巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「新約記者は、夫と妻が互いに恭順し合うよう勧告しています(エペソ5:21)。ですから、夫にだけ特別なリーダーシップの役割というのは存在しないのです」という主張はどうでしょうか。【相互恭順説 反証③:hupotassoの意味について】

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       宗教改革期のファミリー・ライフ

 

からの続きです。

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 6

回答5.

この対等主義見解は、未だかつて実証されたことのない意味をギリシャ語に付与する事に依拠しています。

 

エペソ5:21「互いに従いなさい」という節で、パウロはヒュポタッソー(従わせる:hupotassó, ὑποτάσσω〔中受〕自らを服従させる、従う)という動詞を使っていますが、この動詞は常に、「権威に対する恭順」という語用のされ方をしています。

 

そして、古典ギリシャ語文献(新約聖書内外)において、ヒュポタッソーが、1)複数者間における関係を言及し、尚かつ、2)「権威に服従する」というこの意味をもっていない用例を、未だかつて誰も提示したことがありません

 

筆者注:複数者間の関係については、BDAG辞典には、次のような意味が記載されています。

〈能動態〉:「恭順な関係のうちにあらしめること、服従させること、従属させること」

〈受動態〉:「自らを従わせる、服従させられる、ないしは従属、恭順させられる」(1042)。

何人かの人(例えば、ギルバート・ビレズィキアン)は、ヒュポタッソーは、それが代名詞「互いに:allelon」と共に用いられる時、意味が変わると主張しています。そしてビレズィキアンは次のように言っています。

相互代名詞『互いに』が加わることにより、その意味が全く変わってしまうのですBeyond Sex Roles, 154)。

それでは、「意味がまったく変わってしまう」という彼の主張の論拠はどこにあるのでしょう?彼は続けて言います。

 「新約聖書のいくつかの語は、相互代名詞allelonと共に用いられる時、意味が変わるのです。それゆえ、「盗む」というギリシャ語動詞は、相互代名詞と共に用いられる時――詐欺という意味を伴うことのない――「奪う」という意味に変えられます(1コリ7:5)。

 同じように、「心配する」というギリシャ語動詞は、相互代名詞と共に用いられる時、「互いに対し配慮し合う」という意味に変えられます(12:25)(288n30)。

 

しかしながら、彼の主張は以下に挙げる二つの理由で正しくありません。まず第一に、彼の列挙している他の事例は、「意味の変化」ではなく、それらの語に付随する確立された別の意味として、ギリシャ語諸辞典の中で承認されており、「盗む」「心配する」等の項に、記載されている意味内容です。ですから意味が変わったのではなく、そういった語に、一つ以上の意味の幅ないしは多様性があるということです。

 

それとは対照的に、ヒュポタッソー論におけるビレズィキアンの「意味の変化」という主張は、ギリシャ語諸辞典でまったく承認されていません

 

そして二番目ですが、彼が挙げた他の諸事例は、allelonと共に用いられるヒュポタッソーのケースとパラレル関係にありません。1コリント7:5で彼が「意味の変化」と呼んでいるものは、実は、相互代名詞allelonの存在ゆえに生じているものではなく、それが文字通りの用法ではなくむしろ修辞的用法であるがゆえの「変化」なのです。

 

ですからそれは、文字通りに「物品を盗む」というのではなく、結婚の権利に適用されるべき語の《修辞的用法》に付随したものとして私たちが念頭においている意味です(BDAG,121参)。

 

1コリント12:25に関して言えば、ビレズィキアンの言明は、明らかに誤っています。これは、相互代名詞の存在によって意味が変わったのではありません。そうではなく、1コリント12:25においては、動詞 merimnaoが「気にかける、心を遣う、気を配る」(BDAG, 632参)という意味である、新約聖書中に数例ある事例のひとつに過ぎないわけです。事実、この意味を持つ他の諸聖句には、相互代名詞はありません。)

 

私は、1986年以来、対等主義の友人たちに向け、一つの問いを投げかけてきましたが、未だに返答をもらっていません。その問いとは次のものです。

 

新約聖書の中のヒュポタッソーをみなさんは、例えば、「尊重する」「配慮する」「気にかける」という意味に指定しています。が、

1)そのような意味がこれまで一度も立証・確立されたことがなく、

2)ギリシャ語辞典の中でその意味を指定したものは、未だかつて一冊も存在せず、

しかも、みなさんは、

3)複数の人間の間における関係を言う時には常に付随するところの「権威に対する〈一方向的〉恭順」という意味を空にし、捨て去っておられます。

なぜでしょうか。このような事実があるにも拘らず、なぜみなさんは、それでもあえてヒュポタッソーにそういった意味を指定しているのでしょうか?