巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「聖書を『素直に』読めば、、、」という表現について【自己反省とお詫び】

「聖書を『素直に』読めば、自然と○○という理解に至るんです。」(○○には、自分の支持する聖書解釈や主義名が入ります。)

 

私はこれまでどれだけ多くの場で、上記のようなフレーズを使ってきたことでしょう。しかし振り返ってみて今、私はその事を大いに恥じ、また悔いています。

 

この記事では、自己反省とお詫びの意を込め、なぜある文脈においては上のような表現が不適切であり、且つ公正さを欠く言明であるかを書いていきたいと思います。

 

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その前にまず申し上げておきたいのは、この世の中には、いわゆる「素直でない」聖書の読み方というのが確かに存在するということです。自覚的な無神論者や、キリスト教を論駁しようとするイスラム教徒やキリスト教的価値観を忌み嫌うラディカルなフェミニストなどの聖書の読み方は、釈義(exegesis)ではなく、強引な読み込み(eisegesis)である場合が少なくありません。

 

しかし一般的に言って、そのような明らかな歪曲・破壊を意図している解釈者は少なくとも私たちの福音主義世界では稀だと思います。ですから今私が問題にしているのは、そういう人々を前にしての「聖書を『素直に』読めば、、」発言ではないのです。

 

私が対象にしているのは、イエス・キリストを救い主として信じ(あるいは求道し)、聖書を聖典と認めている人々です。そしてこの対象領域には、自分と同じような聖書信仰のクリスチャンだけでなく、リベラル派の方々も含まれます。

 

ある時、私はジェンダーや平和に関するリベラル派の方の文章を読んでいました。この方は(私の目から見て)、非常にヒューマニスティックな眼鏡をかけて聖書の言葉を解釈していました。

 

しかしそれと同時に私ははっと気づいたのです。--この人はこの人なりに「素直に」聖書を読んでいる(と思っている)に違いないと。この人はこの人なりにクリスチャンとして世界の平和や男女平等の問題に取り組みたいと願い、その解決の糸口を聖書の中に見い出そうと努めておられるのだということに気づかされました。

 

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福音主義クリスチャンであれ、リベラル派クリスチャンであれ、(自分とは異なる解釈をしつつも)とにかく真面目に聖書を読もうとしている人々の間で、私が、「聖書を『素直に』読めば、、、」という発言をする時、私は暗黙のうちに、以下のようなメッセージを相手に発信していることになります。

 

使信①

私は聖書を「素直に」読んだ結果、○○説/○○主義という正しい解釈に導かれました。他方、あなたは○○説/○○主義を受け入れておらず、異見解を持っています。従って、あなたは私のように「素直に」聖書を読んでおらず、何らかの形で、「素直でない」バイアスのかかった読み方をしています。(例:誰かの教えによって「素直でない」読み方をするよう誤導されている等。。)

 

使信②

○○説/○○主義の正誤の決着は、結局のところ、釈義の緻密な比較参照という次元にあるのではなく、人が聖書のみことばの前にいかなる心の姿勢を持っているかにかかっているのです。(その点に関し、私は「素直に」聖書を読むという心の姿勢を持てています。他方、あなたはそういった心の姿勢を持てていません。⇒だからあなたは正しく読むことができずにいるのです。)

 

ここで焦点になっている解釈問題がいかなるものであれ、「聖書を『素直に』読めば、、」とさりげなく発言するこの時点で私は完全にフェアプレー精神を失っています。そして、無意識のうちにでしょうが、私は、釈義問題を、「心の姿勢」という人格問題にすり替え、みことばに対する相手の心の姿勢を自分よりも低いもの、曲がったものとして貶めています。

 

またたまに、「知的に優れた牧師たちは○○説を」「しかし大衆レベルの牧師たちは○○説を」といった対照表現をみかけますが、これもまた「聖書を『素直に』読めば」と同じくフェアプレー精神に欠けた表現だと思います。

 

前者が、釈義問題を「心の姿勢」という人格問題にすり替えている一方、後者は、それを「知性・学歴・IQの問題」にすり替えています。

 

心の姿勢や神からの賜物としての知性が、釈義に影響を及ぼさないということを申し上げているのではありません。(何らかの形で影響を及ぼすとは思います。)しかし公正さを愛される神は、私たちが釈義問題を純粋に釈義問題として、ーー相手の人格や知性とは別にーーフェアーに取り扱うことを望んでおられると思います。

 

ですから、冒頭のフレーズに戻りますと、「聖書を『素直に』読めば、自然と○○という理解に至るんです。」という表現は、望ましくは、「私が考えるところの『素直さ』で聖書を読めば、○○という理解になると思います」ーーそんな具合になるでしょうか。

 

そして「私が考えるところの『素直さ』」という表現により、相手に次のような愛と敬意のメッセージが伝われば幸いです。

 

「それはつまり、あなたが考えるところの『素直さ』というものも存在し得るということです。それは私と同じ種類の『素直さ』かもしれませんし、もしかしたら違うかもしれません。いずれにしても、自分が『素直な』聖書の読み方をしているという言明によって、あなたが『素直でない』読み方をしているということを意図しているわけではないことをどうぞご了承ください。」

 

以上が、私の自己反省文です。読んでくださってありがとうございました。

 

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