巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プロタゴラスとヒューマニズムの起源について(R・C・スプロール)

R.C. Sproul, The Consequences of Ideas, p. 29

 

f:id:Kinuko:20161218230039p:plain

 プロタゴラス

 

プロタゴラスは、古代アテーナイにおけるもっとも影響力あるソフィストでした。そして近代歴史家たちはしばし彼のことを「ヒューマニズムの父」と描写しています。

 

プロタゴラスのかの有名な金言「Homo mensura」において、彼は次のことを宣言しています。「人間はすべての物事の尺度である。あるものについては、あることの。ないものについては、ないことの。」

 

f:id:Kinuko:20161218215520p:plain

 

しかし、聖書的観点でみるなら、もちろん、最初のヒューマニストとしての誉れは、プロタゴラスに帰せられるわけではありません。事実、それは、人間にではなく、―「あなたがたは神のようになるでしょう(‘Sicut erat Dei’)」(創3:4)との金言を言い放った―かの古の蛇に帰せられるのです。

ー引用おわりー

 

*みなさんと共に考えたい一つの〈問い〉

f:id:Kinuko:20161222152551p:plain

 

「ゲイやレズビアンの人々に愛を示さない者は誰であれ、神さまを侮辱しているのです。もし愛さないのなら、こういった者たちは、ただ単に〈同性愛〉嫌悪者(homophobic)であるばかりでなく、―実のところ、〈神〉嫌悪者(Godophobic)でもあるのです。なぜなら、神さまは、こういったゲイ・レズビアンの人々一人一人を愛してくださっているからです。」

ーディアルムルド・マーティン(ダブリン大主教)

 

問い

ここで大主教の言っている「愛」というのは、はたして聖書の中に啓示されている「愛」でしょうか。それとも、一見、愛と包容に満ちた言葉のレトリックの裏には、実は巧妙に隠されたヒューマニズム的「愛」が不気味にうごめいているのでしょうか。