巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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異教文化を「聖別」?――ゴスぺルフラ現象の背後に潜む新神学および「土着の民の運動(Indigenous People’s Movement)」について【文化と宣教】

     

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 Gospel Hula (情報源

 

 

先月、私は、フラダンスを用いたキリスト礼拝のあり方について次のような記事を書きました。

 


元々女神に捧げられていたハワイの異教ダンスを「聖別し」、「贖い(redeeming)」、伝道や礼拝のために「善用する」というこの新しい宣教アプローチは、一体どこにそのルーツを持つのでしょうか。

 

 


 

良い種類のものであれ、悪い種類のものであれ、キリスト教会内に生じるあらゆる新現象の背後には、それを支える哲学があり、教えがあり、神学があります。

 

「ゴスペルフラ現象」は、「聖」の中に「俗」がぐいっと入り込むことが「redeem(贖う)」という言葉で「ジンテーゼ(synthesis)され」、正当化されるという点で非常にポストモダン的であり、注目に値すると思います。

 

また、これはドミニオニズム(支配神学・キングダムナウ神学)、「七つの山の教え」の系列にある「土着の民の運動(Indigenous People’s Movement)」の「実」でもあり、ジョン・ドーソン氏等の宣教哲学もこの系譜にあると言えるのではないかと思います。

 

この新しい宣教哲学に関する検証・警告文は、英語ではすでに多く発表されています。「七つの山の教え」の誤りについては、日本語で以下のように詳しい検証記事が出されています。

  

記事その2その3その4

 

 〔英文による検証記事〕

Nanci Des Gerlaise, Can Cultures Be Redeemed? : Some Things You Should Know About the Indigenous People’s Movement (here)

 

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-Nanci Des Gerlaise, Native Spirituality “Renewal” & the Emerging Church (here)

-Sandy Simpson, Deception in the Church, “Reasons to Reject the “World Christian Gathering on Indigenous People” Movement” (here

-Mike Oppenheimer, “Culturizing Christianity” (here

-Discernment Research Group, “The Indigenous People’s Movement,” August 2, 2007 (here

 

ゴスペルフラを正当化することが困難な理由

 

問い:「確かにフラダンスは、元々異教の神々に捧げられていたダンスです。しかし私たちはそれを用いイエス様のために、主の栄光のために、宣教のために尊く用いることができるのではないでしょうか?」

 

日本には古代より、巫女舞という異教ダンスが存在します。

 

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巫女舞(引用元

 

ウィキペディアの説明によると、

 

 「古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。

 巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神がかりの儀式にあったといわれている。採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

 やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、跳躍するに至って、神託を下すことになる。舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされる。」

 

靖国神社での巫女舞(浦安の舞)

 

さて、ある巫女舞のダンサーがイエス様を信じて救われました。そして教会の牧師さんの所に行って、「靖国神社で踊っていた浦安の舞を、今度はキリスト教会でイエス様のために踊りたいです。」と申し出ました。

 

彼女は、その教会の主日礼拝で上演されているゴスペルフラを見て、「なるほど、ハワイの異教神に捧げられていたダンスが『聖別され』『redeemされて』このように主のために尊く用いられ得るのなら、八百万の神々に捧げられていた神社の舞も同じように『聖別され』『redeem』されるはずだ」と思ったのです。

 

さて、相談を受けたこの牧師さんは、「どうぞ、どうぞ、ぜひ『ゴスペル巫女舞』を練習なさって、主のために大いに踊ってください」とこの方を激励すべきでしょうか。それとも、今やキリストのものとされたこの女性に対し、こういった異教ダンスとは袂を分かつよう勧告すべきでしょうか。

 

あるいは、下のビデオに映っているような「仏の舞」はどうでしょうか。これも主の御名によって『聖別され』『redeem』され、将来的に、キリスト教会の主日礼拝のステージで上演されるようになっても構わないでしょうか。

 


おそらくほとんどの読者の方々は、こういった日本の異教の舞が教会内で上演されることにグロテスクで異様な思いをされることだろうと察します。それならば、どうして「ハワイの」異教の舞に対しては多くのクリスチャンの方々がOKサインを出しておられるのでしょうか?

 

原則的にいって、ゴスペルフラに「Yes!」と言う方は、ゴスペル巫女舞に対しても「Yes!」と言うことができなければ自家撞着を起こしてしまうと思います。

 

これは私の個人的推測ですが、「ハワイの」異教の舞に対しては、なんとなくエキゾチックで異国情緒に溢れた明るい開放感のようなものを感じ、そのため、クリスチャンとしての健全な識別力に覆いがかかりやすいという事情があるのではないかと想像します。一連のこの現象に関して、みなさんはどう思われますか?

 

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