プロテスタント宗教改革
R.C. Sproul, Knowing Scriptureより翻訳抜粋
宗教改革者たちがローマ教会と袂を分かち、聖書こそが教会の至高の権威であるという見解(Sola Scriptura)を主張したとき、彼らは聖書解釈上の基本原則について細心の注意を払いました。
そして、解釈におけるこういった主要原則は、「アナロジー・オブ・フェイス(信仰の類比)」と呼ばれていました。
アナロジー・オブ・フェイスというのは、聖書が聖書を解釈しなければならないという規則のことを言います。ラテン語ではSacra Scriptura sui interpres(聖書は聖書自身の解釈者である)と言われています。
これは端的に言うと、どの聖書箇所であっても、聖書の別の箇所で明確に教えられている内容と衝突(相反)するような仕方で解釈してはならないという事を意味します。
例えば、ある聖句がAとBという二通りの読み方、ないしは二通りの異なる解釈で読み得るとします。その際、Aという解釈は聖書の別の箇所と相反しているのとは対照的に、B解釈はその別の箇所と調和しています。よって、B解釈がここで採用されなければならないのです。
そしてこの原則は、聖書を霊感された神の言葉として捉える先行的確信に基礎を置いています。それゆえ、それは一貫性があり、整合性を持っています。
そして神はけっして自己矛盾される事のない方であるという前提があるわけですから、いたずらに聖書をそれ自身と相反させるような代替解釈を持ち込むというのは、聖霊に対する中傷行為とみなされるわけです。
しかし今日、聖書の霊感を否定する人々たちにより、そういった実直性・綿密さは捨て去られていっています。
現代の聖書解釈者たちの多くは、御言葉を互いに相反させるような解釈をしているだけでなく、あえて意図的にそれをやっています。新約学者のクレッグ・エヴァンズ(Craig Evans)は次のように言っています。
Craig Evans
「学者たちの中には、自分が、より《懐疑的》になればなるだけ、より《批判精神に富む人》になるのだと自負している人々がいます。しかし度が過ぎ正当性を欠くような懐疑的スタンスというのは、結局のところ、(批判精神という点において)愚鈍になんでも受け入れるような人々とそう大差ありません。
私の見る限り、『批評』として通っているものの多くは実際にはまったくcriticalではありません。それは、学術という仮面を被った懐疑主義でしかないのです。そしてそういった考え方こそ、今日のラディカルな学術研究の大半でなされている、イエスおよび共観福音書の歪曲描写に対する、最大の負の貢献者となっているのです。」
こうして、困難な諸聖句を調和させようと努める正統派の聖書学者たちの尽力は、嘲笑され、大体において無視されています。
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聖書の霊感性にかかわる問題はさておき、アナロジー・オブ・フェイス(信仰の類比)は、テクストを解釈する上での健全なアプローチです。
時々、読者の方々が次のように私に質問して来られます。「あなたは6章で~~と言っています。それなのに4章では~~と言っているのはどうしてなのですか?」
そこで私は読者の方に、自分が6章で書いた内容の意味を説明します。そうすると、その方は6章と4章のそれぞれの考えは究極的に相矛盾しているわけではないことに納得してくださいます。
6章での観点は、4章のそれとは微妙に異なっています。ですから一見したところ、両者は相矛盾しているように見えるのですが、「セカンド一瞥の哲学("philosophy of the second glace")*早まった性急な判断を防ぐための方法論のこと。」を使うことにより、問題は解決します。
私たちは皆、そういった種類の誤解にさらされており、私たちは、――自分たちがそうしてもらいたいように――他の人々の言葉に繊細なる心の耳を傾けることが必要だと思います。
もちろん、私の言葉が自己矛盾していることはあり得ます。ですからこういった繊細さおよび、いわゆる「疑うことの益」的哲学は、そこに疑いが確実に存在する時のみ適用され得ます。しかし自分が自己矛盾していることに疑いの余地がない場合には、そこに存在し得るのは批評のみです。
しかしそうは言っても、もしも私たちが言葉を首尾一貫した方法で解釈していこうと努めないのなら、私たちの読む言葉は、《混乱の山》と化します。
そしてこれが聖書解釈の領域で起こる時、聖書は――解釈をしている人々の背景の変化に従って刻々と皮膚の色を変えつつあるカメレオンと化してしまいます。
それゆえに、聖書の性質および起源に対する私たちの見方は、私たちが聖書をいかに解釈し読んでいくかに甚大な影響を及ぼすのです。もしも聖書が霊感を受けた神の言葉であるのなら、その時、アナロジー・オブ・フェイスはもはや選択肢の一つではなく、聖書解釈の必要条件となるのです。