巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

人は「真理」と「寛容」のどちらかを選ばなければならないのか?(A・W・トーザー)

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A.W. Tozer, Some Things Are Not Negotiableより抄訳

 

「新しい十戒」というのが、近年、クリスチャンによって導入された。これによれば、十戒の第一条は、「汝は何事にも不賛成の意を表すことなかれ。」である。

 

そして、山上の垂訓は、「すべてを『寛容に』受容する者は幸いである。なぜなら、その人は自らの内に何一つ責任を負うことなく生きていけるからである。」と始まっている。

 

宗教間の違いについて公に話し合う時にも、現在では次のような暗黙の了解がなされている。つまり、「話し合うことは差し支えない。が、その際に、相手を説得しようとしたり、相手の信条の内に見いだされる誤謬を指摘したりするのはご法度である。

 

話し合いの目的は、真理に向き合うことにあるのではなく、あくまで、他の宗教の追従者がどんな事を信じているのかを知り、彼らの視点から何かを学ぶ(そして願わくば、彼らもわれわれの信仰から何か益となるものを受け取ってほしい)というスタンスでなされるべきである」というのだ。

 

人というのは、自分にとってさして重要でないと思える事がらに関してだけは、これを寛容に受容する。しかしひとたび事が自分やわが子の生死に関わる問題となると、もうその時には寛容などではいられなくなるのだ。それと同様、自分の永遠の行き先に決定的な影響を及ぼすような信仰問題に関しては、彼は悠長に「協議」などしていられなくなるのである。

 

想像してみてほしい。「金の子牛」の事についてイスラエルの民と話し合うべく、パネルディスカッションの席につくことに同意したモーセの姿を。もしくは、バアルの預言者たちの隣に紳士的な居ずまいで腰を下ろし、彼らと話し合いをしているエリヤの姿を。

 

あるいは、パリサイ人との見解の違いを乗り越え相互に歩み寄るべく、彼らとの座談会の場を求めている主イエス・キリストの姿をあなたは想像できるだろうか。あるいは、より高度なレベルでの一致をもたらすべく、アリウスとの間の見解の違いを超越しようと努めるアタナシウスの姿を。または、「より寛大なキリスト者間の交流」という名によって、ぺこぺことご機嫌取りをしながら教皇の前に参じているルターの姿を。

 

(尊敬を受けるとまではいかなくとも)少なくとも人に好かれたい、好意を得たいという願いは、およそ人間の性格の中に存在する大きな弱点である。しかしイエス・キリストに仕える僕にとっては、こういった弱点は決して大目に見ることができない。

 

最近もてはやされているのは、「いつも笑顔で、愛想のよい、無性の宗教マスコット」としての神の御子のイメージである。そしてこのマスコットはやわらかい手で誰彼となく握手を交わし、どんな問題に関してもいつも「そうですよ、そうですよ。」と相槌を打ってくれるのだ。

 

しかしこのようなイメージは、真理としての御言葉の中には見いだされない。

 

平和をつくる者(マタイ5:9)には神の祝福が約束されている。しかし宗教的な「交渉人」は自らの歩みに十分気を付けなければならない。神の家にいるメンバーの間のいざこざを解決し、平和をもたらすという能力は、天的な賜物であり、それらは十分に育まれるべきものである。祈りと御言葉によって、仲たがいしている友人たちの間に和解をもたらすことのできる思慮深い魂の価値は、ダイアモンドにも匹敵する。

 

確かにそれはそうである。しかし、真理を犠牲してでも一致をもたらそうとする試みとなると俄然、話は違ってくる。キリストの友であろうとしていない人々と親交(友情)を深めようとすることは、とりもなおさず私たちの「主に対する背信行為」となってしまうだろう。闇と光というのは、話し合いによっては、決して一つにはなれないのだ。

 

そう、ある事柄については「交渉の余地なし」なのである。