巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書のワード・スタディーをする際に注意すべき事:その⑤ 背景資料への不注意な依拠(by D・A・カーソン)

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ὕδωρ

 

D.A.Carson, Exegetical Fallacies, Chapter 1. Word-Study Fallacies, p.25-66(拙訳)

 

小見出し

 

 

ヨハネ3:5のὓδατος καίについてーー私の過去の誤解釈

 

ある意味、前項のミッケルソンの事例は、この誤謬カテゴリーにも入ります。しかし本項で取り扱う釈義的誤謬⑤は、(④とオーバーラップしている部分があるものの)④よりも、より広域です。

 

それでは、背景資料に対する不適切な依拠という事例をこれから取り上げることにします。

 

さて、前項で私は、自分の勤務する大学の学長であるウォルター・カイザーの誤解釈の事例を取り扱いました。

 

そして本項では、自省を込め、今度は、自分自身が出版した論文の中から〔自分が過去に犯した誤解釈の実例を挙げつつ〕先ほどの埋め合わせというか、少なくとも、ある種の公明正大さを表したいと思います。

 

まずは、ヨハネ3:5のὓδατος καίという句に関する事です。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

 

この二語に与えられている解釈は膨大な数に上るため、紙面の都合上、ここで全てを議論することはできません。

 

しかし、自分の知る限りすべての解釈を注意深く吟味した結果、私は、さまざまなサクラメント的解釈を拒絶するに至りました。その理由は、それらが、時代錯誤的かつ、文脈的にありそうもなく、また、ヨハネの主題と同調していないと結論したからです。

 

また、私はさまざまな隠喩的諸解釈(例:「水というのは神のみことばを表す象徴です」というような解釈ですが、これはイエスとニコデモとの対話の文脈的意味をほとんど持っていません。)を拒絶するに至りました。

 

やがて私は、「水というのは単に、出産の経過の際に流れる羊水のことを指す」という見解からも離れていきました。なぜなら、今日の用法と同様、出産のことを「水から("out of water")」と言及している古代文献を何一つ見い出すことができなかったからです。

 

それゆえ、少々、躊躇いながらも、私は、「水」や「雨」や「露」が男性の精液を表しているとしつつ、さまざまな資料に言及しているヒューゴー・オーデバーグやモリスの見解に追従することにしました。*1

 

そして、この箇所のγεννάωが、"to give birth to" であるよりはむしろ、"to beget"という意味であると理解した場合、ヨハネ3:5は、「だれでも水〔=精液;つまり、自然的な誕生〕と霊〔超自然的誕生〕とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と読むことができます。

 

しかし、躊躇しながらも一応採択した私のその立場*2は、今考えてみると、説得力に欠け、疑わしく、また無用なものであったことが分かります。私は当時自分の指導していた修士の学生リンダ・L・ベレヴィールの論文によって、自分の解釈の誤りを確信するに至りました。彼女の論文の一部は記事として出版されています。*3

 

彼女は、最新のものも含めた、全ての既存解釈を集積・研究した上で、ἐξ ὕδατος καὶ Πνεύματος(水と霊から)は、二種類の誕生のことを言及しているので全くなく、一つの誕生を言及しているという議論を展開しました。(実際、どちらの名詞も、一つの前置詞によって統治されているというこの事実は、確かにこの見解を強固なものにしています。)

 

そしてこの解釈により、3、5、6b、7節は全てパラレルな言明となります。水と霊はすでにエゼキエル36:25-27の中で関連づけられており、その中で、預言者エゼキエルは、①神はご自身の民に清い水を注ぎかけ、彼らを清め(⇒レビ記的清めの儀式に終末論的対応をしています)、②彼らに新しい心と新しい霊を与えるという、終末論的清めを予見していました。そしてこの事をニコデモは理解していたはずです(ヨハネ3:10)。

 

それゆえ、「水と霊によって」生まれるというのは、二詞一意(hendiadys)ではなく、同時に清め、神のご性質を人に分与する御霊の二元的働き(3:6)に対する言及だということになります。その意味でも、ベレヴィールの論文は緻密な検証に耐え得るものです。

 

マタイ5:1の「山;ὄρος」とルカ6:17の「平らな所;πεδινός」

 

それから二番目の実例として挙げたいのは、信徒向けに私が書いた山上の垂訓に関する註解に関してです。その中で私は、マタイで言及されている山(5:1)と、ルカで言及されている平らな所(6:17)の間のあの有名な「不一致」について、そこそこ標準的に保守的な立場から弁証を試みました。ーー曰く、山にも平らな所があります等。。。*4

 

さてその本を出版した後、今度は、マタイの福音書に関する専門的な註解書を執筆することになりました。そして研究を進めていく中で分かったのが、マタイ5:1のεἰς τὸ ὄροςは、おそらくイエスが、山に登った("up a mountain,""to a mountain,""onto a mountain")という意味ではなく、ただ単に"into the hill country"を意味しているのではないかということでした。さらに興味深いことに、ルカ6:17のπεδινόςは、普通、平らな・平坦な("plain")と表現されますが、一般に、「山岳地域にある高原・台地(plateau)」のことを言及しているのです。*5

 

過去の失敗からの教訓

 

ですから、マタイとルカの記述の間に不一致はないわけです。しかし最初の著書の中で私は研究不足ゆえ、至らぬことをしてしまいました。

 

しかしこういった自分の不手際にさえ何か励ましがあるとしたら、それは、歳月を経るごとにますます、自分の中で、慎重さが増し加わっていったということでしょうか。またこういった経験を通して少しずつ私は、自分の解釈に誤りがあることを示された際には方向転換し、それを潔く認めるということを学んでいきました。

 

目に見えて脆弱な自分の立場の周囲に、無理して精神的防衛ラインを張り巡らせることに益となる点は何もありません。

*1:Hugo Odeberg, The Fourth Gospel (1929; Amsterdam: Gruiier, 1968), 48-71; Leon Morris, The Gospel According to John, New International Commentary on the New Testament series (Grand Rapids: Eerdmans, 1971), 216-18.

*2:私の博士論文です。"Predestination and Responsibility," Cambridge University, 1975.

*3:Linda L. Belleville, "'Born of Water and Spirit': John 3:5," Trinity Journal 1 (1980): 125-40.

*4:D.A.Carson, The Sermon on the Mount: An Evangelical Exposition of Matthew 5-7 (Grand Rapids: Baker, 1978), 145.

*5:D.A.Carson, Matthew, in the Expositor's Bible Commentary, ed. Frank E. Gaebelein (Grand Rapids: Zondervan, 1984).