巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

エペソ5:22-33のような聖句は、いわば家父長体制との「一時的妥協」を示す一例にすぎないのではないでしょうか。

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

Q. エペソ5:22-33のような聖句は、いわば家父長体制との一時的妥協を示す一例にすぎないのではないでしょうか。そして、むしろ聖書の主たる方向性は、「ジェンダーを基にした役割の相違」というものを徐々に平らにし、なくしていく、、、そういう方向に進んでいっているのではないでしょうか。

 

応答:

たしかに聖書には時として、ーそれらを永久的な理想だとは認めていないもののー望ましくない関係を規定しているケースが散見されます。例えば、イエスはパリサイ人たちにこう言いました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません」(マタイ19:8)。

 

また別の例としては奴隷のこと(いかにクリスチャンである奴隷が自分たちの主人と関わるべきかという点における規制)が挙げられるでしょう。――しかしパウロとしては、こうした奴隷たちが、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として」(ピレモン16)主人に受け入れられることを望んでいたのです。しかし私たちは、夫の、愛に溢れたheadship、ないしは男性による敬虔なeldership(長老・牧師制)を、離婚や奴隷と同じカテゴリーには入れていません。その理由は三つあります。

① 男性と女性という「人性(personhood)」は、-それに関連する役割の相違ということを含め、神の創造のみわざ(創世記1章および2章)に根差すものです。そしてそれは、罪によって歪曲された体制が確立される(創世記3章)以前のことです。

 

それから、「『すべてを平らにする方向に働いている』という聖書の方向性は、今や同性愛関係をも正当なものとする方向へと私たちを導いている」という議論が最近、とみに拡がっています。

 

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それに対し、(現在でも同性愛を認めていない福音主義フェミニストの方々は)異性婚を擁護する際に、まさにこの①をその論拠にしています。そして、彼らはこう言っています。「いいえ。『すべてを平らにする方向に働いている』聖書の方向性というのは、創造の秩序を廃棄するという意味ではないのです!」と。それがここでの議論における私たちの根本的主張でもあります。

 

② 聖書の贖罪的目的(主眼)は、headshipや恭順を廃棄することにあるのではなく、それらを創造の秩序の中におけるはじめの諸目的へと回復させていくことにあります。

 

③ 聖書は、愛に基づくheadshipに対し、全く批判を加えていませんし、それを捨てるよう奨励するようなことも全くしていません。従って、ただ数カ所の、それも文脈的に相対化された「家父長的」テクストをもって、聖書を圧倒的に対等主義的に描き出すことは間違っています。現に、headshipに対して刃向かうような御言葉は存在していないのです。そしてそういう御言葉があたかも存在しているかのように思えるのは、headshipおよび恭順を「贖い回復させよう」とする聖書の目的が、逆に「弱体化させよう」という風に描かれてしまう時だけです。