「何かが『聖書的である』という時、それは一体どういう意味なのでしょう。私たちは『聖書的』という言葉を、記述的な意味(つまり、「聖書に見いだされるもの」)というよりも、「何を神様が望んでおられるか」という規範的な意味で使うことに慣れっこになっています。しかし、聖書的なライフスタイルや考え方を主張するあらゆる言明の背後には、聖書解釈や適用に関する一連の複雑な諸前提が存在しているのです。」
レイチェル・ヘルド・エヴァンズ*1
続きを読む〔前篇〕からの続きです。
目次
本書中、もっとも神学的リベラリズムが顕著な例として挙げられるのが、サミール・セルマノヴィック(Samir Selmanovic)執筆による論文「包含性という甘美な問題――他者の中にわれわれの神を見い出す("The Sweet Problem of Inclusiveness – Finding our God in the Other")」だった。(Doug Pagitt and Tony Jones edit.,An Emergent Manifesto of Hope, Grand Rapids:Baker, 2007, pp190-199)
彼のこの「包含的」見解は、ローマ・カトリック教会の神学者カール・ラフナー(Karl Rahner)によって普及するようになった説であり、「匿名のキリスト教」と呼ばれ、セルマノヴィックが脚注をつけている。
続きを読むDoug Pagitt and Tony Jones, Emergent Manifesto of Hope, An (emersion: Emergent Village resources for communities of faith)
Bob DeWaay, Emergent Old Fashioned Liberalism
最近、出版されたドーグ・パジット/トニー・ジョーンズ共編『希望のイマージング・マニフェスト(An Emergent Manifesto of Hope)』の中には、イマージング「会話」運動のさまざまな指導者たちによる25篇の論文が掲載されている。
この運動を神学的に特定することは難しいものの、この本はイマージング・チャーチ・ムーブメントの鍵となる統一的な神学的観点が何かをかなり明確に示している。そう、それは神学的リベラリズムである。
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神はわれわれの人知を超えた仕方で動かれ、
ご自身のみわざを成し遂げられる。
主はご自身の足跡を海の中に植え、
嵐の上を進まれる。
計り知れない鉱床の深淵にて、
けっして誤ることなき巧腕にて、
主はご自身の輝かしいご企図を護持され、
至上の聖意(sovereign will)を為される。
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主よ、汝のしもべは、家になにも持っていません。
共用のオイル一杯でさえも。
なぜなら、冷酷で強硬な〈あの人〉が、
――人が「苦痛」と呼ぶ、武装した〈あの人〉が、
繰り返し、繰り返し、私のまずしい家を襲い、
荒らし回るからです。
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Wayne Grudem, Systematic Theology, Chapter 44. The Church: Its Nature, Its Marks, and Its Purposes, p. 859-863 抄訳(小見出しはブログ管理人によるものです。)
イスラエルと教会の関係について、福音主義プロテスタントの間には異なった諸見解が存在します。そしてこの問題は、ディスペンセーション主義的な神学システムを支持する人々によって表面化されてきました。
ディスペンセーション主義者によって書かれたもっとも克明な組織神学であるルイス・スペリー・シェイファー(Lewis Sperry Chafer, 1871- 1952)の『組織神学*14』は、イスラエルと教会の間に多くの相違点があると指摘し、そして、旧約聖書の中における神を信じるイスラエルと、新約聖書の教会との間にさえも多くの相違点があると指摘しています(Chafer, Systematic Theology, 4:45-53)。
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