巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

時, time, χρόνοςについて(『ベイカー福音主義神学事典(Evangelical Dictionary of Theology)』より)

sundial in NIST Gaithersburg courtyard

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Time"の項を全訳)

 

執筆担当者:カール・ヘンリー

 

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カール・ヘンリー(Carl Ferdinand Howard Henry, 1913-2003)

 

「時」に関する考察ーー。これは最も頭を悩ませる哲学問題の一つです。聖書は、カイロスアイオーンという二つの語の特定使用により、時間に関する特有な概念を示しています。聖書は、「時」というのを一つの問題として抽象的に見ているのではなく、神の贖罪的ご計画が実現される被造領域としてこれを捉えています。

 

一般の意味では、カイロスというのは、なにかを挙行するのにちょうどふさわしい時期、時間点、適時(使24:25)を指すのに対し、アイオーンは、ある長さの時間的スペースを指しています。

 

新約聖書は、贖罪史に特別眼を置きつつこの語用を打ち建てており(ヨハネ7:6)、そこでは人間の思案ではなく、神の御裁断こそが(使1:7)、「神の御業がなされる適切な時」としての特定の時間や時代を構成しています。

 

「なぜなら、、救済に関する神の御計画は、神によって選択された特定の時点もしくはカイロイ(kairoi;カイロスの複数形)に結合しているからであり、、、それは、、贖罪的な歴史です。進行中の時の断片すべてが、より狭義な意味における贖罪史を構成しているわけではなく、むしろ、、そういったkairoiが全体として、時から選出されるのです。」(Oscar Cullmann, 40-41.)

 

新約聖書は確かに、終末の出来事に関連した未来のカイロイに顕著な領域を与えていますが、その中心的カイロスは何と言っても受肉したキリストの生涯と死と復活であり、それは神の国にとり決定的に重要なものです。「主の日」「時 "hour"」「今」「今日」等の用語もまた、新約の文脈の中で、永遠なる秩序や贖罪の歴史が、日常的出来事の曲線に衝突する際には必ず、劇的な意味を持つようになります。

 

また相互に連結している贖罪的カイロイは、救済史の糸線を提供しています。そしてそれと同時に神のカイロイは、神の究極的ご目的成就のため、世俗的な時の動き全体をも暗に包含しているのです(使17:26)。

 

カイロスが決定的にして瞬間的な永遠の顕示(unveiling)であるように、アイオーンもまた、ご自身の目的に従い、長い時の流れを分離するとこしえの主を開示します。そしてカイロイはより広範囲なアイオーナ(アイオーンの複数形)内における決定的転換点です。聖書は歴史を一括して、約束の時代、成就の時代、来るべき時代に括っています。

 

永遠の秩序への人の変遷・推移によって、人の中の時間的(temporal)経験が破棄されることはありません。なぜなら、贖われてはいても、彼は依然として被造物であり続けるからです。(黙10:6;「もはや時が延ばされることはない。」)

 

現代哲学の特徴の一つはそれが、古代や中世哲学に比べ、「時」の考察により重点を置いていることです。古代ギリシャ思想は、永遠なるイデアや形相と比べた上で、時間的(temporal; 一時的)な世界を実体のない影であると描くことにより、そういった世界の重要性を溶解しました。

 

またプラトン、アリストテレスの思想の影響を受けた中世の学者たちは、(歴史啓示や贖罪の重要性自体は、諸信条の中で依然として中心的な意味を持ち続けはしたものの)自らの関心を、歴史に対するユニークな聖書的見解から、ユダヤ・キリスト教における啓示された諸真理に転じました。

 

近代の観念論哲学は、どの点においても、歴史的なもの、そして一時的・時間的(temporal)なものは永遠なる意味や重要性を持たないとし、それゆえに、(多くの場合、秘かに)比類のないキリストの受肉や贖いに敵意を抱いていました。

 

しかしながら、ヘーゲルの登場により、近代の観念論は、時間と歴史を「絶対」の本質それ自体の中に置くようになりました。それゆえ、それは聖書歴史の無比性を軽視すると同時に、全てを神的経過として見ることによって歴史一般の霊性を誇張することになりました。

 

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 「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。」ーヘーゲル

 

この深刻に非聖書的な推論は、(その非聖書性にも拘らず)二つの点で、聖書的見解からの恩義を受けています。まず第一番目に、時間的なものを軽視する古典的な古代哲学に対抗し、ヘーゲル哲学は歴史に対する神の強烈な関心を強調しました。さらに、循環的に起こる諸時代のプロセスとしての「歴史の円環的見方」に対抗し、この哲学は、時の経過が、完全なる目標に向かい進展していると強調しました。

 

また、それと同様、進化論的自然主義は、リアリティーの有神論的解釈を犠牲にしてギリシャの宇宙中心的見解に回帰した上で、(「時」に決定的重要性を付与しているものとして)現代の進化論的諸見解に訴えています。

 

時それ自体が新しい生命体を実現しているというこの種の概念は、(今日よりも)新興の進化論への推論的関心が高まりつつあったダーウィン登場後の最初の50年に、より人気を博していました。

 

大概の場合、両アプローチとも、時間的経過が動いていくにつれ、より高次の目標に向かっていくという予期を保持しています。それゆえ、こういった現代の漸進諸理論は、実のところ、神の国に関する聖書教理に負っているのですが、前者は後者の超自然的特質をはがし取ってしまっています。

 

聖書神学の流れの外側では、古代宗教および哲学のほぼ全ての動きが、時間的順序(temporal order)の重要性を軽視してきました。仏教に特有な観念として涅槃(ニルヴァーナ)というものがあり、これは歴史および個的存在を悪とみなし、歴史的贖いを通してよりもむしろ、神的存在の内にそれらが消滅するか吸収されるかを通しての至福を重視しています。

 

もっとも東洋宗教のすべてが涅槃の概念を共有しているわけではありませんが、それらの内のどの宗教も、「歴史が知性的かつ倫理的目標へと目的ある動きを表示している」という聖書的強調には至りませんでした。

 

非聖書的諸宗教や古代の推論は、循環する一連の諸時代としての「歴史に関する円環理論」から逃れることができませんでした。事実、この概念は時として、汎神論的線上で、その経過を「神」と呼びならわすことにより霊化されることもありました。

 

ゾロアスター教は、善と悪という二つの永続原理への主張により(他の諸宗教よりも)倫理的目的論のための余地を作っています。しかしながらその救い難い二元論により、ゾロアスター教の中では、歴史に対する永続的重要性が排除されています。実際、この宗教は永劫回帰の概念を回避してはいるのですが、依然として世界の動きを四つの時代に分割しています。

 

実に、聖書の教えほど、時の重要性に目を留めているものは他に無いと言っても過言ではありません。時というのは究極的なものではありませんが、それでも、それは神の持続、そして贖罪的御業のなされる神的被造領域であり、永遠の行先につながる人の決断がなされる舞台でもあります。

 

歴史は、創造主であり宇宙の主である神による、選民の贖罪という営為を含む神的目標に向かい突き進んでいっています。そしてこの歴史的基盤内において、いかなる思い、言動も、永遠なる倫理秩序の中で影響を持っています。

 

リチャード・クローナー(Richard Kroner)は、聖書哲学について次のような至言をしています。「歴史は神の内に始原を持ち、キリストの内にその中心を持ち、究極的成就および最後の審判の内にその終焉を持っている。」(ER,582)

 

オスカー・クルマンは次のように言っています。ーー今もまだその絶頂を待望している「線的歴史(a linear history)」というユダヤ教概念(パルーシアと同時に起こるメシヤの出来事)とは違い、キリスト教視点においては、歴史の中心は、終末的未来にではなく、むしろ過去の出来事に据えられているのだと。つまり、ナザレのイエスの死と復活が決定的にそれ以後の時系列(timeline)を支配しているのです。

 

クルマンは適切にも、キルケゴール、バルト、ブルンナー、ブルトマンらによってなされた「時と永遠に対する過度な分離」に警告を与えています。しかし彼自身の代替案もまた、無比なる神の永遠性を損っていると思います。

 

さらに、クルマンの聖書的リアリズムは、「時間的、非歴史的神話」観念に対するある種の譲歩によって脅かされており、彼は始りと終りに関する聖書のナラティブの中でそれを希薄化しています。もしもそういった神話が実際に時間的線分の連続性を保持しているのだったら、なぜあらゆる聖書の出来事がこの状態に還元され、第二のアダムが第一のアダムとして同じパターンで退けられることはないのでしょうか?

 

〔文献〕J. Barr, Biblical Words for Time; D. Buckwalter, EDBT 774–75; O. Cullmann, Christ and Time; G. Delling, TDNT 3:455–64; 9:581–93; J. Guhrt et al., NIDNTT 3:826–50; H. Sasse, TDNT 1:197–209; T. F. Torrance, Space, Time and Incarnation.

 

(執筆者 C.F.H.Henry)

 

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