巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

健全な教理の重要性(by A・W・トーザー)

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A.W. Tozer, The Importance of Sound Doctrine(全訳)

 

キリスト者生活の中において、どれほど健全な教えが重要かということについては、これを強調してもしすぎることはないと思う。もし私たちが「正しい生き方」を志すなら、あらゆる霊的な事柄に関する「正しい考え」というのは、ぜひとも必要とされるものである。

 

茨からぶどうを、あざみからいちじくを集めることができないように、不健全な教えから、健全な人格が形成されることはない。

 

教理(doctrine)というのは単に、保持され教示されている宗教的所信(religious beliefs)のことを指している。まず一介の信者として、そして宗教的所信の教師として、こういった所信が、的確に真理と調和しているのかを確かなものとしていく努力は、全てのクリスチャンに課せられた神聖な務めである。

 

「私たちの信じている事柄」と「事実」との間の一致と調和は、教理における健全さをもたらす。

 

使徒たちは真理を教えていただけでなく、その真理を曲げようとするいかなる者たちに対しても、その教えの純粋性のために戦ったのである。パウロ書簡を読むと、異様な教えを導入しようとしていた偽教師たちのあらゆる試みに対し、パウロが抵抗していたことを見て取ることができる。

 

ヨハネの手紙が書かれた当時、キリストの受肉を否定し、三位一体の教えに疑いを抱かせ、若い教会を動揺させていた偽教師たちがいた。そういった者たちに対し、ヨハネは手紙の中で容赦なく彼らを非難している。

 

また短いけれども力強い「ユダの手紙」の中で、聖徒たちを惑わそうとしていた邪悪な教師たちに向け、ユダは非常に雄弁な文体で、彼らを拒絶している。

 

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各時代のクリスチャンは、自分の信じている事柄について真剣であるべきである。

 

真理それ自体は不変のものである。しかし、人間の心(精神)というのは穴の多い器であって、そこから真理は時として下に漏れ、そこから誤謬が入り込み、それまで保持してきたはずの真理が弱められてしまうこともあるからである。

 

庭が雑草地に様変わりしてしまうように、本来陰険な人間の心は、誤りに傾きやすい性質を持っている。どんな人間であれ、教会であれ、教派であれ、自分の奉じ信じている教えを劣化させ、堕落させていく一つの確実な方法がある。

 

――そう、それは全てを「当たり前のもの」として検証することをせず、何もしないことである。手入れされていない庭が、瞬く間に雑草でおおわれ、荒廃していくように、真理を己の内で育まず、誤謬という根を抜き取る努力をしない人の心は、たちまちの内に、神学的〈荒地〉になっていく。

 

真理という街道の上に胡坐をかき、検証を怠っていく教会ないし教派は、まもなく道をはずれ、泥のぬかるみに足を捕えられ、やがて身動きのできない状態になっていくだろう。

 

人間の精神や活動という領域において、「正確さ(accuracy)」というのは美徳と考えられている。ちょっとした逸脱であっても、それはやがて(死それ自体ではないにしても)、深刻な損失を招くのだと。

 

そんな中、ただ信仰の分野においてのみ、真理に対する誠実さというのは、誤りであるかのようにみられている。人が地上的で世俗的な事柄に取り組む際には、彼らは真理を要求する。

 

そうする一方で、いざ天的かつ永続的な事を考慮するとなると、彼らは途端に態度をあいまいにし、しりごみし始める。あたかも、「真理を見つけ出すことは所詮、不可能なこと」、もしくは、「どうでもいい」と考えているかのように。

 

モンテーニュはかつてこう言った。「嘘つきというのは、神に対しては虚勢を張り、人に対してはびくびくする者である。なぜなら、嘘つきは神に対しては臆せずに立ち向かい、人の前では萎縮する者だからである。」

 

これこそ不信仰の何よりの証拠ではないだろうか。嘘つきは人間のことは信ずるも、神の存在に関しては確信が持てていない。だから、確かに存在している「人間」の機嫌を損なわせるよりはむしろ、(存在していないかもしれない)「神」の怒りを買うようなことはする、というリスクを彼らはあえて冒すのではないだろうか。

 

また深く根本的な不信仰というのは、信仰の領域における、人間のいいかげんさに根付いているのではないかと私は思う。科学者、医者、航海士といった人々は、自分がリアルなものとして認識している事柄を取り扱っている。そしてそういった物がリアルなので、世も、それを教える者や臨床する者に高度な専門知識を要求するのである。

 

ところが、霊的な事柄を奉じる教師に対してだけは、なぜか、自分の信じていることに対して「確信がなく」、発言においても「あいまいであり」、どんな人のどんな宗教的見解であってもそれに対して「寛容であること」が要求されているのである。

 

教理の不明瞭さ・あいまいさ・不確かさというのは、常にリベラリズムの徴候(しるし)である。私たちの信じる事柄において、聖書が最終的な権威として認められず拒絶される時、その空位を埋める〈何か〉が探し出されなければならない。

 

歴史的に言って、その〈何か〉とは、1)理性、もしくは、2)感情のどちらかであった。もしそれが感情であるなら、それはこれまでの歴史の中で、ヒューマニズムの形を取ってきた。

 

もっとも、今日のリベラル教会にみられるように、両者の混合した形態というものも存在する。こういった形態のキリスト教は、完全に聖書を放棄してしまっている訳ではない。かといって、それをしっかり信じている訳でもないのである。

 

その結果、何が生み出されるかといえば、――山というより靄(もや)のようなあいまいな信仰の体系である。そこにおいては、全ての物が真理であるとして受け入れられる一方、確実に信じられるべき真理としては、何もそこに存在せず、また信じられてもいないのである。

 

近代主義的な教会においては、靄(もや)にかかったような曖昧な物が「教え」としてまかり通っていて、それに対しては、もはや改善を期待すべき状態にはない。

 

しかし今、ぜひとも警笛を鳴らさねばならない理由は、この靄が現在、多くの福音主義教会にも侵入し始めているからである。

 

ひと昔前までは疑う余地のないものとみなされていた典拠から、今や曖昧で不明瞭な事が述べられ始めている。それは「聖書」と「科学」と「人間的な思い」が柔弱に混合されたものであり、三者いずれに対してもそれは忠実でないのである。なぜなら、三者は互いに他の二者を無効にするよう働きかけるからである。

 

私たち福音派の兄弟たちの中には――周囲の人々に「進取の気性に富んだ」思想家としての印象を与えつつ――、進化論を再考したり、さまざまな聖書の教えを再解釈したり、聖書の霊感についてさえ「再考」を加えようとしている人たちがいる。

 

しかし、おお、彼らが「進取の気性に富んだ」思想家などと考えるのは、とんだ間違いである!彼らは所詮、モダニズムの後をしおしおとついていく臆病な追従者にすぎない。それも、五十年前に開催されたパレード行進に、はるかに遅れを取りながら!

 

少しずつではあるが、今日の福音主義クリスチャンは洗脳されていっている。その証拠の一つに、ますます多くの信者が、真理の側につき、はっきりとした立場に置かれることを恥じるようになってきたことが挙げられる。

 

彼らは「いや、私は信じています」と言っている。しかし、彼らの信仰は余りにも水で薄められたような物になってしまったため、それを明確に定義することはもはや不可能になっている。

 

倫理的力(moral power)は、常に明確な信仰と結びついている。偉大な聖徒は常に、教理を重んじてきた。

 

今こそ、穏やかな「教条主義(dogmatism)」ーー永遠に不滅の神の御言葉の上に、断固として堅く立ちながらも、微笑みを絶やさない姿勢ーーに立ち返る時が来ているのである。