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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

イマージング運動――昔風のリベラリズム(by ボブ・デウェイ)【前篇】

ポストモダニズムと聖書の真理 キリスト教リベラリズムの形態 知ることについて(epistemology) 神観・人間観・世界観・歴史観

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Doug Pagitt and Tony Jones, Emergent Manifesto of Hope, An (emersion: Emergent Village resources for communities of faith)

 

Bob DeWaay, Emergent Old Fashioned Liberalism

 

最近、出版されたドーグ・パジット/トニー・ジョーンズ共編『希望のイマージング・マニフェスト(An Emergent Manifesto of Hope)』の中には、イマージング「会話」運動のさまざまな指導者たちによる25篇の論文が掲載されている。

 

この運動を神学的に特定することは難しいものの、この本はイマージング・チャーチ・ムーブメントの鍵となる統一的な神学的観点が何かをかなり明確に示している。そう、それは神学的リベラリズムである。

 

またこの書から明瞭に分かるのが、彼らが、主としてどんな種類の人々を《敵》とみなしているかということである。――その敵とは、聖書が誤りのない神の言葉であると考え、それを権威をもって説教している福音主義クリスチャンである。

 

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イマージング・チャーチ

 

スペースの関係上、25篇すべてを批評することは可能ではないが、全篇中、――キリストの代償的贖罪等の根幹教理をも含めた――福音の真理について実際に告白していたのは、ただ二人しかいなかった。一人はダン・キンバル(Dan Kimball)、そしてもう一人はロドルフォ・カラスコ(Rodolpho Carrasco)だ。(但し、カラスコの信仰告白は、社会正義に関する論稿の文脈の中でなされたものである。)

 

そして残りの23篇は、神学的リベラリズムに共通のさまざまなテーマが意見発信されている。

 

本書の前半部分は、脱構築、命のリズム、イマージング「修道院的コミュニティー」、主観主義のあらゆるバージョンが推奨されていると同時に、権威をもって福音を宣布する説教者たちを、「命令とコントロールを目的としたマーケティング戦略をしている斡旋業者たち」と無差別に糾弾している。(*参照:Heather Kirk-Davidoff , "Meeting Jesus at the Bar – or How I Learned to Stop Worrying and Love Evangelism" 尚、彼女はヨガも受容している。Emergent Manifesto pp. 34 – 40)

 

なぜだか、著者という著者が、権威をもって聖書の真理を説いている私たち伝道者のことを、良くても「うぶな人」だと考えており、大半は、そういった私たち説教者は「邪悪な動機の持ち主で、そういった人々の動機は脱構築されなければならない」と捉えているのである。

 

ナネッテ・ソーヤー(Nanette Sawyer)は、どのようにして彼女がキリスト教を拒絶するに至ったかを記している。彼女がそうしたのは、クリスチャンが信じるべきとされている諸思想を彼女がもはや信じなくなったからだという。

 

彼女は言う。「例えば、私はこれまで次のような事を教えられてきました。この世界には良い人と悪い人がいる。クリスチャンという種類の人間と、ノン・クリスチャンという種類の人間がいる。そして救われている人と、滅び行く人がいる。そして私たちは誰がどこに属しているかを知っていると。」(Nanette Sawyer, "What Would Huckleberry Do? A Relational Ethic as the Jesus Way" in Emergent Manifesto, 42, 43)

 

おそらく彼女は実際、そのような事を教えられてきたのかもしれない。しかし彼女の言い回しは、保守的なクリスチャンが実際に信じている信仰内容に対する一種のパロディー(風刺)だ。たしかに、この世にはクリスチャンがおり、ノン・クリスチャンがいる。救いに与った人もいれば、失われた人もいる。私たちは福音書の提示する言葉を知ることは可能であり、それに対して確信を持つことができる。

 

しかし私たちは各々の心を知ることはできない。そして誰が実際に主に属しているのかということを確実に知っておられるのは主だけである。また私たちはいわゆる「良い人」が存在するということは信じてはいない(ローマ3:10)。

 

体験主義へ

 

しかしソーヤーは、クリスチャンになるために~~を自分が信じなければならないと言われ続けてきた故に、キリスト教を拒絶したのだという。こうして彼女はその代りに、光輝な「臨在の体験」を求めるようになった。論稿の中で彼女はいかにしてその体験をしたのかを次のように説明している。

 

「にもかかわらず、私はいつも神に出会い、そして人生の中でその神々しい臨在を感じる道を探していました。今日自分がクリスチャンだと言えるのは、実はヒンドゥー教の瞑想教師のおかげなのです。彼女はクリスチャンたちがこれまで教えてくれなかったことを私に教えてくれました。彼女は私に瞑想することを教えてくれ、神の臨在の内に沈黙して座り、その世界に自分を開くことを教えてくれました。」(同著p44)

 

こうして彼女は、聖書が矛盾の書であると非難した上で、「逆説というのは、『高慢に対する解毒剤』である」として、逆説性を奨励している(同著p47)。曰く、私たちがパラドックスを受容するならば、――人々が入らなければならないとされている――各種カテゴリーを作り出す罠に陥らずに済むと。

 

こういった考え方によってもたらされる結果というのは明白である。――そう、それは、「聖書の啓示されている命題的真理をわれわれは知ることができない」、もしくは、自分たちが、「福音という客観的真理に対する信仰ゆえに天国に行く贖われた人々のカテゴリーに入っているのか確信を持つことができない」という結果をもたらすのだ。そしてこれは神学的リベラリズムの顕著な特徴である。

 

多義性・あいまいさ・逆説

 

そして多義性・あいまいさ(ambiguity)や逆説性を愛好しているのはソーヤーだけではない。フラー神学校で教えているバリー・テイラー(Barry Taylor)もまた、従来の信仰の真理主張ならびに、神のために権威をもって〔福音を〕語ることが現在チャレンジを受けている事実に喝采を送っている。(Barry Taylor, "Converting Christianity The End and Beginning of Faith" in Emergent Manifesto 165)

 

テイラーは、論文の中で、「神はどこにもいない。神は今ここに在る」というフレーズを繰り返している。この逆説にはいかなる意味があるのだろう?そう、それは私たちが歴史的な神の観念を断念しなければならないということを意味しているのだ。「21世紀における信仰というのは、排他的に、神の観念に中心を置いているわけではない。」(同書p165)

 

そして彼は尚も「神はどこにもいない。神は今ここに在る」という逆説文を執拗に繰り返し、あたかもこの矛盾が意義深いなにかであるかのように読者に思い込ませようとしている。

 

しかしながらそれが実質的に意味しているのは(私のテイラー説理解によれば)、聖書記者たちを通して、ご自身およびご自身の性質、救済のご計画、倫理的聖意図について描写している、誤りなき御言葉をお語りになった神――この神が、ニーチェ的な意味において「死んだ」ということなのだ(同著p165)

 

そして、客観的には描写し得ないヘーゲル的ジンテーゼ(synthesis;統合命題)を通して、今や何か新しいリアリティーが「イマージング(表出)」してきている、ということなのである。

 

そして、このようにイマージングしてきた「神」について私たちが知り得ることは、自分たちを取り囲む世界で現在出されている問いやニーズから収集される必要があるのだ(同著170)。

 

テイラーによると、「固定し据え付けられた」キリスト教教理の諸カテゴリーというのは、モダニティー(近代性)の過去の遺物に過ぎず、もしもわれわれがポストモダンという灰色の世界に現在住んでおられる神を見い出そうと思うなら、そういった諸カテゴリーは投げ捨てなければならないとされている(同著p169)。

 

もしも、あなたが自分の子を今後フラー神学校に送り出そうと思っておられるのなら、ぜひ一度、テイラー教授の書き物を一読され、実際こういった教育現場で、あなたのお子さんがどのような事を学ぶことになるのか覚悟した上で決断されることを勧めます。

 

【後篇】に続きます。