巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

何はともあれ勇者たれ。(内村鑑三)

 

何はともあれ勇者たれ

 

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ伝10:28)

 

何はともあれ勇者たれ。「否」と言わざるべからざる場合には「否」と言うべし。「しかり」と言わざるべからざる場合には、「しかり」と言うべし。人の顔を恐るるなかれ。人は神より強かるあたわず。彼らがもしなんじを圧(お)しつぶすならば、神は彼らを圧しつぶしたもうであろう。最も強き人といえども、すみやかに消えて跡なき影たるにすぎず。なんじが人を恐るるは、幽霊を恐るるのである。

 

ゆえに、人を恐れて、その前に明白なる真理を語るあたわざる者は、まぎれもなき臆病者である。ことに異教徒と不信者との前にイエス・キリストを認(いいあら)わすことを恐るるなかれ。ひっきょうするに、イエスは最後の勝利者である。そして彼の敵は、よしそれが学者または政治家または金権者であるにせよ、「エホバの起ちて地を震い動かしたもう時には、岩の裂け目に隠るる、もぐらもち、または、こうもり」(イザヤ書2:21)の類なることを忘るるなかれ。

 

『内村鑑三信仰著作全集第22巻』p83より

 

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私は何びとをもまねない。

 

私は何びとをもまねない。アウグスティヌスをも、ルターをも、ノックスをも、ウェスレーをも、ムーディーをも、その他、過去現在の何びとをもまねない。私は私自身である。

 

神は、私を特別の目的をもって造り、私を特別の位地に置き、私に特別の仕事を当てがいたもうた。私は神の特別の器であるがゆえに、彼は私を特別の道に導きたもう。それゆえに、私を欧州人または米国人中のこの人、またはかの人に比ぶる者は、私を誤表し、また私にかかわる神のご計画を誤解する者である。

 

神は同一に二人の人を造りたまわない。人は各自、神の特別の聖手(みて)の業である。私は神に特別に造られたる者であるがゆえに、自由独立の人である。私は日に日に彼の特別の指導にあずからんとて彼の聖顔(みかお)を仰ぎまつる。彼が私のために特別に切り開きたまいし道に私をして歩ましめたまわんとて私を導きたもうその聖手に、私はすがりまつる。私は単独である。しかし単独でない。神が私と共に歩んでくださるからである。

 

1925年1月『聖書之研究』より