

 

実際、この預言の中では、「新しいベリート」という名の他にも、新秩序に関する最も際立った二つの特徴が記されています。

 

一つは、ヤーウェ神が律法を人々の心の中に書き記すことを通し、律法に対する従順の心をお造りになるということ、そしてもう一つは、完全なる罪の赦しがあるだろうということです。

 

また、現在の私たちが取り扱っているテーマに最も関連のあることで言えば、この「新しさ」というのは、ただ単に信心にかかわる状態を一般的に指し示しているのではなく、啓示および、神を知る知識という領域にまでそれが拡げられているということがかくも明確に示されています。「それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(エレ31:34b)。

 

②イエスの教えから

 

エレミヤの後には、旧約聖書の中でこのフレーズが再び繰り返されることはありませんでした。さて、次に私たちがこの句に再会するのは、最後の晩餐の席でイエスが語られた言葉の中で、です。

 

ご自身の血のことに関し、主はこれを「わたしのディアセーケー(契約)の血, τὸ αἷμά μου τῆς διαθήκης 」(マタイ、マルコ)と呼んでおり、杯のことを「わたしの血による新しいディアセーケー(契約), ἡ καινὴ διαθήκη ἐν τῷ αἵματί μου」(ルカ、パウロ)を呼んでいます。

 

ここで主が、ご自分の血(死)のことを、神に対する弟子たちの新しい関係性の基盤そして開始として表していることは明白です。

 

なるほど前者の関係性は「古い, 'the old'」と言及こそされていませんが、出エジプト記24章及びエレミヤ31章に含意されている暗示はーールカ(及びパウロ、1コリ11:25)における形容詞「新しい」の用法を別としたにしてもーー、主の御思いの中における〈過去に廃棄された何か〉と〈新しく取って代わった何か〉との間のコントラストの存在を浮き彫りにしています。

 

ちなみにこれは、ディアセーケーを'testament'と翻訳するか、それとも'covenant'と翻訳するかの選択とは無関係です。どちらの翻訳語にしても、宗教的特権に関する異なる二経綸間のコントラストが関わっています。

 

さらに、事物の新秩序が最終的・究極的重要性を持つものであるということは不明瞭に述べられているわけではありません。実にそれは、もう二度と変化や破棄の痛手を被ることはないのです。この新秩序は、遥かに終末論的状態にまで達し、それ自体がそれを永遠なるものにします。

 

この事は、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。*マタイはここで「あなたがたと共に, with you」と書き加えています。(マタイ26:29)」(ルカ「今から、神の国が来る時までは」)という厳粛なるイエスの宣言からも推測することができるかもしれません。ここで言う「新しい契約」とは、まずもって永遠の契約として現れています。

 

「なぜ、イエスはここで専ら神の国について話しておられるのか?神はそれ以前には御教えの中でこの概念をお用いになったことはなかったのに。」という問いに関してですが、本章ではその問題には立ち入らないことにします。

 

またもう一つの留意点として申し上げたいのが、ここで引き出されているコントラストは、まず第一に「啓示に関するコントラスト」ではないということです。ここでの言葉は、神に接近する事における新しい時代のことを物語っています。

 

神の自己開示に関する新しい時期に関し、そういった言葉は、(もちろん一般法の下で前提されてはいると思いますが)「宗教における漸進は、啓示における漸進に追随する」ということを語っているわけではありません。

 

③パウロ及びその他の使徒たちの教えから

 

それではイエスから今度は、パウロに移っていきましょう。パウロは、新約聖書の中で、贖罪の歴史と啓示の歴史との間の根本的二分(bisection)について、これを強靭に擁護しました。

 

それゆえ、彼は「律法」と「信仰」という二つの型・体制(regime)について語っているだけでなく、連続的な並びの形で「(それは信仰が来るまでのことで)信仰が来た以上は〔塚本訳〕,信仰が現われた以上〔新改訳〕, after that faith is come〔欽定訳〕, ἐλθούσης δὲ τῆς πίστεως 」(ガラ3:25)と表現しています。

 

それゆえ、パウロが、「新しいディアセーケー」と「古いディアセーケー」(2コリ3:6、14)の間に区別を置いていることもなるほど不思議ではありません。

 

また確かにここでの第一の対照は、二つの宗教的務めーー「文字に仕える」vs「御霊に仕える」/「罪に定める務め」vs「義とする務め」ーーの間のコントラストに置かれていることは確かでしょう。

 

にもかかわらず、モーセとパウロの間の宗教の務めに関する相違の根底にあるものとしての、「啓示における相違」という思想は、明確にそこに入っています。

 

そこにはまずモーセの「朗読, ἀναγνώσει 」、つまり律法の朗読があります。そして「語り 'speech'〔欽定訳〕」や栄光の主の「vision」(2コリ3:12,14、15、16)があります。

 

「古いディアセーケーの朗読」(14節)というフレーズから、ある人々は次のように推測するかもしれません。「ここで使徒パウロの念頭にあったのは、旧い正典と並んで採用されることになった新しい正典のことではなかったのか?」と。

 

しかし次の15節を見てください。この節を読むと、「古いディアセーケーの朗読」とは単に律法を読むことを意味しており、この律法とは、旧約聖書の中でしばしば、ベリート、ディアセーケーの名で呼ばれています。

 

それゆえに、15節での「モーセの書が朗読される時;(モーセ(律法)が朗読される度毎〔塚本訳〕;ἀναγινώσκηται Μωϋσῆς )は、「旧いディアセーケーが朗読される時」に置き換えることができるでしょう。

 

ヘブル人への手紙は、贖罪的進行にかんする構造(それも特に、啓示構造に基盤を置き、それによって決定されているものとしての構造)についての最も明確なる情報を私たちに提供してくれています。そしてこれに関し、単独の諸聖句を引用するには及びません。というのもヘブル書全体がそれで満ち溢れているからです。*2

 

ヘブル9章15節をみますと、「新しいディアセーケー(契約)」とあります。ここで「旧いディアセーケー」というフレーズは登場していませんが、実質的にそれに相当するその他のフレーズは登場してきています。聖書記者にとって、「旧いディアセーケー」から「新しいディアセーケー」への開示と、啓示の開示とが、互いにどれほど密接に結び合っていたかは、ヘブル書の冒頭の聖句からうかがい知ることができると思います。

 

1.Πολυμερῶς καὶ πολυτρόπως πάλαι ὁ Θεὸς λαλήσας τοῖς πατράσιν ἐν τοῖς προφήταις

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが [spake] KJV

2. ἐπ’ ἐσχάτου τῶν ἡμερῶν τούτων ἐλάλησεν ἡμῖν ἐν Υἱῷ, ὃν ἔθηκεν κληρονόμον πάντων, δι’ οὗ καὶ ἐποίησεν τοὺς αἰῶνας·

(この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました [hath spoken] KJV。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。)

3. ὃς ὢν ἀπαύγασμα τῆς δόξης καὶ χαρακτὴρ τῆς ὑποστάσεως αὐτοῦ, φέρων τε τὰ πάντα τῷ ῥήματι τῆς δυνάμεως αὐτοῦ, καθαρισμὸν τῶν ἁμαρτιῶν ποιησάμενος ἐκάθισεν ἐν δεξιᾷ τῆς Μεγαλωσύνης ἐν ὑψηλοῖς,

(御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。)

 

アオリスト分詞'having spoken'及び、定形動詞'spake'は、〔旧〕と〔新〕を共につなぎ合わせ、リンクさせています。そして前者を、後者に対する予備的なものとして表示しています。

 

新経綸は最終的なもの。

 

従って、これまでみてきたヘブライ人への手紙1:1-2、旧約聖書での諸言明、イエス及びパウロの諸言明から、新しい経綸が最終的なものであると言えるのではないかと思われます。

 

そしてこれは、新経綸を導入している啓示に対しても同様に適用されます。それは他の人々によって追随されるべき何か新しい開示ではなく、完全なる(consummate)開示であり、これを超えるものとしては、もはやいかなるものも予期されていません。

 

「御子によって」(ヘブル1:2)語られた後、(定性的・質的に言うところの)より高次なる語りというのは、もはや不可能なものとされました。パウロも、ガラテヤ4章4節で、「定めの時が来たので, the pleroma of the time, τὸ πλήρωμα τοῦ χρόνου  」神がご自分の御子を遣わされたことを語っています。

 

従って、ここには累積的な物の見方の跡をたどるいかなるものも見あたりません。ーー預言者たち、イエス、使徒たち;実に、新約聖書の啓示は一つの有機体であり、それは、それ自体の内で完全なる(completed)、全体(whole)です。

 

それには、キリストの証人であり、解釈者である使徒たちも含まれます。が、しかし、ここで意味しているのは、情報を運ぶなにか別個の媒介として彼ら使徒たちを「外部から;ab extra」それ自身に付け加えたというような事ではありません。

 

時々、「使徒からーー特にパウロからーーイエスに『溯る、戻る "going back"』」というような考え方をしている人々がいますが、これはイエス及び新約記者たちの意識その両方に対する完全なる誤解に基づいた考え方です。こういった考え方は、無機(inorganic)で算術的な思考から生じる産物であり、彼らは、ただ単に、数を付加していくか、あるいはせいぜい良くても、証言の倍加、という作業をもってしか物事の考察ができていません。

 

キリストは、啓示の全プロセスを終結するものとしての、啓示運動の中心として捉えられねばなりません。何がそれ以前に先立ち(what went before)、何がそれ以後に来たのか(came after)ということから、ひとたび切り離されてしまうや、〔私たちにとり〕イエスは解釈不可能なお方になるにとどまらず、主の外観に関するそういった一時的性質により、「主ご自身のみでは、超自然主義的世界観の持つとてつもない重荷を負うにはほぼ全く十全ではない」ということになってしまいます。

 

実際、イエスは〔新約聖書の〕どこにおいても、人としてのご自分の地上的活動が、真理の網羅的解き明かしであるという表明はしておられませんでした。むしろ主ご自身こそが、解き明かされるべき偉大なる事実です。

 

そして主はどこにおいても、ご自身を彼の解釈者たちから孤立・分離させるようなことはせず、その反対に、ーー権威の絶対性においても、付与された知識の適合性においてもーー彼らをご自分と同一視しておられました(ルカ24:44;ヨハネ16:12-15)。

 

そして御霊の約束および賜物を通し、主はその同一性をリアルなものにしてくださいました。御霊はキリストに関する事柄を受け、それらを受け手に示します。

 

それに加え、私たちの主の贖罪的御働きの進行は、重要な諸事実を終わりの方に向けて蓄積するものとなっており、それゆえ、〔昇天し〕弟子たちから離れて行かれた場面などに関していえば、主がそれらの事実の重要性をご自分で説明することは不可能でした。それゆえに、イエスの教えは、ーー使徒たちの教えを取るに足りないものとしていないばかりかーー、その反対に、それを絶対的に前提しています

 

イエスと使徒職の関係は概して、「解釈されるべき事実」と「その事実に関する後続の解釈」の関係と言っていいでしょう。そしてこれは、ーーその下にすべての啓示が進行するところの原則に他ならず、新約正典は、その上に構築されています。

 

福音書と使徒行伝が第一に立ちます。(ただし、リテラシーの見地からは、これは年代順ではありません。)福音書及び使徒行伝が先頭に位置している理由は、それらの内に新約聖書の贖罪に関する偉大なる現実性(actuality)が包含されているからです。ですが、福音書と使徒行伝内においても、これと同じ原理に関するある種の前成(preformation)が存在しており、これも見落としてはならないと思います。

 

イエスの御任務は、事実や諸事実の提供に限られてはいません。実に主は、それらの予備的照明と共なる諸事実の創成を織り込み、付随しておられます。なぜなら、主の御働きの傍には御教えが同伴しているからです。

 

ただ御教えは、より散発的で、使徒書簡の中に提供されているものよりも網羅的ではないでしょう。それは植物の胚に譬えることができるかもしれません。それは初めはっきりせず不明瞭な形をなしていますが、にもかかわらずその中には真に構造があります。そしてやがて、完全に成熟した有機体がはっきりと姿を現すことになります。

 

以上のことは、私たちに、新約の啓示およびその歴史的顕示である「新約聖書の神学」を述べることに対する根拠を提供していると思います。

 

またそれは編年的範囲における旧約と新約の間に一見みられる「不均衡」に対しても説明をなしています。この「不均衡」は、新啓示をあまりにもそれ自体のみで捉え過ぎ、それを、その後に続く導入そして基本として十分に捉えていない見方に起因しています。

 

それをあまりにも機械的に見る結果、人は、「何千年という旧約聖書」vs「たかが百年にも満たないイエスの生涯及び使徒たち」と位置付けるかもしれません。

 

しかし実際には、新約聖書の啓示は、最終的な啓示であり、それは、キリストが来て開始された、事物の秩序のあらゆる範囲を引伸・拡大し、それゆえに、新約啓示の扱っているディアセーケーは、「永遠のディアセーケー」(ヘブル13:20διαθήκης αἰωνίου)とも呼ばれています。これは終末論的ディアセーケーであり、その意味で、いわゆる「時間比較」の類は場違いだと言わざるを得ません。

 

しかし私たちの間でなぜ、そういった「不均衡」がかくまで強く感じられるのでしょうか?なぜなら、私たちには、キリストを「成就者(Consummator)」として捉える、終末論的見方が欠如しているからです*3


それゆえ、私たちは新約聖書のことを、(イエスの降臨から新約正典の最後の記者の死までを指す)その正典的、リテラシー的意味において語ろうとする傾向が強いように思います。しかしかく言う私たちは、自分たち自身もまた、ペテロやパウロやヨハネと同様、新約聖書の中に生きているということもよく知っているのです。

 

明瞭化のため、私たちはここで救済時代を開いた「啓示の序曲」と、「救済時代そのもの」(そのどちらもNew Testamentと呼ばれています。)を区別することができるかもしれません。私たちの聖書・神学的考察の中では、前者だけが取り扱われています。

 

私たちの取り扱っている領域の中における最初にして重大なる区分は、「直接的にキリストを通した啓示」と「使徒職を通し、キリストによって媒介された啓示」の二つです。

 

そしてこの二つをまとめて、新約聖書経綸の序曲と呼ぶことができるかもしれませんが、この序曲が始まる前に、さらにそこには前奏曲があります。公的御働きに先立つ全てのものは、この観点から捉えることができるかもしれません。

 

キリスト降臨に付随する声、バプテスマのヨハネの説教、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼、イエスの荒野での試み等に対しては、主の御働きに関する啓示内容の省察に入る前に、予備的留意が求められるでしょう。

 

他方、発展や、主の教えの方法に関する問い等の事柄は、もたらされた使信の内容・本質と非常に分かちがたく織り合わされているため、それは予備的重要性というより遥か以上のものであるように思われます。そしてより強度な度合において、それは、旧約聖書および神のご性質に関する教えにも適用されます。

 

さらなる啓示は予測されるのか?

 

「ここで提示した諸原則の範囲内においてですが、新約聖書の啓示という配置の中に、果たして『さらなる啓示』というようなものが授与される可能性はあるのでしょうか?」という疑問を持つ方がいるかもしれません。

 

主観的なものを客観的なものから切り離す神秘的な見地を採用するなら話は別ですが、そうでない限りにおいて、この問いに対する唯一妥当な答えは、次のようになると思います。

 

「新啓示は、超自然的な性質を持つ新しい客観的諸出来事が起こった場合に限り、そしてそれらの理解の必要性のため、神によって新しい解釈が提供された場合に限り、〔新啓示に〕加えられ得る。」

 

そして実際、これは終末論的事柄に当てはまるでしょう。その時に起こることは、贖罪史の中の新時代を構成するものとなり、それは、「モーセ時代」「キリスト降臨」という偉大な時代と並記されるに値する時代となるでしょう。それゆえに、最後の出来事を表象するさまざまな像を包含する黙示録からは、預言と解き明かしの言葉が放出しているのです。

 

私たちは、「啓示の第三期は傑出している」と言うかもしれません。しかし厳密に言うと、この時代は、第二のグループの完成よりも、それ自体としてはより少ないグループを形成することでしょう。そしてそれは最後の区分としての新約啓示に属することになるでしょう。

 

こういった各時代間の中間地点で、これまで多くの人々によって主張されてきた神秘主義的啓示は、聖書的キリスト教の精神と調和していないように思われます。

 

このように分離した形における神秘主義は、厳密に言えば、キリスト教的であるとは言えないでしょう。ーーよりましな形態であれ、悪質な形態であれーー神秘主義的啓示というのは、あらゆるタイプの宗教内に生じています。よくてもせいぜいそれは、自然宗教の顕現であり、またそれは後者のあらゆる欠陥に従属しています。

 

またその内容及び内在的価値に関して言えば、それは、(御言葉との調和という検査にそれを従属させるという原則を除いては)検証不可能な種類のものです。そして御言葉との調和という検証に従わせる時、それは別個の出処を持つ神に関する啓示であることを停止するでしょう。

 

ー終わりー

*1:〔訳者注〕関連記事 ベリート〔berith〕とディアセーケー〔diatheke〕ーーそれぞれの起源と意味について(ゲルハルダス・ヴォス著『歴史神学』より) - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

*2:Cp.G. Vos, 'Hebrews, the Epistle of the Diatheke', Princeton Theological Review, XIII, 587-632; and XIV, 1-61; and The Teaching of the Epistle to the Hebrews (1956).

*3:〔訳者注〕関連記事  諸契約の成就者キリスト - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)